背中を押してくれたのは
* キルトフリューグ=ソーディア=ラーゲンベルク *
お屋敷を出れば複数の視線が突き刺さる。もう、監視していることを隠そうともしていない。
三大公爵家の当主である父は、この3日は家に帰っていない。父からの伝言は「重要な内容を伝えることはできない。おそらく伝言のすべても見られているだろう。要所要所においては自らの判断で動くこと」というものだった。
これでは戦時だ。
クラウンザード第1王子の閲兵式もどきのパフォーマンス、ジュエルザード第3王子がドラッヘンブルク伯爵を味方につけたパフォーマンス。
あれから1か月近くが経っていた。
そして、
「心配でございますね……陛下のご容態は」
キールのお屋敷の執事が言っているのは、典医から発表された「国王陛下危篤」という情報のことだろう。これは高位貴族にのみ知らされた極秘情報ではあったが、
「はい。お父様もお忙しくなさっていますね」
そのせいで緊張の糸はギリギリまで張り詰められていた。
立太子が済んでいない今、国王が崩御すればどうなるのか——国を二分した戦いになる可能性がある。そうでなくとも、貴族街でちょっとしたいざこざでも起きればそれを引き金に人死にが何人も出るような紛争になるかもしれない。
キールが開いていた「勉強会」すらも取りやめとなったのでロイヤルスクールの生徒たちはみんなお屋敷に籠もっているはずだ。
「公爵様は本日もお戻りにならないそうです……」
「ヴィルカントベルクとクラストベルクとの協議が長引いている、と」
「そのようです」
立太子さえできれば最悪の事態は回避できる。そのためにキールの父は三大公爵家の当主同士で集まって協議をしている。「順当に行けば第1王子が王太子で決まり」なんていう単純な話にはならない。第1王子は過去の放蕩ぶりが尾を引いており、キールの父は第3王子を推している。だが第3王子はロイヤルスクールを卒業したばかりで貴族としての振るまいはまだまだ未知数。
せめてあと3年あれば……とはキールの父がこぼした言葉だった。
ドラッヘンブルク伯爵との会合はキールの父が陰ながらセッティングしたことだったが、この事実は完璧に秘匿されており、キールの父と伯爵本人、そしてキールしか知らないことだった。そう、第3王子すら知らない。
「キルトフリューグ様、本日はジュエルザード殿下の王宮へ行かれてはいかがでしょうか?」
「急にどうしたのです」
ここでキールが第3王子に会いに行けば政治的な動きにしか見えない。
「クラストベルクのフローリア嬢は3日と空けずクラウンザード殿下の王宮へと顔を出しているそうで……」
「それとこれとは話が別です」
フローリアがクラウンザードにベタ惚れだというのは周知の事実であり、公爵自身が「あれは政治から距離を置かせる」と明言したのでお目こぼしされている。
(うまくやったものです)
色恋沙汰に話をすり替えたのだ。キールとしては、クラストベルク家の令嬢が第1王子に重要な情報を伝えているに違いないと見ている。もちろん、好き嫌いで言えば大好きなのだろうけれど。
「話は別ですが……ジュエルザード殿下が今日は『どうしても』と」
「!」
執事は声を潜めて伝えてきた。
このタイミングでジュエルザードが「どうしても来てくれ」と言っている。
なにかがあるのだ。
「初物の柑子が領地より届きました。これをお届けするというのはいかがでしょうか」
「ふう……言い訳がなにもないよりはいいですね」
執事がさっと取り出したのは丸々とした、はち切れんばかりのオレンジ色。かぐわしい柑橘の香りが漂ってきた。
キールはそれを手に取って香りを嗅ぐと、
「行きましょう」
イスから立ち上がった。
雪が降っていた。
王宮に続く道は、例年ならば雪なんて降ろうとひっきりなしに馬車が通って石畳が見えているはずなのに、今ばかりは幾筋かの轍があるだけで白く雪が積もっていた。
馬車から降りるとキールの口からもわんと白い息が漏れた。
寒い。
でも、室内は段違いに温められているので外套どころか上着すら要らないと思えるほど。
第3王子ジュエルザードの私室には、珍しくジュエルザード本人しかいなかった。
「お兄様、お呼びでしょうか——」
言いかけたキールはハッとした。
最後に会ったのがドラッヘンブルク伯爵との面会時だったので、1か月近く会わなかったことになる。
その間になにがあったのだろう、顔色は悪く、頬はこけている。
「ん? ああ……最近はちょっと疲れが溜まっていてね。わかるだろう?」
「……はい。お察しいたします。今日は公爵家所領にて初物の柑子が収穫されましたのでそれをお持ちしました」
「柑子か、ありがとう。是非いただこう……」
「…………」
キールですら監視の目を感じ、お屋敷から出ることすらほとんどないのだ。ジュエルザードに至ってはそれよりはるかに大きな重圧が掛かっていることだろう。
「そう心配そうな顔をしないでおくれ。私はお前に負担を掛けたいとは思わない……だが結果的にそうなってしまっている。本来ならロイヤルスクールで勉強でもしているはずなのに」
「いいえ、これが国の未来に関わることでしたらなんの苦労も感じません」
「…………」
ジュエルザードは窓から外を見やった。雪がちらつく庭は寒々しい。春になれば新芽が出るだろうけれどそんな光景は想像もできないほどだ。
「……キール。ここから先はもう引き返せない道だ。お前は心底から、私が立太子されたら良いと思っているかい?」
「はい」
即答した。
キールはこの兄が清廉さと聡明さ、そして勇気を兼ね備えていることを知っている。
「ではクラウンザード殿下は?」
「失礼ながら……あの御方は不向きでしょう」
「なぜ?」
「以前の振る舞いは目に余るものがありました」
クラウンザード第1王子の浪費癖はキールも知っているし、ただのウワサや悪口ではなく実感として知っている。キールが訪れた、公爵家御用達の宝飾品工房にクラウンザードが取り巻きを引き連れてやってきたことがあった。そこで彼はむちゃくちゃな注文をしたのだ。1メートルを超える飛竜の純金像を造れとか、拳ほどの大きさがあるダイヤモンドを売れとか。およそ愚にもつかないような内容ではあったが、工房にとっては相手は王族だ。恐れ入ってなにもできないでいるところへキールは間に入った。
——失礼ながら殿下、彼らにもできることとできないことがございます。
当時10歳だったキールはクラウンザードににらまれたが、彼は取り巻きから「ラーゲンベルク公爵令息です」と囁かれるとツバを吐いて工房を出て行った。
後になって、そんなクラウンザードの振る舞いは「他国の王家が作ったというウワサを聞いて、それら宝飾品を超えるものを所有したい」なんていう欲求から来たものだと知ってますます軽蔑した。
「クラウンザード殿下は己を省みて振る舞いを正したというよ。人には反省の機会があっていい」
「そうかもしれませんが、少なくとも私はこの目で見て、耳で聞いて、殿下の現在を判断したわけではありませんので」
「なるほど。それもそうだ……貴族たちもみんなキールのように自分で考えて判断してくれれば良いのだが」
ジュエルザードの言葉には含みがあった。
第1王子のほうが優勢なのだろう。貴族たちは「自分で考えて判断」するどころかウワサ話が大好きだし、座右の銘が「寄らば大樹の陰」なんて者もいる。
第1王子の派閥に大貴族がついているのならば、リスクを取って第3王子を推す必要もない。慣例通りなら長兄が立太子されるのだし。
「キール、私はね……これほどの混乱が続くのならば立太子されるのはクラウンザード殿下でもいいのではないかとも考えたんだ」
「そんな!」
「クラウンザード殿下にもの申せるのは近い立場の者しかいない。私は王家の籍を外れても良いから、彼を正しい道に導く者として動くことが、この混乱を収める最も単純な方法ではないかと思ったんだ」
「…………」
一理ある、とは思った。だが「王家の籍を外れる」というのは簡単ではない。それは手続きの難易度ではなく、心の問題だ。
痛烈なまでの屈辱を感じるだろう。
生活も、周囲からの目も、すべてが変わる。
ジュエルザードがそれを軽く見ているわけではないことは伝わってくる。そうまでしても、この混乱を収めるべきだと彼は考えているのだ。
(それほどまで事態は切迫しているのですか……!)
キールも、「一歩間違えたら内戦」とは考えていたが、それでも心のどこかでは「さすがにそうはならないだろう」と思っていた。
貴族たちもそこまでバカではないと。
けれどジュエルザードは違うのだ。内戦を現実のものとして捉え、自らが王族でなくなることも手段のひとつとして考えてこの混乱を収めたいと願っている。
(……なればこそ、ではありませんか?)
キールは思う。
(なればこそ、あなたが王になるべきでしょう!)
自らを捨ててもなお混乱を収めようと考えられるジュエルザードが王になるべきだ。
「——キール、そんな、今にも噛みつきそうな目をしないでくれ」
苦笑いしたジュエルザードは、どうどう、と興奮する馬を落ち着かせるように手をひらひらさせる。
「お茶を淹れよう」
ちりん、とベルを鳴らすと侍従がやってきてお茶の用意がされる。
キールが持って来た柑子もいくつか大皿に積まれ、柑橘の良い香りを放つ。
テーブルについたジュエルザードがティーカップを取ったのを見て、キールもまたお茶を飲んだ。気づけば喉が渇いていた。
「すまないね、キール。さっきの話は……『つい先日までそう考えたこともあった』という打ち明け話なんだ」
「……とおっしゃいますと?」
ジュエルザードがわざわざ自分を今日呼んだのは「後継者レースから降ります」という宣言をするためではないか、とキールは思ってしまっていた。
「考えを改めたんだ。ドラッヘンブルク伯爵を巻き込み、多くの仲間たちを巻き込み、こうしてキールまで巻き込んだ今、退くことはあり得ない」
「!」
ジュエルザードの目に、光がある。
言葉には力がある。
「そんなふうに、ちゃんと思えるようになったのには理由がある」
「理由、ですか」
「ああ——お前はまだ知らないだろう。クラウンザード殿下が蒼竜撃騎士団に命じて、ロイヤルスクールに混乱をもたらしたことを」
「えっ!?」
キールは腰を浮かせた。
知らない、そんな話は。
父ならば知っているかもしれないが、その父は数日帰っていない。
「なにがあったのですか。学園にとっては正騎士ははるかに格上の存在でしょう。まさかケガ人が……」
「落ち着いて、キール。蒼竜撃騎士団は『特別訓練』だと言って正規兵を100人用意した。そこに何人かの騎士を混ぜてね。それで、在校生と戦わせたらしい」
「は!? そんなのむちゃくちゃではありませんか! 軍属の兵士ならともかく、正騎士が!?」
「そうだよ。正騎士がいたら学園の生徒ではかなわない。つまるところクラウンザード殿下は、私の影響下にある——と彼が信じ込んでいる——ロイヤルスクールをむちゃくちゃにすることで、私を揺すぶろうとしたんだ」
「なんてひどい……これが立太子されようとする者のやり方ですか」
「私だってそれを聞いたときに怒り心頭に発したから気持ちはわかるよ。ロイヤルスクールはもはや私とはなんの関係もないというのに……でもそれくらい、殿下からの圧力は強まっているということだ」
これがジュエルザードが憔悴している理由か、とキールは知った。
キールが見えている以上に、はるかに強く、水面下でのつばぜり合いが起きているのだ。
「でもね、キール。なんと蒼竜撃騎士団混じりの正規兵チームを、学園の生徒たちが破ったんだそうだ」
「……え?」
「完敗だと聞いたよ。すべてのクラスで正規兵が負けたらしい……もちろん、正騎士も破られたということだ」
「そんな——」
あり得ない、と言いかけたのは、正騎士がそれほどまでに強いことをキールが知っているからだ。
学園の生徒が、しかも高学年で高位貴族家の生徒たちがいない状態で、勝てるわけがない。
「——いえ、でも、まさか……彼なら」
キールはひとつの可能性に思い当たった。
そう、彼なら——。
「ふふっ。そう。勝ってしまったんだよ。たったひとりで、正騎士ふたりを倒し、自分たちのクラスの戦闘を終わらせるや、他のクラスへの援護に向かってすべてを蹴散らしたと聞いている」
「————」
キールは立ち上がっていた。
「ソーマくん……!」
閉塞感しかないこの状態で、ロイヤルスクールにまで第1王子の魔の手が伸びていた。
だけれどそこにはソーマがいた。
こんな状況でも助けてくれるなんて——いや、彼は自分を助けたとは思っていないだろう。自分がやりたいことをやりきっただけなのだから。
でも。
それでも。
この瞬間、距離のあるロイヤルスクールで、自分にできる範囲で、とてつもない結果をたたき出した同学年の仲間を——友を、誇らしく思わずにはいられなかった。
「……キール。私も今、お前と同じ気持ちなんだ。私はロイヤルスクールを卒業し、もう影響力なんてないと思っていた。でも、私に対する影響力は残っていた。生徒たちが活躍しているというのに、私は現状を、波風立てることなく終わらせることを考えていた。なんという体たらくか。ほんとうにこの国の未来を考えるのならば、立ち上がらなければならないと。それを……ロイヤルスクールで教わったはずなのに」
「お兄様……」
「今日、父に会いに行く」
すっくと立ち上がったジュエルザード第3王子の目に、もはや迷いはない。
「会えるかどうかはわからないが、ついてきてくれるか」
ここでうなずけば、少なくとも他の貴族からはラーゲンベルク公爵家は第3王子に与していると見られるだろう。キールの一挙手一投足は注目されていて、軽はずみに決めることはできない。
でも、
「行きます」
キールは即答していた。
確かに、自分の背中を押してくれる手を感じていた。
今ここにはいない、黒髪の少年の温かな手を。