鎌と闇色
「意外と、やればできるものなのね。伯父様のお世話になるだけにならなくて、本当によかったわ」
「お嬢様の刺繍は、大変細かくお綺麗ですものね。ご婦人方から評判です」
最初は気慰みだった。伯父がイレーネの趣味を思い出して、道具を一揃えしてくれたのだ。ただ世話になるだけが嫌で、必死になった。
ひと針ひと針、何もない布が鮮やかに変化していく。売れた場合は生活費として受け取ってほしいと伝えたら、伯父は困ったような表情をしていた。
「リーゼロッテ。私、なんで生き残っちゃったのかしら」
ふうっ、とカップからのぼる湯気を吹き飛ばしながら言う。
「そのようなことを仰らないでくださいませ」
「だって――ずっと気になっているんだもの」
「……天に召されたご両親のためにも、お嬢様は生きていかなければなりません」
両親は亡くなり、周りに不幸を撒き散らし、伯父の家に厄介になっている。
自分が生きていけば、それだけで人が死ぬのに……。生きるための対価のように、他人がその生を終えていく。そうまでして繋いでいく生に、何の意味があるのだろうか。今こうしている瞬間にも、誰かを死へと誘っているのかもしれないのに。
するりと髪の間を滑る櫛の歯が、地肌にあたる。
「私ね、あの事件のとき――死神に逢ったの」
「お、お嬢様。今、なんと……死神に会ったと?」
リーゼロッテの手が止まる。
背後で密かに硬直する侍女に気が付いているが、イレーネは気にせずカップに口を付ける。この話――死神にも似た何かを見たと、誰かに言うのは初めてだ。
「伯父様にも、憲兵の人にも言っていないわ」
教会で見ることができる本にある姿とは、だいぶ違った。
「それは、本当なのでございましょうか?」
誰も信じてくれないでしょうけどね、とイレーネは続ける。
「真っ黒なの、まるで夜の闇みたいで……」
あの時イレーネの目の前で、真っ赤な色が吹き上がった。
――違う、と何かが口にしたときに。
「大きな鎌を持っていたの」
「鎌、にございますか。それはまた、随分と姿の違う……」
リーゼロッテも教本にある姿を思い浮かべていたのだろう。ひっそりと息をはいて、手を再び動かす。
真っ赤な色。それは鎌すら動かさずに、何かが野盗の首を刎ね飛ばした時のものだった。その瞬間、悲鳴か何かわからないものが口をついて出て、イレーネは意識を手放した。次に目を覚ました時は、病院で医師が自分を気遣わしげに見ていた。
「私はあれを、死神だと思っている。伯父様やおば様には内緒にしてね」
「もちろんでございます」
どうせ彼女が口を滑らせたところで、誰も信じてくれないだろう。ただ伯父たちに、いらぬ心配はかけたくないのだ。死を呼ぶ娘を引き取ったと、口さがない者たちは言うのだから。
どうにか人を遠ざけて、極力関わらないようにして。いずれは伯父の家を継ぐことになる跡取り息子とは、離れへと来てから一度も会っていない。そのお陰か、この離れに身を置いてからは人の死を見ていない。
けれど、それでも、ときどき恐ろしくなる。
言い知れぬ恐怖感は、いつでもつきまとう。
静かに視線を窓へと向ける。ガラスの向こうは深い夜の闇。それを背景にして、あの何かがよぎったような気がした。
――次にあの鎌が振り下ろされる相手は誰だろう。
神様や天使、悪魔に死神。それらはすべて聖書といった物語の中でのみ存在している。魔法だってありはしない。
だから神に奇跡を祈ったところで、どだい意味などないのだ。
「……まだ、首の傷痕がなければよかったのに」
「…………」
主人の姪の身体に関わることに、侍女が口を出すのははばかられるのだろう。リーゼロッテは口をつぐんだ。
ちょっとした愚痴よ、聞き流してちょうだい。イレーネが苦笑しながら言った。
背後で戸惑う侍女はその言葉に、気を取り直して櫛を動かす。今日のお嬢様はどうにも様子がおかしい――リーゼロッテは一人ごちる。昼間来た客人が、他愛もない、しかし当人には看過できない事を口にしたのだろうか?
「やはり、何かございましたか?」
リーゼロッテは意を決して問う。
「その、今日のお客様に、何か……」
「何も。でも、ブランケンハイムの事だから……」
「家、にございますか?」
「あの子に婚約の話が来ているそうよ」
あの子、とはブランケンハイムの嫡男。伯父の息子だ。確かにそういった話が来てもおかしくない年頃だった。近くにいながらイレーネが会うことのない存在。
――死人姫の呪いは、娘に影響がないのだろうか?
テラスで見かけた客人。男の隣に座っていた少女は、可憐な姿だった。
ああ、あの娘が婚約者か。そう思ったとき無意識に羨ましいと思った。婚約することに、ではなく――あたり前に過ごして、あたり前に生きていることに。
「喜ばしい話よ」
そう、祝い事なのだから。
私がいなければね……ひっそりイレーネは思う。恐らくは大なり小なり家のことを調べるはずだ。そこでイレーネのことを知ったのだろう。
「婚約の話は、うまく進んでくれるかしら? もし私のせいであの子が行き遅れになったらどうしましょう」
ただ、それでも屋敷に足を運んだのだから、相手の家は半信半疑だったのだろう。なにしろ、この敷地内での死者はまだ出ていない。
リーゼロッテは何も答えなかった。仕える家の家督問題は、使用人が首を突っ込んでいい問題ではない。せいぜいできることは、聞き耳を立てて仲間内で話をするだけだ。それも品のいいことではないのだが。
「それは使用人のわたくしには何とも……。ですがきっと上手くいきますよ。坊ちゃまはお優しい方ですから」
「あの子は、とてもいい子だわ」
だからなおさら、貧乏くじを引かされないだろうかと思ってしまう。
そう、おばのあの表情。客人を見送ってから、イレーネの様子を見に来たおばの顔。あれは、捨てるに捨てられない物を見たかのような顔だった。
夫の弟の子供、姪。事件で亡くなった弟夫婦。生き残った娘。――その娘は、呪われていて死を招く。家に招きたくなんてなかっただろう。誰だってそうだ。この人間がいると死にます、そう噂されれば近付きたくすらないだろうに。
ただ世話になるだけは嫌だと、刺繍を始めて売ってはいるが、正直、収入は微々たるものだろう。一人で生きていくには不十分すぎる。
「修道院にでも入ればよかったのかしら」
受け入れてくれるかとなると、難しいかもしれないが。
「お嬢様が神に身を捧げるには早うございます」
「問題を起こしていないから、寄付をしても難しいかしら?」
「お嬢様」
リーゼロッテがややきつい声音で咎める。イレーネは問題を起こすわけがないでしょう? と軽い口調で言った。
「伯父様たちに迷惑はかけないわ」
ただでさえ、イレーネがここにいるだけで迷惑をかけているのだから。
「伯父様のお仕事には影響がないみたいだから、まだいいのだけれど」
直接政に関わってはいないが、伯父は外交関係の事務官として方々に出ることが多い。特に元々は商家ということもあって、隣の国の商人組合と太い繋がりがあるらしい。貿易関連では下準備に駆りだされると聞いたことがある。あの事件のとき、直前にイレーネが行った先は伯父に縁のある店だった。
「旦那様はそのような噂に惑わされたりはいたしません」
「だから厄介者を引き受けることにしたんでしょうね」
「ですから、お嬢様。そのようにご自身を下卑してはなりません」
「そうは言ってもね、リーゼロッテ。やっぱり私は普通と違うのよ」
「それはお嬢様をご存じない方々が、勝手に言っていること。噂話に振り回されるどころか、自ら撒く方は信用なりません」
そっと首をひねって、後ろの侍女を仰ぎ見る。
侍女は眉根を寄せて、厳しい表情でイレーネを見ていた。
「噂は、事実ではありません。しかもお嬢様のような年頃の女性を死人などと呼ぶとは、神経を疑います」
「みんな噂が好きなのね」
ゴシップと呼ばれるものだ。どこの家の主人が妾を作った、どこの家の令嬢が行儀見習い先で王子のお手付きになった、どこのご令息が薬師なっただの――。前はイレーネも聞き手でいた側だ。
聞いているだけならばどれほどよかっただろうか。渦中にならないからこそ、噂は話し聞くことができるのだ。
息が詰まる。華やかで煌びやかな、着飾った人々の虚栄の場所。
あの日以来、イレーネは茶会や夜会にいっさい顔を出さなくなった。
どんな噂話が流れているのだろう。引き篭もった令嬢に、それを否定する機会もないし、イレーネには否定できない。
人は、確かに死んでいるのだから。
もしかしたら、リーゼロッテも何か言われているのではないのだろうか? 彼女だって子爵家の令嬢だ。本人は貧乏な下級貴族と言っているが……。貴族の集まりにまったく出ないわけじゃない。
死人姫の側にいて、未だ生きている人間。ある意味で話題の人物だろう。
後ろに髪がひかれる。軽くねじるように纏められた髪が、肩に置かれた。
「お嬢様、終わりましたよ」
両の手のひらの中で、冷めたカップを回すように揺らす。中の液体はもうない。カップの底に溜まった澱だけが、ゆっくりと動いていた。
「リーゼロッテ、ありがとう」
白磁のカップを手渡して、イレーネは立ち上がる。
「灯りは……悪いのだけれど、消しに来てくれるかしら?」
燭台の炎――ゆらゆらとした動きに、部屋そのものが揺れているような錯覚に陥る。真っ直ぐに立っていられない。
「はい。お嬢様がお休みになられましたら、わたくしが消しにまいります」
天蓋の、薄いレースを捲る。寝台はすっかり冷たくなっていた。
暖まるはずの自分が寝具を逆に暖めている様で少しおかしな気分だ。リーゼロッテが毛布をかけ直す。
「お嬢様。わたくしは失礼いたします。御用がありましたらベルを鳴らしてお呼びください」
声は聞こえど、音は鳴らさず。侍女は静かに部屋からいなくなった。
微かに明るい部屋だ。目を閉じれば同じように暗闇になるというのに、どうしても灯りは消せない。
窓の外、暗闇の世界。
――闇色の何か。
あれは本当に死神なのだろうか。
――違う、その言葉は確かにあの何かの声だった。実際はどこから言葉を発していたのか、まったくわからなかったのだけれど。彼の人物から発せられていた気がする。
それも、酷く動揺していたような……。
のろのろと指先が首筋を這うように、傷痕の膨らみに触れ、指の腹で押した。
痛みもなく、ただただ指で押しただけの感触。
爪を立てて押しつぶす。チクリとするがそれだけ。皮膚が引きつる。
どうしたら、死ねるのだろうか。もっと強く、爪で引っかけばいいのだろうか。傷口を爪で何度か引っかいてみる。くすぐるような感触が――ぷつんと切れる。ぬるり、と指先が湿った。
恐るおそる指先を見れば赤い色。首筋に垂れているのだろう、伝う液体にざわざわと背筋が粟立つ。血が出た。間違いようもなく、自分の――あの傷痕から。新しく出来た傷口をイレーネは優しく押さえる。
ほら、ちゃんと血が流れるじゃない。死人姫なら、血なんて出ない。だって、死人、死んでいるはずなのだから。
指先の生きている色を、イレーネはもう一度見る。少しあたたかい。
赤く濡れた指先の、天蓋のレース、その薄い霞みの向こう。闇夜が広がる。
夜の闇。その中に浮かぶ星。その光が――二つの光、闇色の何か。
銀色の大きな鎌。足はあった。けれど足音はしていなかった。闇色のコートが広がる。細身の何か、顔はわかない。光が二つ。
――お前の名前は。
――違う。
不明瞭な声が、イレーネの耳に響いた。
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