■01・故に姫は死人と云う
イレーネは無意識に首筋を触った。
指先が微かな膨らみにあたる。やわらかく、けれど温かなそれは、本来ならばそこにあるべきものではなかった。滑らかな肌のみが存在するであろう場所にある、忌み嫌われる痕。夜着に隠されていないみみず腫れのような細い傷は、イレーネの首をぐるりと一周していた。
まるで、首を絞められたか首を切られた痕のようだ。この傷痕を、イレーネはことさら嫌っていた。自分の、もう一つの呼び名を象徴するものだから。その呼び名がこの痕とピタリと合い過ぎているからこそ、余計に厭だった。
――死人姫。
それがイレーネのもう一つの呼び名だ。
天蓋のレース越しに、おぼろげな部屋の中を見回す。ここは自分の屋敷ではない。伯父夫妻の屋敷の離れに、イレーネが身を置いてから半年が経った。伯父は母屋の部屋を勧めたが、イレーネはそれを断った。伯父の妻の表情が強張っていたのに気が付いていたからだ。
ただでさえ厄介な噂が付き纏った娘を、進んで引き取ろうとするわけがない。自分がおばの立場ならば、態度に出さずとも思うものだ。だからおばを責める気にはならない。世話になる伯父の家に災厄を起こしたくない。それはイレーネの心からの願いだから。
自分にかかわる人間が相次いで亡くなるようになったのは、イレーネがこの傷痕を作ってからだ。家族を伴い父の仕事について行った帰り、馬車の車輪が壊れたのか道半ばで止まった。その時に野盗に襲われた。耳に入ってくる怒号に悲鳴、そして何かの破壊音。馬が鳴いていた。父が緊張した面持ちで剣を持ち、外へと出て……そして戻ってこなかった。馬車の扉を打ち破り身なりの汚い男が……イレーネを隠すように前へ立った母が表へと引き摺り出され、そしてイレーネは……自分は、あの時、初めて本気で神へと祈った。そして――
神は存在しないのだと、理解した。
そっと息をはく。
外は既に暗闇だ。あの時見たのは、そう、暗闇だった。闇色のぼろきれのようなコートで全身を包んだ、細身の何か。フードの中は暗く昏い、けれどその中にあった、瞳のような白い二つの光だけが強烈に記憶に残っていた。
――お前の名前は?
細身の何かは鎌を持っていた。白銀の大きな鎌を、まるで刈るようにイレーネの首にあてて。
大きく目を見開いて、イレーネはその何かを凝視した。
何か、何か声を出そうと、震える唇を動かそうと――
ゆらりと部屋の空気が、燭台の炎と共に揺れた。扉を叩く音に続いて、控えめな声がした。
「お嬢様。イレーネお嬢様。リーゼロッテにございます」
「どうしたの? リーゼロッテ」
のろのろと寝台から降りて、イレーネは扉を開いた。小柄な侍女が現れる。
リーゼロッテはイレーネを落ち着かせるように微笑むと、手に持った銀のトレーを見せた。かたりと音が鳴る。
「お水をお持ちいたしました、お嬢様」
廊下の燭台の灯りが、磨かれた銀のトレーに自分の顔を写り込ませた。酷い顔だ。ただでさえ嫌な汗をかいて気持ちが悪いのに。顔が青白い。イレーネもぎこちなく微笑み返して、リーゼロッテを室内へと入れる。
淡い灯りに侍女の横顔が浮かぶ。肌艶のいい顔、なだらかな頬、纏められた栗色の髪の柔らかさをイレーネは知っている。
隔絶されたイレーネの世界で、まるで切り取ったかのように、そこだけ現実が動いていた。
元は伯父に仕えていた騎士の妹で、屋敷で使用人をしていた。
リーゼロッテはイレーネの侍女として、身の回りで世話を焼く。本来なら、身の危険とは縁遠いはずだったろうに、何の因果か自分の侍女だ。しかし彼女がいなければ、イレーネは言葉を交わす相手すらいなかったかもしれない。
「お嬢様、明日はどうなさいますか?」
小さいけれどはっきりとした瞳を細め、侍女は人懐っこい笑みを見せる。今の自分の顔色に気付いてはいるだろうが、あえてそれに触れてこないことにイレーネは胸を撫で下ろした。これが伯父やおばになるとこうはいかない。
「明日の午前中には、新しい生地が届きますのでそちらの確認になりますが……」
「そうね、朝は少し庭のお手入れを手伝おうかしら。テオドールは良いって言ってくれるかしら?」
お任せください、とリーゼロッテは胸を張る。リーゼロッテとテオドールは兄弟だ。よって伯父に仕えていた騎士というのが、彼女の兄でテオドールになる。笑うと二人はよく似ている。今彼は、伯父の屋敷の庭師として出入りしている。母屋から離れへの庭は広いのだが、彼はもっぱらイレーネの過ごす離れ付近の庭の手入れをしていた。
「お兄様にはよーく言いつけておきますので!」
「言いつけるって、リーゼロッテったら」
「事実にございますよ」
自信満々なその様子に、思わず笑ってしまう。
「相変わらず仲がいいのね、うらやましいわ」
イレーネに兄弟はいない。だから純粋にそう思う。そう言うと、兄弟などいいものじゃないと、皆口を揃えて言うのだけれど……。
「そのようにいいものではありませんのに……。では、明日は作業のしやすいお支度をご用意いたします」
「ええ、お願い」
困ったような表情でリーゼロッテは、予想通りの言葉を言った。それからほんの少し躊躇うようにイレーネに問う。
「お嬢様、灯りは、いかが致しましょうか?」
「……そうね」
ふ、とイレーネの表情が暗くなる。視線の先にある小さな燭台。炎が揺れると、影が生き物のように動く。以前は平気だったのに、今は無理だ。暗闇が怖い、夜が怖い。闇色の何か、二つの光、大きな鎌。それが来る。
イレーネは両腕で自分を抱きしめるようにして、だめ――と小さく言った。
「お嬢様、どうか落ち着いてくださいませ」
「……ごめんなさい」
聞こえた声が、震えていた。気が付けば寒気を感じたように、身体も震える。
灯りは、火は、消さなければならない。今消さなければ、彼女は夜半に消しに来なくてはならないのだから。
それが役目だとリーゼロッテは言う。確かにそうなのだけれど……。
「リーゼロッテ……」
目の前に、リーゼロッテの姿がある。心配そうな顔でこちらを見ている。
「人は」
そっと、恐々と、彼女が自分の身体を擦る。大丈夫だ、そう言うように。
「人は――」そこまで言って、イレーネは口ごもる。
そこから先を言っていいのだろうか。けれど、イレーネが顔色を気にせず言える相手は、彼女しかいない。
「人は死んだら、どこに行くのかしら?」
あれ以来、気になっていた。イレーネは神がいないとあの瞬間に思った。だから、神のいない世界で、死んだ者がどこへ逝くのか見当もつかない。
父も、母も。そして、いずれは自分も。
「お嬢様。亡くなられた方は、神のみもとへ、天へと召されるのですよ」
そう、それは知っている。子供の頃からさんざん聞いていた。当たり前のように、それが当然というように、信じていた。けれどイレーネは、それが幻想であると知っている。破壊音、悲鳴、金臭い匂い。そして、そして――
「死神は、存在するのかしら?」
そこにはいないはずの闇色の何かが、視界に入った気がした。夢なのか、幻なのか。それともそれは現実か。
ひっ、とリーゼロッテが息を呑む。
「お、お嬢様……。そのような恐ろしい存在を、口にしてはなりません」
「リーゼロッテ。私、気になるの」
以前行った教会で、神父が言っていた。
死はすべての者に等しく平等に訪れると――。
幸せではないのかと、イレーネは訊いた。そのとき神父は悲しそうに微笑んだ気がした。あの意味が、今ならわかる気がする。きっと、そう。あの神父は親しい誰かを喪っている。
「お嬢様。どなたかに、何か、言われたのでございますか?」
「……誰も、何も」
「ですが、そのような事を口になさるなど」
「どうして死神は口にしてはいけないのかしら」
心の底はおかしくて、イレーネは唇だけを歪ませ笑う。なぜ、アレは禁句なのだろうか、と。
「名を口にすれば、彼の者は命を刈り取りにやってくると言われております」
「なら、私の……」
父と母の命を刈り取ったのは、誰だというのか? 死神を呼んだのは誰だ。
運が悪かった。その一言で済ますには、あまりにも偶然がすぎる。野盗は全員死んだというのに、なぜ荷物はすべて無くなっているのか。
「お嬢様」
イレーネは頭を振った。
頭のなかに、いや、記憶にこびりついたあの光景は未だ鮮明に残っている。
――違う。
誰が発したのかわからない、この言葉の意味は何なのだろうか。
何が違うというのだろうか。手違いで死んだというのなら、これほど腹が立つこともない。自分だけが生かされて、両親は死んで。これほどの忌み事を背負うぐらいなら、一緒に連れて逝ってほしかった。
壊れた馬車、投げ出され、うち捨てられた死体――それはどれもこれも知っている人たちで、その中に立っていたのはきっと死神で。彼の周りには、野盗と思しき身なりの男達がピクリともせず倒れていた。悲鳴なんてでなかった。頭がその光景を処理するだけでいっぱいで。
死神は存在するのだろう。そしてイレーネはその鎌から逃れたかわりに、呪いを受けた。自分の近くに存在する者が死ぬ呪いを。伯父の後見を受け、新たに住み始めた屋敷で雇った者たちが、次々と死んだのだから。
「リーゼロッテは、身体におかしなところはない?」
「ございません。わたくしは健康だけが取り得にございます、お嬢様。ですから安心なさってください。わたくしは、お嬢様のお側におります」
「そう、そうよね」
「ええ、そうでございます」
最初に死んだのは、イレーネの侍女だった。朝、なかなか部屋に来なかった彼女は、自室のベッドで冷たくなっていた。次は階段から落ちた使用人の男の子、その次はキッチンで倒れた料理人。それから、それから――
雇うたびに、人が死んだ。
立て続けに起きる事態に、周りの人たちは嫌がおうにも噂をしはじめる。そして出たのが――死人姫。イレーネは侍女の顔を見た。リーゼロッテは真っ直ぐに自分を見ていて、その視線の居た堪れなさに目を伏せる。
「お嬢様、椅子にお座りになってください。少しお身体が冷えたように思います、温かいお飲み物をお持ちしますので、しばしお待ちくださいませ」
リーゼロッテはやや強引に、花の刺繍が美麗な、布張りの椅子に腰を下ろすように促した。イレーネが座ったのを確かめてから、すばやくキッチンへと向かう。
炎の揺れに、影が動いた。きっと今、この部屋の扉を開ければ、幽鬼のような娘の姿が見られただろう。首にある一筋の傷。この世ならざる姿が垣間見える、僅かな時間。確かに今、この瞬間だけは、イレーネを死人姫と呼ぶに相応しいのかもしれない。幸か不幸か、その姿を見ることができたのは侍女だけだ。
「お嬢様。さあ、こちらを召し上がって、身体を温めてください」
「ありがとう。……ねえ、リーゼロッテ。少し、髪を梳いてくれないかしら?」
そうですね、少し御髪が乱れておりますね。呟くように言って、彼女はすぐに櫛を取り出す。
髪を後ろに流すとき、侍女の指がイレーネの首筋に触れる。ピクリと跳ねた肩に、侍女は小さく詫びた。痛みはないが、やはり気になってしまう。
イレーネの髪は、母親譲りのブルネットだ。茶色い瞳は父親の色を継いだ。ちなみに目じりが下がり気味なのも父と一緒だった。父は息子だったら気が弱そうに見えるから、娘でよかったと苦笑していた。ほっそりとした指先は、針仕事で傷がある。手先の器用さは祖母から受け継いだのだろうか。今はそれがありがたかった。
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