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その花 第三章 : 天生の刻 2



「たっだいまぁーっ!」



 夕方――。


 花は満面の笑みで自宅のドアを開け放った。肩にはパンパンに膨らんだエコバッグを提げていて、両手には食材を詰めたエコバッグを握りしめている。そのまま足取り軽くリビングに駆け込んだ花は、踊るようなステップでテーブルに近づいた。


「いやぁ~ん。こんなに買って五万円もしないなんて、ネスクって最高ね!」


 花はウキウキとした声を漏らしながら、バッグから高級シャンプーや高級ボディソープを取り出し、テーブルの上に並べていく。


「まあ、ネスクは物価が安いし、消費税もないからねぇ」


 一緒に帰ってきた映美は、やはりベランダで花粉を落としてから、買い物の仕分けを手伝い始める。


「へぇ。日本なのに消費税なしって、そんなこともできるんだ」


「まあね。ネスクは特別行政区だから、税金もいろいろ優遇されてるのよ。だけどその分、毎年まとめて十兆円ぐらいの税金を国に払ってるし、地方交付税交付金ももらってないんだって」


「ふーん、そうなんだ。でも、それで自治体を維持できるなんてすごいわね。ネスクの予算ってどうなってるの?」


「一言で言えば、ネスク全体の収入でまかなっているの。なんというか、ネスクは一つの会社みたいなものだからね。住民一人ひとりの適性に応じた仕事を割り振って、みんなにきちんと働いてもらうことで、年間売上高が四十兆円を超えているのよ」


「四十兆?」


 花は思わず目を剥いた。


「ということは、予算が三十兆円ぐらいあるってこと? なにそれ。すごいわね。世界各国の国家予算ランキングで考えると、トップテンに近い規模じゃない」


「そうなの? あたしはそういうランキングとかはよく知らないから。だけど、自治体としてのネスクの借金はゼロだし、地方債ちほうさいも発行していないから、住民としては嬉しいよね。――それよりハナミー、お茶飲む?」


「あ、うん。ありがと」


 映美は買ってきたばかりの麦茶のパックをヤカンに入れて水を注ぎ、クッキングヒーターのスイッチを入れて沸かし始める。


「ハナミー、知ってる? 麦茶って、ホットの方が美味しいんだよ」


「そうなの? 麦茶って、アイスのイメージしかないんだけど」


「いやいや。ホットだと香りとか味とかぜんぜん違うから。もうホント、最強だし」


 そう言いながら映美はティッシュを一枚引き抜き、鼻をかむ。


「……あー、やっぱダメだ。ちょっと顔洗ってくるね」


「花粉症、大変ね」


「これでもずいぶん軽くなったんだけどね」


 映美はタオルを肩に引っ掛け、すぐに風呂場へと駆け込んでいく。


 花も買ってきたアメニティーグッズを小さなカゴに入れて風呂場に運び、食材を冷蔵庫と棚にしまい始める。


「あ、そうだハナミー。これあげる」


 戻ってきた映美が、キッチンに立つ花のところに粉末のレギュラーコーヒーを一袋と、ペーパーフィルターを一箱、それとドリッパーを持ってきた。


「コーヒー?」


 花は思わず首をひねった。


「ネスクでは、カフェインって規制されてるんじゃないの?」


「うん。カフェインは中毒性物質の対象に指定されてるから、一日400グラムまでって決められてるの。でも、アルコールみたいに厳しく管理されてるわけじゃないから、みんなけっこう自由に飲んでるよ。あたしはカフェインとると気分が悪くなるから飲まないけどね」


「ああ。だからノンカフェインの麦茶が好きなのね」


「そゆこと」


 映美はヤカンの麦茶を二つのカップに注ぎ、片方を花に差し出した。


「それに、ホットの麦茶を飲む人って、たいてい美人ばかりだしね」


「あら。それじゃ、わたしも飲まないと」


「そーいうこと」


 花の言葉に映美は朗らかな笑みを浮かべ、カップを軽く当てて乾杯した。


 花は湯気を吹いて一口すすり、ほっと息を吐き出した。


「……あ。ほんとだ。いい香り」


「でしょー」


 映美は嬉しそうに微笑みながらテーブルに向かっていく。花もあとを追って椅子に座り、それからふと訊いてみた。


「そういえば、アルコールの管理ってどうなってるの? さっき、厳しいって言ってたけど」


「ああ、それはこれ」


 映美は左手首にはめた銀色の細い電子ブレスレットを花に向けた。


「買い物やレストランで食事した時は、この腕輪か携帯端末をレジにかざして支払いするでしょ? その時にアルコール製品をチェックしてるの。アルコールは、純アルコール換算で週に150グラムまでっていう購入規制があるからね。それを超えた場合は、お酒を買ったり飲んだりはできなくなるってわけ」


「そうなんだ。それじゃあタバコは?」


「絶対禁止。喫煙者はネスクに入ることはできないの。移住審査の時、血液検査されたでしょ?」


「うん。DNAの登録ってことで、ちょっとだけ血を採られたけど、あれ、血液検査も兼ねてたんだ」


「そゆこと。その時に薬物検査もして、基準値以上のニコチンやアルコール、その他の薬物反応が出たらメンタルケアに回されるのよ」


「なるほどねぇ。だから合格者が三人しかいなかったんだ」


「そうだねぇ。移住審査を一発でパスするのって、毎回二、三人しかいないみたい。あたしなんてステロイド漬けだったから、血液検査の直後に救急車で病院に直行だったもん」


 映美がカラカラと笑い出したので、花も軽く微笑んだ。


「あ、そうだハナミー。お夕飯、どうしよっか?」


「お夕飯?」


 花は呟きながら腕輪を見た。デジタル時計は五時半を過ぎている。帰ってきてからいつの間にか一時間近くが経っていたようだ。


「エミシーは花粉症だから、外に出るの辛いでしょ。野菜とパスタを買ってきたから、今日はわたしが作るよ」


「ああ、それなら大丈夫。夜になると花粉は少なくなるから。それにせっかくだから、今日はパブリックダイナーにいこーぜー」


 パブリックダイナー?


 花が小首をかしげると、映美はストローハットとサングラスに手を伸ばし、さっさと出かける準備を始める。


「パブリックダイナーっていうのは、公共食堂って意味ね。ものすごーく簡単に言うと、学食みたいなものかな? 自分で食事を作るより、断然安くて美味しいの。あたしはほぼ毎日お世話になってるけど、メニューも多いからぜんぜん飽きないし」


「へぇ。それは便利そうね」


「もぉ、便利すぎてマジやばいから。でもラストオーダーは八時で、八時半には閉まっちゃうから、六時を過ぎるとけっこう混むのよ」


「えっ? 閉店が八時半?」


 花は軽く驚いた。


「なにそれ? 閉まるの早すぎない?」


「いやいや。ネスクのお店はみんなそんなモンよ。店員さんだって人間だし、早く家に帰りたいからね。ネスクで暮らす住民はさ、一人ひとりが幸せに働いて、幸せに生活できるように、みんなで助け合うのが基本なのよ。それに夜遅くまで営業しても、エネルギーと人件費を無駄に消耗するだけで、大して意味なんかないからね」


「なるほど……。つまりネスクは、『社会全体を効率よく運営』することで、利益を上げているってわけね?」


「まあ、それもあるけどさ、夜は寝て、朝起きて、昼間に働くのが人間にとって自然だと思わない? そういう自然な生活が、一番の幸せなんだよ」


 そう言って、映美はさっさと玄関に向かっていく。


(一番の幸せか……。まあ、それで社会が回るのなら、それはたしかにそうかもね)


 花もすぐに立ち上がり、映美の背中を追いかける。


 しかしふと、足を止めて振り返った――。テーブルの上には二つのカップが並び、買ってきたばかりの小物やお菓子が置かれている。なんの変哲もない、普通の家の、普通の景色――。それを眺め、花は目元を和らげた。


 ネスクは危険な場所かと思っていたけど、案外、そうでもないのかも――。


「――ハナミー、まだぁ~?」


「あ、いま行くー」


 不意に飛んできた映美の声に、花は軽く苦笑い。それからすぐに玄関へと足を向けた。




***




「……ごめん、ハナミー。あたし、今日はダメだわ……」


 映美が花のマンションに転がり込んできてから二週間後の朝――。映美は花のベッドで丸まったまま、干からびた声を漏らした。


「エミシー、重い方なんだね。痛み止め、持ってこようか?」


「うん……」


 花はティーポットに注いだ湯冷ゆざましと、コップと薬をベッドのサイドテーブルへと運ぶ。それから映美に薬を飲ませ、シーツをかける。今日は七月十九日――。季節は夏の真っ盛り。外の気温は三十五度を超える猛暑日なので、エアコンは二十七度に設定している。


「……ありがと、ハナミー。あたし、今日は一日死んでるから、気にしないで行ってきて……」


 枯れた声で呟いた映美を、花は複雑な表情で見下ろした。二日前、花と一緒にネスクにやって来た砂理から連絡があり、学校が夏休みに入るというので、久しぶりに会おうという話になった。それで今日は映美も入れて、三人で出かける予定だったのだが――。


「あたし友達いないから、スナリーにすごく会いたかったんだけど……無念だわ……」


 映美が再び、くたびれた声を漏らした。


(ぬぅ……。友達がいないとか言われると、リアクションに困るわね……)


 明らかに未練たらたらの映美を見て、花は胸の奥でため息を吐いた。


「それじゃあ、エミシー。何かあったら電話してね」


 花は声をかけながら、映美の携帯端末をサイドテーブルに置く。映美は疲れ切った顔で二度うなずき、目を閉じた。


 生理痛が人一倍厳しいと映美は言っていたが、それはどうやら本当だったらしい。血の気の失せた顔は真っ白で、呼吸は浅く、少し早い。かなりの激痛に耐えている様子だ。これもステロイド漬けだったせいかしら――と花は思ったが、黙っておいた。そんなことを今さら確認したところでなんの意味もないからだ。


「じゃ、行ってきまーす……」


 花は小さく呟いて、寝室のドアをそっと閉めた。


 ベッドに横たわる映美は、目を閉じたまま耳を澄ます。


 寝室を出た花が玄関で靴をはき、外廊下に出て、ドアにカギをかけたのが音だけで分かる。そしてパンプスのヒールが廊下を叩く音がかすかに聞こえ、すぐに消えた。さすがにもう遠すぎて、花の気配は感じられない。


「ああ……マジでおなか、きっついわぁ……」


 一人になったことを確認した映美は、歯を食いしばって起き上がり、携帯端末を手につかむ。さらにそのまま立ち上がり、レースのカーテンをわずかにめくる。窓の外に目を向けると、歩道をゆっくりと歩く花の背中が見えた。ツバの広い帽子をかぶり、真夏の太陽の下を気だるそうに進んでいる。


「あーあ……。ほんと、一緒に行きたかったなぁ……」


 映美はしょんぼりと呟きながら、携帯端末で電話をかける。するとわずかツーコールで相手が出た。


「――あ、もしもし、椎菜です。対象が予定ポイントに向かいました。監視の引き継ぎをお願いします」


 それだけ伝えて、映美はさっさと電話を切る。


「ごめんね、ハナミー……」


 遠ざかる花の背中を見つめながら、映美は小さく息を吐いた。それから腰を曲げたままベッドに戻り、シーツに潜り込んで丸まった。




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