代償と嘲笑
婚姻関係は、ごく自然に国家間に橋を繋ぐことができる。
それに……ハインツがまだアレに気が付いていないとしたら、連中はそうとうに上手く動いている。
それともわざとか。流通を潰すことに躍起になっていると印象付けるために、目立つ行動を取らせているとしたら……。まさかすでに王宮内部に侵食が始まっているのか? 女官の上部は母の目がある以上大丈夫だと思いたいが……。官僚たちに秘密裏に調査を入れさせたほうがいいか。
――これは荒れる予感しかしない。
ぼんやりと天井を見つめたまま、ヴィクトールは思う。
ドゥーツェ帝国。鉱山都市を複数持つ大国。戦好きなことでも知られている皇帝が、虎視眈々とこちらを窺っている。戦という大掛かりなことを喜々として行うくせに、その下準備は驚くほど細かいと調べがついている。
気がついた時には自国の都市が一つ、帝国の軍事拠点となっていた――。
そんな恐ろしいことが実際に起こり得るのだ。
そして今この国は、さぞや忍び込みやすいだろう。しかもやっかいな男が一人動いている、と影から報告が上がっている以上看過できない。
――帝国軍、第一部隊隊長。ライナス。
ライナス三世――帝国で反逆を許された唯一の名前を持つ男。
帝国軍も、基本はレーベンタールと同じく兵士と呼ぶ。ただ、第一部隊だけが騎士と名乗っている。その理由がどんなものなのかは、未だ誰も知らない。
寝汗とはまた違う、ひやりとした汗が首を伝う。
彼が動いているのなら、狙うは一体どこからだ。
そもそもヴェルツェルの外交事務官を狙ったのは何故だ。
おかしい。
帝国が戦争を仕掛ける下準備にしても、ヴェルツェル国との物流を潰すためにヴェルツェルの外交事務官を殺す必要性はないはずだ。険悪な関係性を作り、逆に互いの国が監視を強めるだけだろうに。
実際に今、レーベンタールとヴェルツェルは話し合いの場として、以前よりも密に連絡を取り合う状況になっている。ハインツの話によると、かなり邪険にはされているらしいが、完全に窓口を塞ぐようなことはされていない。
それに向こうの国とて、指を咥えて見ているだけではないはずだ。独自に調査を行っているのは、充分に考えられる。
だとすれば、いずれフェリクスの悪癖の詳細すら手に入れる可能性は高い。
しばらくは王宮とその敷地内で留めておくにしても、フェリクスがどこまで我慢できるか。この際、弟の悪癖が他国に流れるのは諦めるにしても、それを増やす事案は避けなければならない。
フェリクスが素直に大人しくしてくれる性格でないのが痛い。
第三妃をけしかけるしかないか……。あの猫かぶりの女の化粧の匂いには、気持ちが悪くなってくる。甘ったるい、鼻につく独特の匂い。
クリストフと令嬢の婚姻は、恐らく上手くいく。と言うか、令嬢にとっては悪い話ではない以上、後見人となっているブランケンハイム氏が背中を押すはずだ。
婚姻相手の伯爵は、王子の護衛で負傷し醜い姿になってしまった。よって社交界といったものには無縁であり、無理に出る必要性はない。そして屋敷は王都の外れ。よほど社交場が好きで、自らが夜会を催すような性格でない限り、煩わしい付き合いを一切求められない。
嫌な噂に心身共に疲弊しているとしたら……この話には乗る。
そして令嬢がこの国に嫁げば、令嬢の様子を報告すると言う名目で、令嬢の叔父で外交官でもある氏への連絡が容易になる。
ヴィクトールは向こうが提示するであろう条件は、すべて呑むと決めている。そうでなければ相手は納得しないだろうし、酷い話だが割に合わないはずだ。
すべては今の状況で、隣国との連絡手段をなくしたくない一身だ。
ヴィクトールの母はシェフルド国の王女ではあるが、自由には動けない。平時ならばいざ知らず、帝国の影がちらつく今なら手紙のやり取りすら一部は検閲が入る。
いざ有事になれば、母の母国も国の規模としては小さい、万に一つの事態になれば切り捨てる選択も視野に検討がなされることは容易に想像がつく。
――ままならないものだ。
口の中で一人ごちる。
「ヴィクトール殿下、夜分に失礼致します」
女の小さな声が、薄暗がりに響く。
視線だけを窓際に向けると、暗闇とは違う影が揺らめく。床に片膝をつけ、頭を垂れた第一王妃につけている『影』がいた。
「掌中の珠が騒いだか?」
隠し言葉は真逆の意味。外から嘴でつつかれると困る存在でもあるフェリクスへ、ヴィクトールからの最上の皮肉を込めた呼び名。
「いえ。国花から、先日の回答を得られたので取り急ぎご連絡に参りました」
ヴィクトールは首を動かし影を見た。
「報告を」
「殿下の考えの通りだった――とのことです」
「分かった、国花にありがとうと伝えてくれ」
実際にそう予想をしたのはハインツなのだが、それを言う必要は今はない。
「承知しました。それとこちらは国花より私事の言伝になります。夜に眠れないのなら、必ず午睡の時間をとりなさい。わたくしはあなたの体が心配でなりません。――以上になります」
「……あの人はどこまで掴んでいるんだ、一体」
思わず、ヴィクトールはこめかみに指を押し当て揉み解す。
母も母で独自の情報網を持っている。女のドレスは武装したも同じ、そう豪語していたのをヴィクトールは思い出した。
「殿下、これは私の独り言です。お目こぼしを。……徒花の種ですが、裏口の扉が開いているようでございます。胸焼けするほど甘い香りの茶葉を仕入れ、他の貴族家や庶民にも売りさばいているようです」
「茶葉だと? なんでそんな物を」
「申し訳ございません、まだ調べがついておりません。手に入れようにも各家に渡る物がごく少量、我らが調べる頃にはすでに使われた後で、何も出てきませんでした」
「私の方からは何も聞いていないぞ」
ヴィクトールの声に、僅かに含まれる怒気に影が身を竦める。自分の配下からの報告がなく、他の影から聞かされるとはどういう事だ。
「申し訳ございません。これは私の独り言にございます。隊長からは確実な証拠が出るまでは、殿下にお伝えしないよう口止めを受けておりました」
ヴィクトールの性格もあってか、影の中でもことさら慎重に行動する配下たちだ。分かってはいるものの、ため息がでてくる。
恐らくヴィクトールの今のこの状況に、頭を悩ませる事を極力増やさないように配慮していたのだろう。
分かってはいるが、腹は立つ。
「……分かった。私の方には処罰はしない、鋭意調査を頼む」
「御意に」
が――この影は、時折こうして話をわざと洩らすのだから腹を立てても仕方がないと諦めるより他はない。
「掌中の珠はどうしている?」
「……先だって、街娘に手を出して以降は食指を民に向けてはおりません。現在は国花の意向を受けた女将の命で就いた、石女の女給に熱を上げております。自身の寝所に連れ込むほどですので、当面の被害者は避けられるかと」
「そうか……その女給には苦労をかけることになりそうだな」
子を産めなくしたのか、それとも元からの体質か。どちらにしろ王妃の意向ははっきりしている。跡継ぎ騒動は不要ということか。
こういったとき、母の決断に澱みはない。ヴィクトールにはそれが少し、羨ましくもある。
「一時とは言え花街で頂点に立ったことのある女性ですので、そのあたりは心配ないかと」
「そう……ん? 今なんと」
明らかに女給としては出てこないであろう単語に、ヴィクトールは聞き返す。
しかし影から出てきた言葉は同じもので。怪訝な顔で影を見ても、薄暗い事も手伝って目元以外を隠した姿に表情の変化がわからない。
「ああ、うん。国花の意向は理解した。一つ国花に検討してもらいたいことがある。掌中の珠を極力敷地の外に出さないようにできるだろうか? と」
「承知しました。他にはございますか?」
ない。そう言おうとしてヴィクトールは口を閉じた。しばし逡巡して、言葉を発する。
「異形の魔法使いはどうしている?」
「……殿下、現在心拍数は安定しておられますでしょうか? 出来ることならば、寝台に横になり、心を落ち着けてからお聞きになられるほうがよろしいかと」
「待て待て待て何があった!?」
唐突な影の進言に、ヴィクトールは外聞すら忘れて声を上げる。
「そのままの意味にございます」
影はどこ吹く風と涼しい様子。
威圧もこめてヴィクトールが睨んでも、その姿勢を崩す様子はなく。結局折れたのはヴィクトールの方だった。
行動に移さないと決して口を開かないのも、これまでの経験で身に染みている。のそりと身を起こし、寝汗で湿った感触の寝台に身を横たえる。影はヴィクトールが寝台で確かに横になったのを確認し、わざわざ天蓋の薄いレースを引いてから静かに報告を始めた。
「……それで、何があったんだ?」
「先日、ご友人が面会に窺った際に、首を切っておられました。その前は森の木から飛び降りを、さらに……」
「いや、分かった。そちらの報告はいい」
「畏まりました。ご友人の手より近日中に報告書が届くかと思われますが、件の襲撃事件の話、入水自殺をする場所を探しに水路を歩いていた時に知ったそうです」
「何でだよ!」
頭を抱えたくなった。ヴィクトールは自分が考えた予測が、まさかこのタイミングで当たっているとは知りたくはなかった。やはりクリストフは入水自殺を考えていた。
――アイツ、自分が水に沈むとか本気で思ってないよな?
ほんの少し不安になってくるヴィクトールだった。
「それと、本日は自殺行為を行っておりません。朝からあの侍女に、屋敷の修繕の手配を命じておりました」
「今日は自殺はしていないのか……」
ほっとする所の話ではないのだが、ヴィクトールは安堵のため息をついた。
と同時に、ハインツの報告を思い出す。先日、クリストフの屋敷に向かった足でヴィクトールの元に来たハインツ。
彼はクリストフが今回の婚姻を承諾したと伝えた。入水自殺の話はしていなかったが……。
まあいい。少なくとも、クリストフは受け入れる準備を始めたという事か。あの屋敷はクリストフを迎えるにあたって、ヴィクトールがある程度だが手を入れた。それでも急ごしらえの感はあったのだが……。それに手を加えるのか。
――死ねる希望が、そんなにも嬉しいのか? クリストフ。
「異形の魔法使いに関して、目立った報告は以上になります」
「ご苦労。下がっていい」
「御意に」
影は物音すら立てない上に、外側から窓の内鍵をかける手業はどうなのかとも思う。これでは暗殺など簡単に行えることだろう。
遠く雷鳴が響いた。
――雨が降るのだろうか?
クリストフが了承したのだから、これからは迅速に行動しないとならない。ブランケンハイム氏とは既に手紙のやり取りを行っている。あまり色よい返事ではないが、その紙面の文字の端々に、姪である令嬢を気遣う言葉がちりばめられている。
弟の娘を思う兄、か――。ヴィクトールとは真逆だ。自分たち兄弟がそんな関係にまでなることは、まずないのだろう。
嘘は、入れていない。
クリストフが醜い姿になってしまったのは事実で、恩賞によって爵位を得ているし、社交界に出入りしていないことも。
嘘は……何一つ、ついていない。
ただ、訊かれていないから、問われていないから、伝えていないだけ。
意図的に隠す。
異形となった彼と共に歩むことが出来ない自分にできること。ハインツは随分と感情的にクリストフに接していた。人の死を、誰かが傷つくことにことさら敏感な侯爵家嫡男。
それを優しさと見るか、臆病と受け取るか。ヴィクトールは随分昔に、置いてきてしまったことだ。
だから……これはきっと代償行為でしかないのだ。
遠い昔に喪った、幼い友人の代わり。
ハインツがヴィクトールの行動を知ったら、きっともっと怒るのだろうな……。
悪いのはすべて自分だ。罪の全てを背負うから、どうか上手く行って欲しい。
クリストフを騙し、令嬢を騙し、ましてやその伯父すらも煙に巻く。
声に出さずに嗤う。
ああ、やはり自分は酷い人間だ――。
深く枕に頭を沈めて、ヴィクトールは静かに嘲笑した。
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