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その花 第二章 : 天堕の刻 5



「花さん、花さんっ。このスクランブルエッグ、すっごくおいしいですっ」



 ビュッフェボードでサラダを取り分けてきた花がテーブルに戻ったとたん、砂理が明るい声を弾ませた。椅子に座った花はトマトジュースのグラスを握ったまま、砂理の手元に目を向ける。ホテル一階にあるバイキングレストランの朝食メニューは豊富なのに、砂理の皿にはスクランブルエッグとサラダしか盛られていない。


「あら。今朝はハンバーガーじゃないのね」


「それはこのあと、もらってきます」――と、砂理は瞳を輝かせる。


「そうしなさい」


 花も微笑みながら話しかける。


「もしかしたら、美味しい食事はこれで最後かもしれないからね」


「そういえば、移住審査の結果発表は、このあとすぐなんですよね」


 そういうこと――と答えながら、花は左の手首に目を落とす。


 昨日渡されたネスクの電子ブレスレットの表面には、時間がデジタル表示されている。見ると、現在時刻は朝の八時十二分――。結果発表はホテルのロビーで九時からだと聞いているが、花の心中は少しばかり複雑だった。


 もちろん審査には合格していてほしいと思うが、その一方で、今でも天国堕ちなんかしたくないとも思っている。しかし移住審査に落ちていたら、もはや最後の最後の、最後の手段しか残されていない。あまり気は進まないが、去年の課長と同じように、どこかでひっそり首を吊って死ぬだけだ。


(どちらにしても、美味しい食事はこれで最後ね……)


 花は口の中に広がった苦いものを、トマトジュースで流し込んだ。


「花さん。スクランブルエッグ、一口いかがですか?」


「あら。ありがと」


 砂理が皿を差し出してきたので、花はスプーンで一口食べる。そして心の中を隠すように、優しく微笑んだ。


「ほんと。ふわふわで美味しいわね」


「ですよねぇ。これをパンにはさんだら、きっと美味しいハンバーガーができると思うんです」


「そうね。きっと美味しいわよ」


 それじゃただのたまごサンドだけどね――と花は思ったが、黙っておいた。


 相手が知らないこと、誤解や勘違いしていることを、角を立てずに教えるのは非常に難しい。特に今は移住審査の結果が気になって不安な時だ。だから、あまり水を差すようなことは言わないでおこう。どうせハンバーガーの概念なんてそのうち自然に気づくだろうし、ドヤ顔でわざわざ教える必要なんて欠片もない。


 それに、『そんなことも知らないの?』――なんて言葉を口にする人間ほど恥ずかしいものはない。だって、なんでも知っている人間なんて、この世にはただの一人もいないのだから。



「――おいおい、なに言ってんだ、お嬢ちゃん」

 


 不意に、砂理の後ろを歩いていた男が声をかけてきた。緑色のベースボールキャップをかぶった、あの嫌味な中年男だ。


「それじゃただのタマゴサンドじゃねーか。肉が入ってないとハンバーガーって言わねーんだよ。そんなことも知らねーなんて、お嬢ちゃんはバカだねぇ~。だっはっはぁ~」


 男は愉快そうに笑いながら、ずらりと並んだ料理の方に去っていく。


 笑われた砂理はテーブルにフォークを置いて、恥ずかしそうにうつむいている。花は半分白目を剥いて、男の背中をにらみつけながら口を開いた。


「いい? 砂理ちゃん。あれが人のことをバカにして、笑い飛ばすダメな大人の見本よ。ああいう大人には絶対になっちゃダメ。そして、どれだけ顔がよくても、ああいうことを口にする男とは絶対に付き合っちゃダメよ」


「はい……」


「それともう一つ」


 花は砂理をまっすぐ見つめ、指を一本立てながら言う。


「恋人にするのは、きちんと手を洗う男にしなさい」


「え?」


 砂理はキョトンと二つまばたき。


「手を洗う人……ですか?」


「そうよ。砂理ちゃんはたぶん知らないと思うけど、男ってね、トイレから出る時に、ほとんどが手を洗わないのよ」


「えっ!? えぇっ!? そっ、そうなんですか!?」


「そうなのよ。びっくりでしょ? 十人中半分は手を洗わないし、残り五人のうち四人は、指先にちょこっと水をつけただけで手を洗ったつもりでいるの。殺菌用アルコールの商品開発で実験したデータだから間違いないわ」


「それは知りませんでした……。男の人って、不潔だったんですね……」


「不潔なんてレベルじゃないわ。ヤツらはバイキンそのものよ。でもね、だからこそ、いい男を見分けるポイントになるの。最高なのは携帯用のハンドアルコールを常備している男ね。そういう男がいたら、早いうちにツバつけときなさい」


「は、はい。わかりました」


「よし。それじゃ、お代わりを取りにいこっか。わたしもハンバーガー食べたくなってきちゃった」


「あ、はい!」


 花が立ち上がると、砂理も慌てて立ち上がる。そして二人で小さなハンバーガーとスイーツを取ってきて、楽しくおしゃべりしながら一緒に食べた。



***



「――はい。それではただ今より、移住審査に合格された方を居住区にご案内致します。お名前を呼ばれた方は係より通行証を受け取り、しばらくお待ちください」


 いよいよね――。


 花はごくりと唾を飲み込んだ。広いロビーのほぼ中央に立った女性職員が説明を始めながら、少し離れた場所に手を向けている。そこには小さな机が置いてあり、別の職員が立っている。どうやらあそこで通行証を受け取るらしい。その職員の左右には、青い制服を着た三人の男たちがいる。三人とも体格がよく、腰には拳銃らしきものをさげているので、おそらく警備員なのだろう。



「――飽海花様」



「えっ? わ、わたし?」


 いきなり名前を呼ばれたのでびっくりした。反射的に左右を見渡すと、およそ三十名の移住希望者たちと目が合った。半分ほどが軽くにらみつけるような目つきで見返してくる。



「――桐島砂理様」



「は、はい」


 花と砂理はほとんど同時に、ほっと息を吐き出した。


「よかったわね」


「はい!」


 花が小声で言うと、砂理も小声で明るく応える。二人はすぐに手をつなぎ、通行証を受け取りに向かう。



「――田川篤志たがわあつし様」



 その瞬間、ロビーの中にどよめきの声が上がった。通行証を受け取った花が振り返ると、メガネの中年男性が花の方にゆっくりと近づいてくる。


(あ、この人はたしか、五億円の借金があるっていってた人ね。ネスクって、そんなに借金がある人も受け入れるんだ。すごいわね)


 花の感想はそれだけだったが、他の移住希望者たちはまだかなりざわついている。どうやら花と同じことを思い、花以上に驚いている様子だ。しかし次の瞬間、その声は怒号に変わった。



「――今回の移住審査に合格された方は以上になります」



(え? たったの三人だけ?)


 淡々とした女性職員の言葉に、花は思わず呆気に取られた。同時に他の移住希望者たちの目が吊り上がり、口々に抗議の声を張り上げる。


「おいおい! ちょっと待てやコラぁっ!」

「なに言ってんだテメーっ!」

「ザケんじゃねーぞ! コノヤローっ!」


 移住審査に落ちた中年の男女たちが女性職員を口汚くののしる中、ひときわ大きな怒鳴り声とともに一人の男が職員に詰め寄った。緑色のベースボールキャップをかぶった、あの中年男だ。


「オイこらテメーっ! こいつはいったいどういうことだぁっ! なんであんな五億も借金あるヤツが合格で、オレたちが不合格なんだよっ! そんなのどう考えてもオカシイだろっ!」


 そうだそうだっ! ――と、他の移住希望者たちも一斉に職員を取り囲み、さらに声を張り上げる。


 ネスクは誰でも受け入れるんだろっ!

 天国のくせにヒトを選ぶのかよっ!

 ここまで来たのに、そりゃないだろっ!

 オレたちを見捨てるのかっ!?

 責任取って面倒みろよっ!


 広いロビーに怒りの声が満ち溢れていく。唾を飛ばして怒鳴る者、涙を流して嘆く者、ひたすら我が身の窮状きゅうじょうを訴える者――。誰もがみな、自分の都合をぶちまけている。


 しかし、女性職員は微動だにしない。三十名近くの荒ぶる大人たちに取り囲まれたまま、背すじを伸ばして堂々と立ち、抗議の声を完全に聞き流している。


「くそっ! テメーじゃラチがあかねぇ!」


 緑色のベースボールキャップをかぶった男が再び怒鳴った。男はすぐに人の群れをかき分けて外に抜け出し、通行証を受け取った田川に向かって足早に近づいていく。


「おい! オマエ! オレと代われ! 借金を返さずに天国に逃げてんじゃねぇぞっ! このヒキョウモノっ!」


「ひぃっ!」


 男の怒声どせいに田川がひるんだ。その瞬間、花が両腕を広げて田川の前に立ち塞がった。


「ちょっとあんた! いい加減にしなさいよ!」


「ジャマだ! オンナはすっこんでろっ!」


「邪魔してんのはあんたでしょ! 逆恨みもいい加減にしなさい! そんな性格だから移住審査に落ちたのよ!」


「うるせぇっ!」


 ベースボールキャップの男はこぶしを振り上げ、花の顔面を殴り飛ばした。花はたまらず床に倒れる。


「うるせぇっ! うるせぇっ! うるせぇーんだよっ! コノヤローっ!」


 男はさらに片足を上げて、床に倒れた花を何度も何度も踏みつける。その顔は狂気に染まり、歪んだ口からは怒りが無限に飛び出してくる。その瞬間――砂理と田川がほとんど同時に声を張り上げた。


「やめてーっ!」


「うああああああああ!」


 二人は床に飛び込んだ。そして花をかばうように覆いかぶさる。しかし、荒ぶる中年男は二人のすき間から花を踏みつけ、さらに怒鳴りながら田川の背中を何度も何度も蹴り飛ばす。


「オレは天国に行くんだぁっ! 天国に行くのはオレなんだぁっ! だってそうだろっ! ハローワークに行ったって仕事なんか見つかりゃしねぇ! 職業訓練校に行ったって就職なんかできやしねぇ! やりたい仕事があっても資格が必要! 資格! 資格! そればかりっ! なのに資格を取るには金がかかるっ! なんだそりゃ! なんなんだよその仕組みはよぉっ! 金がないから苦しくてっ! 金がないから働きたいのにっ! そのためには金がいるってどう考えてもオカシイだろっ! しかも学歴がないと試験すら受けられねぇっ! 知識があっても門前払い! そんなのどう考えてもオカシイだろっ! そのくせ税金だけはしぼり取る! なんなんだよ消費税って! 給料から所得税を取っておいて! なんで金を使う時にも税金がかかるんだよ! 貧乏人を消費するって意味なのかっ!? ああっ!? この国はオレに死ねって言ってんのかっ!? オカシイだろっ! この国はオカシイだろっ! なんなんだよニッポンはっ! なんなんだよこのニッポンって国はよぉぉーっ!」


 男は叫んだ。絶叫した。その怒りを聞きつけた他の移住希望者たちも男の元に駆けつけてくる。誰もが「そうだそうだ!」と口々に不満を叫び、男と一緒に田川の背中を蹴りつける。蹴って蹴って蹴りまくる。


(あぶないっ! このままじゃ砂理ちゃんが!)


 花は倒れたまま慌てて砂理を抱きしめた。そしてそのまま床に倒して覆いかぶさる。



 その瞬間――ロビーに轟音が響き渡った。



 雷鳴を思わせる強烈な音――。それが何度も何度も、何度も何度も連続で響き渡る。そのたびに花たちを取り巻いていた移住希望者たちが、短いうめき声を漏らして次々に倒れていく。


(えっ!? なっ、なに!? なんなの!? この音はいったいなんなの!?)


 花は砂理をかばったまま、おそるおそる顔を上げた。


 すると、移住希望者たちは一人残らず背中を見せて走り出していた。そこに再び雷鳴が耳をく。瞬間――青白い閃光が宙を走り、逃げる移住希望者の一人を貫いた。まるで小型のカミナリだ。まばゆい光に撃たれた男は、声を上げる間もなくその場に倒れた。


(な……なに? 今のは……電撃? まさか……)


 花は慌てて反対方向に目を向けた。


 そこには青い制服を着た三人の男が立っている。三人とも拳銃らしき武器を手にし、散り散りに走る移住希望者たちに銃口を向けている。そして彼らが連続でトリガーを引くたびに、青白い電撃が空気の壁を引き裂いて、逃げ惑う人々に襲いかかっていく。


「――心配するな。気絶させているだけだ」


 警備員らしき一人が花を見下ろして微笑んだ。


 サイドの髪を刈り上げた、背の高い男だ。男は銃をしまって床に膝をつき、花と砂理を助け起こす。それからうずくまっている田川の具合を調べ、耳に装着した無線機で指示を飛ばす。すると、すぐさま救急隊が駆けつけて、田川を担架に乗せて運んでいった。


「あ……あの」


 花が砂理の肩を抱いたまま、助け起こしてくれた男に声をかける。


「助けていただき、ありがとうございました」


「いや、逆だ」


 男は頭をかきながら、申し訳なさそうに口を開く。


「助けるのが遅かった。俺の判断ミスだ。どこか痛いところはないか?」


 訊かれたとたん、砂理が心配そうに花を見上げた。花の顔は、殴られた頬の辺りが赤く腫れているように見える。


「わたしは平気ですけど、花さんが……」


「大丈夫よ、これくらい」――花は砂理に微笑みかけた。


 それから、床に倒れて気絶しているベースボールキャップの男に近づき、顔を蹴って踏みつけながら砂理に言う。


「いい? 砂理ちゃん。やられたら、ちゃんとやり返すのよ」


「はっ、はい!」


 砂理は目を丸くしながら返事をした。すると急に、背の高い男が声を上げて笑い出した。


「あんた、なかなか面白いな。俺はネスクガードの久能瀬衣くのうせいだ。名前を教えてもらってもいいかな?」


「飽海花です。こっちは桐島砂理ちゃん」


「そうか。それじゃ、飽海さんに桐島さん。ようこそネスクへ。これからは同じ地域に住む仲間だ。よろしくな」


 そう言って、久能は笑顔で右手を差し出す。そのとたん、花と砂理は顔を見合わせた。それから久能の右手を指さし、二人同時に質問する。



「「――トイレのあと、手を洗いました?」」



 訊かれた久能は微笑んだまま、パチパチとまばたきを繰り返す。それからそっとこぶしを握り、そのままゆっくり引き戻した。




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