その花 第三章 : 天生の刻 1
朝の八時半過ぎ――。
花は冷蔵庫に入っていた食材で簡単な朝食を済ませ、食器を洗っていた。すると不意に呼び鈴が鳴ったのでインターホンの受話器を取ったが、オートロックのモニターにはなぜか誰の姿も映らない。
はて? イタズラかしら?
そう思ったとたん、玄関の方からいきなりノックの音が聞こえてきた。妙にリズミカルなノックだ、花は軽く首をかしげながらドアを開けたが、その瞬間、思わず息を呑み込み、目を丸くした。
外廊下に立っていたのは、オレンジ色のジャージを着た不審な人物だった。
花より少し背が高いが、細い体つきを見ると女性のようだ。頭には夏によく似合うストローハットをかぶり、顔には夏によく似合う大きなサングラスをしている。しかし、白いマスクで鼻から口元をすっぽりと覆い隠しているので、夏の雰囲気は完全に吹き飛んでいる。どう見ても胡散臭い風貌という他に言いようがないが、見知らぬ来客の心当たりなら一つだけあった。
「あ……あなたが、わたしのガイドですか……?」
「そういうこと。お邪魔するね」
女性はくぐもった声を漏らし、さっさと玄関に入り込んでくる。しかも大きなキャリーバッグをカラカラと引いて、リビングにスタスタと向かっていく。さらにそのままベランダまで足を運び、いきなり自分の体をパンパンと叩き始めた。
(な……なんなの、この人……?)
花は思わず棒立ちのカカシとなった。
しかし女性は花の方には見向きもせず、ベランダのガラス戸を閉めて鍵をかけ、エアコンの空気清浄機を作動させる。そうしてようやく、マスクと帽子とサングラスを外してテーブルに置いた。
「ふう、これでよし。ごめんね。あたし、花粉症なの」
そう言って朗らかに微笑んだのは、まだ幼さが少し残る若い女性だった。長い髪はきれいな茶色で、さらさらしている。かなり控えめに表現しても、ものすごい美人だった。
「えっと、あなたが飽海花さんでいいんだよね? あたしは椎菜映美。二十二歳。今日から三週間、あなたのガイドをするから。ヨロシクね」
「え……ええ、こちらこそ、よろしくお願いします――って、え? 椎菜映美?」
花はパチクリとまばたきした。
その名前には聞き覚えがある。というか、目の前にある顔にはものすごーく見覚えがある。テレビの歌番組だけでなく、ドラマでもコマーシャルでも引っ張りだこの大人気だったアイドルにそっくりだ。
「ああ、うん。あたし、エミシー。やっぱ知ってたか」
映美はなぜかダブルピースで微笑んだ。
(なんと……。そっくりさんどころか、ガチで本人だった……。じゃなくて、とりあえず何か飲み物でも出さないと……)
花は軽く思考停止に陥りながらフラフラと歩き出し、キッチンの冷蔵庫に手をかけた。そのとたん、映美の声が飛んできた。
「あ、飲み物だったらあたし、ホットがいいな。ペパーミントティー。たぶんティーバッグがあるはずだから、ティーポットで薄めに作って」
(ぬぅ……。けっこう注文の多い子ね……)
花は渋い顔で棚を探り、ティーバッグを引っ張り出す。そしてすぐに湯を沸かし、ガラスのティーポットに注いでテーブルへと運ぶ。その間、映美はキャリーバッグを開き、タオルとアメニティーグッズを取り出していた。
「ごめん。ちょっと顔洗ってくるね。お風呂場こっち?」
そう言いながら、映美は返事を聞かずにさっさと風呂場に入っていく。
(さすが元アイドル……。マイペースぶりがハンパじゃないわね……)
花は半分白目を剥きながら薄いペパーミントティーをカップに注ぎ、静かにすする。そしてふと映美のキャリーバッグに目を向けたとたん、パチパチとまばたいた。なぜか着替えや化粧品、さらには寝袋らしき物まで取り出してある。
(えっ? なにあの子。まさかうちに泊まるつもり……?)
「――ああ、うん、泊まるよ。三週間。それがあたしの仕事だから」
花がハッとして振り返ると、肩にタオルをかけた映美が花を見ていた。
(なんでわたしの考えが……)
「そりゃわかるよ。そんなにマジマジと荷物見てたらバレバレでしょ」
映美は椅子に腰を下ろし、空のカップにお茶を注いですすり始める。
「あー、おいし。だけどあたし、ネスクに来てから働くのって、これが初めてなんだよねぇ」
「え? 初めて?」
「うん」――と答えながら、映美は洗顔料が入ったポーチをキャリーバッグに放り投げる。「あたしさ、ちょうど一年ぐらい前にネスクに来たんだけど、それから半年近く入院してたの」
(入院……?)
ちょうど一年前というと、たしかに去年、有香がそんなことを言っていたような気がする――と花は思い出した。エミシーが天国行きのバスに乗ったから、有香の部署のプロデューサーが特番を作るとかなんとか聞いた覚えがある。でも――。
「えっと、入院ってあなた、病気だったの?」
「うん。花粉症。治療がもうちょっと遅かったら死んでたかもって、医者が言ってた」
「えっ? 花粉症で……死ぬの?」
花は思わず首をひねった。そんな話はいまだかつて聞いたことがない。
「まあね。普通は花粉症で死ぬ人なんていないと思うだろうし、実際にそんな人は滅多にいないけど、あたしはその滅多にいない一人だったの。医者が言うには、ADRがサビア化したんだって」
「ADR……? それって、サイドエフェクトの薬物有害反応のこと? それが重症化したってことは――まさか、経口ステロイド?」
「あ、すごいハナミー。知ってんだ」
「誰がハナミーよ」
花は軽く頬を膨らませ、カップに口をつけた。
しかし、これでおおよその事情は察しがついた。クルシマ製薬に勤務していた頃、各種薬剤の説明文をアラビア語に翻訳するのが花の仕事だった。そのため、クルシマ製薬が販売していた薬剤の説明書にはすべて目を通し、そのほとんどを記憶している。その中には花粉症の症状を抑える抗ヒスタミン薬や、抗ロイコトリエン薬、抗プロスタグランジンD2・トロンボキサンA2薬、そして経口ステロイド薬もあった。
特に経口ステロイド薬は、他の薬剤よりも効果が強力で、その分副作用も強いハイリスク薬だ。服用すると花粉症によるアレルギー反応を強力に抑える代わりに、免疫力が低下する。
そのため、風邪やインフルエンザにかかりやすくなったり、骨がもろくなって骨密度が低下したりすることがある。他にも糖尿病になったり、ステロイド潰瘍が発生したり、血栓症、動脈硬化、高血圧症、腎不全など、生命の危機に直結する症状を引き起こす可能性も非常に高い――。
「あたしさあ、子どもの頃から花粉症だったんだけど、アイドルやってたら年々ひどくなっていったんだよねぇ。しかもあたし、スギとヒノキと、イネとブタクサにアレルギーがあるから、一年中花粉症なの」
「それは、かなりきつそうね」
「そうなのよ。でもさぁ、アイドルがステージでクシャミしたり、鼻水を垂らしたりなんかできないでしょ? だから毎日、けっこう強い薬をいっぱい飲んでたの。そしたら二年ぐらい前だったかなぁ? なんだか急に、死にたくなってきちゃったんだよねぇ」
「それはたぶん、薬の服用による『うつ病』――ステロイド精神病ね」
「ああ、そうそう、それそれ。ネスクの医者もそんなこと言ってた」
映美はお茶を飲み干すと、ティーポットに手を伸ばしてお代わりをいれる。
「でもね、事務所の社長とマネージャーがさ、『アイドルは売れているうちが華』だとか、『仕事があるのは幸せだ』とか言って、仕事を休ませてくれなかったのよ。それで我慢して薬を飲んでステージに上がって、薬を飲んでドラマに出て、薬を飲んでコマーシャルの撮影して――って頑張ってたんだけど、ある日突然、真っ赤なオシッコが出ちゃったのよ。それを見て『ああ、これ以上薬飲んだらゼッタイ死んじゃう』――って本気で思って、それでネスクに逃げてきたの」
「なるほどね。そういう事情があったんだ……」
花は低い声で呟いた。
映美はあっさり話したが、それはほぼ間違いなく大量服薬だ。長期間に渡って大量の薬を飲む状況に追い込まれたせいで体にガタがきて、腎不全を引き起こしたに違いない。
そして、その腎不全がさらなる要因となって合併症に発展し、重症化したのだろう。それはもはや薬害なんてレベルではない。殺人未遂と言っても過言ではないはずだ。
「……アイドルって、けっこう辛い仕事なのね」
「まあね。それでネスクに来てから病院で精密検査してもらったんだけど、なんとビックリ。胃に何個も穴が開いていて、肝臓と腎臓にかなりのダメージがあるってわかったの。薬の副作用で他の内臓もほとんどボロボロで、本気で手遅れになる一歩手前だったってワケ――」
映美はさらに自分の頭をつつきながら言葉を続ける。
「ついでに言うと、頭の方もちょっとおかしくなっていたんだよねぇ。あの頃は医者だろうが看護師だろうが、誰からかまわず怒鳴り散らしていたのよ。それで半年間入院して、さらに先月まで社会復帰のリハビリを受けていたの。――んで、ハナミーのガイドをするのが社会復帰の最終試験。あたしの最初のお仕事ってワケ」
そうだったんだ……。
花はポツリと言って、薄いペパーミントティーを飲み干した。
自分とエミシーはまったく違う人間だ。しかし――と花は考え込んだ。自分は普通のサラリーマンで、エミシーは売れっ子アイドル。やってきた仕事も違うし、歩んできた人生も違う。生きてきた世界がまるで違う。
でも、わたしたちは二人とも、死ぬギリギリまで追い込まれ、命からがらネスクに逃げこんできた――。
それは同じだ。まったく同じ選択だ。それを思うと、なぜだろう。なんだかとても辛くなる。なんと言うか、負け犬同士が傷のなめ合いをしているイメージが頭に浮かぶ。なんだか自分がひどくみっともない存在に思えてきて、口の中が苦くなる……。
「気にすることないって」
不意に映美が花を指さした。
「ハナミーさ、いま、自分がみっともないって思ったでしょ? でもさ、それは誰と比べてみっともないの?」
「いや、わたしは別に、そんなこと……」
「いいって、ごまかさなくても。あたしも最初、そう思ったもん」
映美はカップから立ち上る湯気に目を落とす。そして、カップの中に映る自分を見つめながら語り始める。
「世の中さ、上を見たらキリがないでしょ。美人でさ、金持ちでさ、人生の成功者で、高級ブランドに身を包んで、ファーストクラスでロスに飛んで、ロデオドライブで思うがままにショッピングを楽しんで生きていく――。あたしもそんなオンナになりたいってずっと思っていたけど、それって結局、見栄を張りたいだけだったんだなぁって、気づいたんだよ」
「見栄……?」
「そう。みっともないって思うのは、つまりは見栄ってこと。今の自分にはお金がない、仕事がない、一人で生きていけないからネスクに来た。そして、今の自分を他人が見ると、きっと人生の負け組だと思うだろう。きっとバカにするだろう。きっと貧乏人だと思うだろう。そういうふうに思われる自分が情けない。みっともなくて、顔が赤くなるほど恥ずかしい――ってね。それって、見栄以外の何ものでもないじゃん」
「みっともないと思うのは、見栄……」
(そう言われると、そうかもしれない……)
花はアゴに手を当てて考え込んだ。自分には、周りの目を気にしているという自覚はなかった。自分は今まで、一人で生きていけなくなった自分自身を不甲斐ないと思っていた。そしてその気持ちを『みっともない』という言葉で表現しているつもりだった。
しかし――たしかにエミシーの言うとおりなのかもしれない。
いま現在、この胸の中でわだかまっている嫌な気持ちは、自分の力不足を嘆くモノだけではないような気がする。なぜならば、今の自分の姿を有香や綾子に見られるのは絶対に嫌だからだ。
あの二人には既に絶交されているが、天国堕ちした今の自分を見られることだけは絶対に避けたい。わたしが天国堕ちしたことを知れば、あの二人は間違いなく馬鹿にする。彼女たちはこのさき一生、事あるごとにわたしのことを笑い話のネタにする。そうして何不自由なく暮らす自分たちの慰み者にするだろう。それを思うと、怒りと恥ずかしさで頭の中が爆発してしまいそうだ――。
「ねえ、ハナミー。人間ってさ、結局、自分が一番大事でしょ?」
(……え? 自分が大事? それはもちろんそうだけど、いったい何の話?)
花は思わず首をひねった。映美が何を言いたいのかよくわからない。
「だからさ、他人の目を気にして、他人の考えることを勝手に想像するのは、自分のためにならないってことだよ。他人にバカにされたくないからこうしよう、他人にカッコつけたいからああしようっていうのは、突き詰めて考えると、なんの意味もないんだよ。それってなんだか、他人のために生きてるって感じがしてイヤじゃない?」
「他人のため……?」
「そ。自分にとって、一番大切なのは自分でしょ。だから、自分がやりたいことをして、やりたいように生きればいいんだよ。いつまでも他人の目を気にしていると、いつまでたっても幸せになれないからね」
「いつまでたっても……幸せになれない……しあわせ……しあわせ……」
え? しあわせ?
ちょっと待って。なに? しあわせって、いったいなに? お金じゃないの? え? なんでお金? なんでわたし、しあわせがお金だと思ったの?
「幸せって……お金じゃないの?」
「お金ってのは、安心して暮らすために必要なものでしょ? だから、幸せはお金とも言えるけど、お金そのものじゃないと思う。安心して暮らすことが、幸せだよ」
「なっ……!」
映美の言葉に、花は思わず絶句した。
その発想はなかった……。だけど、たしかにそのとおりだと思う。お金は大事、お金は大事と、子どもの頃から思っていた。だけど、なぜ大事なのかというと、それは生活するためだ。生きていくためなのだ。
つまり、人間にとって本当に大事なことは、生きること、そのものなのだ。そしてお金が大事な理由は、お金があれば生きていけるからだ。お金がいっぱいあれば、楽に生きていけるからだ。それを自分は無意識のうちに理解していた。だからこそ、お金は大事だと思っていた。それなのに――。
「わ……わたし、なんだかものすごい勘違いをしていたかも……」
花はテーブルに両手をついて空のカップを見下ろした。
一流企業に就職して、同年代より多い給料をもらうことで、自分は安心しきっていた。これで人生は安泰だと思っていた。だけど――それ以上深くは考えていなかった。だから毎月、給料が入るたびにブランド品を買いまくっていた。
毎月新しい服を買い、ボーナスが入れば温泉旅行にいって、海外に旅行して、美味しい物を食べまくった。お金ならある。たとえ使い切ったとしても、給料日になればまた入ってくる。そう思い、心の底から油断していた。だから貯金なんかほとんどしていなかった。だから会社が潰れたあと、たったの一年で生活が困窮し、天国堕ちする他に選択肢がなくなってしまったのだ。
お金とは、安心して暮らすために必要なもの――。
自分はそのことを本当の意味で理解していなかった。そんなことはわかっていたし、頭の片隅では認識していたはずなのに、自分は、人並み以上の生活が一生続くという幻想に目がくらんでしまっていたのだ――。
「ま、あまり落ち込む必要はないでしょ。早く気づけてよかったじゃん」
「どこが早いのよ……。完全に手遅れじゃない……」
あっけらかんとした映美の声に、花は頭を左右に振る。
「でも、ハナミーって二十六歳でしょ? だったらじゅうぶん早いって。ネスクに来る人の平均年齢って、四十歳ぐらいだからね」
「いや、そうじゃなくて、ネスクの住民になったら、もう二度と外に出られないんでしょ。だったら、手遅れ以外の何ものでもないじゃない」
「へ?」――映美はキョトンとまばたいた。「なんで外に出る必要があるの?」
「なんでって……」
花は呆れ顔で映美を見た。外に出られないということは、牢屋に閉じ込められたも同然だ。自由を制限された生活なんて冗談じゃない。そんなものは苦痛そのものだ。生きるか死ぬかの瀬戸際でなければ、誰がこんな狭苦しい天国なんかに来るものか――。
「ねえ、ハナミー。ちょっと考えてみて。ネスクはさ、房総半島の六十パーセント以上の土地を占めているんだよ? 東京や神奈川の面積よりも広いんだよ? そう考えれば、別に息苦しくなんかないでしょ」
「いや、わたしが言いたいのはそういう物理的なことじゃなくて、ネスクの外に出ることができないという制限に、心理的な圧迫があるってことなんだけど」
「でもさ、人間は地球の外に出ることができないんだから、移動範囲は元から制限があるじゃない。それに、ネスクには山もあるし海もある。都会もあるし田舎もある。ショッピングモールだっていっぱいあるし、レストランだって数え切れないほどあるんだから、不自由なんか何もないでしょ」
「いや、違うのよ……。そういうことじゃないのよ……」
花は瞳の中に絶望の色をにじませながら、深い息を吐き出した。
どうしてこの気持ちをわかってもらえないのか、それがまるで理解できない。エミシーだって元は外の世界に住んでいたはずだ。それなのに、なんで未練の色がこれっぽっちもないのか、それが心の底から理解できない。
たしかに宇宙開発がいくら進歩しようが、基本的に人類の行動範囲は地球上だけだ。しかしそれでも、房総半島とは比べものにならない広さがあるし、見るべき価値がある場所もたくさんある。
日本国内に限ってみても、北海道や沖縄や、京都や福岡など、全国各地には地域特有の文化が根付き、地域特有の祭りや名物がある。そこに足を運び、その土地の空気を肌で感じることは、何ものにも代えがたい喜びの一つだ。それが二度とできないということは、人生の楽しみを享受できないということに他ならない。極端に表現すれば、拷問と言っても過言ではないはずだ――。
「ま、ハナミーの気持ちはわからないでもないけどね。だから、そろそろ行ってみよっか」
不意に映美が立ち上がり、ストローハットとサングラスを手に取った。
「え? 行くって、どこに……?」
「ショッピングモール。引っ越してきたばかりだから、いろいろ買いたいモノとかあるでしょ。だから、ちょっとショッピングに行ってみよーぜー」
「いや、でもわたし、まだ働いてないからお金ないし」
「ああ、それなら大丈夫」
映美はキッチンカウンターに置いてあった花の携帯端末を手に取った。移住審査の係員から渡されたネスク用のスマートホンだ。映美は手早く操作して、花に画面を向けて淡々と言う。
「これ、ハナミーの電子口座ね。百万円入ってるから」
「ひゃ、百万!? なんで!?」
花は端末を受け取ってまじまじと見た。たしかに口座は花の名義で、残高は百万円と表示されている。
「移住者には一律百万円の支度金が支給されるの。だって、お金がないと生活できないでしょ?」
「そ……それはたしかにそうだけど」
それにしても、ただ移住してきただけでポンと百万円もくれるなんて、どう考えてもあり得ないでしょ……。花は喜びよりも先に不安と疑念で顔を曇らせた。そんな花の様子を見て、映美は軽い口調で言葉を続ける。
「移住者がなんの仕事に就くのかは四週間後に通知されるから、それまではそのお金でネスクの生活に慣れてね――ってこと。だから、遠慮しないで使っていいんだよ」
「そう……。それじゃあ、こんなに待遇がいいってことは、その仕事とやらは相当きついってことね……」
「ま、それもおいおい説明するから、とりあえず今はショッピングにいこーぜー」
映美はオレンジ色のジャージの上着を腰に巻きつけ、帽子とサングラスとマスクを装着。半袖のTシャツ姿で足取り軽く、さっさと玄関に向かっていく。
(まったく。ほんと、マイペースな子ね……)
花は渋い顔で立ち上がった。
(だけど……甘い話には必ず裏がある。こんなに至れり尽くせりの生活なんて、どう考えてもあり得ない。いったいどんな仕事をさせられるのやら……。ネスクというのはもしかすると、わたしの想像以上に危険な場所だったのかもしれないわね……)
胸の奥に漠然とした不安が広がり、花は気乗りのしない息を漏らした。それから重い足取りで、映美の背中を追いかけた。
本作をお読みいただき、まことにありがとうございます。
作中に登場した一部単語の補足説明をさせていただきます。
・ストローハット → 麦わら帽子
・ADR → 薬物有害反応(adverse drug reaction)
・サビア化 → 重症化
・サイドエフェクト → 副作用
・合併症 → コンプリケーション(発音はカンプラケェイション)
・ロス → ロサンゼルス(アメリカ合衆国)
・ロデオドライブ
→ アメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルスにある、超高級ショッピングストリート
その他、何かご不明な点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
記:2018年 5月 30日(水) 松本 枝葉