その花 第二章 : 天堕の刻 4
「おねえさん……じゃなくて、花さん。わたしたち、本当にここに入るんですか……?」
バスから降りた砂理は目の前の建物を見上げたとたん、花の腕をつかんでおそるおそる口を開いた。
八重洲のバスターミナルを出発してから四十五分後――。
バスは運行スケジュールどおりに『幕張ゲート』を通過して、終点の『ネスク第一エリア・移住審査会場前』に到着。そこは超高層ビルの目の前で、整備された専用のバスターミナルに並んだ制服姿の女性職員たちが、バスを降りた花たちを笑顔で出迎えてくれた。
「どうやらそうみたいね。想像していたのとはかなりイメージが違うけど、豪華な分には文句ないでしょ。さ、行きましょうか」
花は腰が引けている砂理の手を引き、女性職員のあとに続いてビルに入った。一階のロビーはかなり広く、吹き抜けの天井は見上げるほど高い。床は大理石調で、内装はかなり豪華に見える。
「な……なんだか、高級ホテルみたいな感じですね……」
「そうね。みたいな感じと言うよりは、高級ホテルそのものだけど。あそこのフロントにそう書いてあるもの」
花が指さした方向にはフロントデスクがあり、『ホテル・グランド・ネスク』と洒落た金文字が掲げてある。
「は……花さん。わたし、なんだかちょっと、こわいです……」
(なんでホテルが怖いのよ)
花は胸の中で首をかしげた。思い返せば八重洲のバスターミナルで豪華なバスを見た時もそうだった。花にはまるで理解できないが、どうやら砂理は豪華なものを見ると気後れする性格らしい。
「大丈夫よ。それよりほら、足下に気をつけて」
職員が長い上りエスカレーターにのったので、花は砂理に注意を促しながらステップに足をのせる。砂理は花の手を握ったまま慌ててピョンと飛び跳ねた。
(中学生って、こんなに子どもだったのね……)
自分が呆れているのか、それとも微笑ましいと思っているのか、花にはよくわからなかった。しかし、砂理のことは素直にかわいいと思う。知り合ってまだ二時間ほどしか経っていないが、心の優しい子に見える。
しかし、だからこそわからない。彼女の言葉を信じれば、彼女の父親は彼女のことを叩いたそうだが、なぜこんなおとなしい子どもを叩くのかまるで見当がつかない――。
「うわっ! っとっとっと!」
花は思わずたたらを踏んだ。考え事をしていたせいでエスカレーターの終点に気づかず、危うく転んでしまうところだった。
「だ、だいじょうぶですか!?」
砂理は慌てて花に駆け寄った。すると、続けてエスカレーターを降りた中年男が、わざとらしい笑い声を上げた。緑色のベースボールキャップをかぶった、あの嫌味な男だ。
「だっはっは。どんくさいネーチャンだな。カッコイーのは口だけでちゅかぁ~。だっはっは~」
(……はいはい。どうせわたしはかっこ悪いわよ)
ゆうゆうと歩き去る男の背中を花は軽くにらみつけ、鼻から息を噴き出した。そしてすぐに気を取り直し、奥の部屋へと足を向ける。
女性職員に案内されたのは二階の広いフロアだった。中に入ると天井は高く、壁は一面ガラス張りなので解放感がある。壁際にはゆったりとしたリクライニングシートがいくつも並び、背の高いパーテーションで一席ずつ仕切られている。
花と砂理も個別のブースに入り、リクライニングシートに腰を下ろす。目の前はガラスの壁で、その向こうにはバルコニーのフラワーガーデンが広がり、夏の日差しの下で色とりどりのジニアやポーチュラカが咲き誇っている。
「花さん。あのぉ……」
「え?」
不意にパーテーションの陰から砂理が顔をのぞかせた。見ると、手のひらにのせた銀色の細いブレスレットを花の方に向けている。ついさっき、職員からタブレットと一緒に手渡された腕輪だ。
「この腕輪って、もう手首につけた方がいいんでしょうか?」
「そうみたいね」花は左手首に装着したブレスレットを砂理に向けた。「これをつけて、タブレットに表示される質問に答えればいいみたいよ」
「それじゃあ、これが移住審査なんですね」
「そういうことね。わたしの言ったこと、覚えてる?」
「はい。がんばります」
砂里はこくりと一つうなずき、パーテーションの向こうに引っ込んだ。
(別に頑張るようなものでもないと思うけどね)
花は軽く肩をすくめ、職員が持ってきてくれた冷たいジャスミンティーを一口すする。それからタブレットに目を落とし、質問に答え始めた。
しかし、その質問数はかなりのボリュームがあった。
途中で一時間の昼休憩を挟み、血液採取や指紋の登録をおこない、さらに九十分ごとに休憩を入れながら膨大な質問に答えていく。そうしてようやくすべての項目に答え終わると、時刻は夜の七時を過ぎていた。
「けっこうキツかったわね……」
「はい……。もうへとへとです……」
花と砂理に限らず、移住審査を受けていた他の人たちも、みな疲れた顔でフラフラと個人ブースから抜け出してくる。しかし、それからすぐにホテル最上階のレストランに案内されたとたん、全員の顔が喜びに輝いた。ランチは一階のカジュアル系レストランで、そこも悪くはなかったのだが、最上階のレストランは見るからに格が一つも二つも上だった。
「花さん! すごいです! このハンバーガー、ものすごくおいしいです!」
大きなお皿の上のバンズとパティをナイフとフォークで食べながら、砂理は軽く興奮している。
(あらあら。高級レストランでハンバーガーを注文するなんて、子どもってすごいわね)
花は伊勢エビのテルミドールにフォークを突き刺し、上品に頬張りながら微笑んだ。
「そういえば、砂理ちゃんはお昼もハンバーガーじゃなかった?」
「はい。わたし、ハンバーガーって一度食べてみたかったんです」
「一度って、え? 今まで食べたことなかったの?」
「はい。おとうさんがどうしても許してくれなくて……。でも、こんなにおいしいなんて思ってもいませんでした」
(うーわ。マジか。そこまでやるか、砂理パパ)
花はワイングラスに手を伸ばし、軽く引きつった口元を隠しながらブドウジュースを二口飲んだ。
「花さんは、お肉よりお魚の方が好きなんですか?」
「ううん。わたしは値段の高い料理が好きなの」
花は即座に言い切った。
「せっかくタダなんだから、高いものを食べなくちゃ。それに、こんな豪華なディナーはこれが最後かも知れないしね」
「でも、ネスクの職員さんって、みなさんいい人ばかりですよね。わたし、ネスクがこんなにいいところだったなんて思ってもいませんでした」
それは考えが甘すぎるっ! ――と、花は思ったが、黙っておいた。
こんな接待はどうせ最初だけに決まっている。このまま一生ホテル暮らしをさせてもらえるはずがない。このもてなしは移住希望者を油断させるトラップだ。このあとの生活は最悪だから、今のうちにせいぜい楽しんでおけ。この奴隷ども――という暗黙のメッセージに違いない。
しかし、そんな夢も希望もない見通しを、食事を楽しんでいる子どもにわざわざ聞かせる必要はないだろう。だから花は話題を変えることにした。
「そういえば、砂理ちゃんは将来どんな仕事をしたいの?」
「え? どんな仕事……ですか?」
「そう。仕事。わたしはね、特にやりたい仕事なんて思いつかなかったのよねぇ」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
花は力いっぱいうなずいた。
「だから、せめてお金をいっぱい稼げる仕事をしようと思って、一番儲かっていそうな会社に就職したの。でもね、それは間違った考えだったのかなぁ~って、今は少し思ってる」
「どうしてそれが間違いなんですか?」
「んー、なんというか、わたしは『仕事をしたい』じゃなくて、『お金を稼ぎたい』としか思っていなかったのよ」
花はブドウジュースを一口飲んで言葉を続ける。
「……もしもわたしが、心の底からやりたい仕事を見つけていたら、もっと違う人生になっていたと思う。たとえば、そうね……こんな高級レストランで働くシェフになっていたら、たぶんわたしは幸せになっていたんじゃないかな」
砂里はパチパチとまばたきして、花をまっすぐ見つめている。少女は何かを言おうと小さな口を動かしたが、言葉がうまく出てこないらしい。
「結局、わたしが言いたいのは、手に職をつけておけばよかったな――ってこと」
「手に職……ですか?」
「そう。わたしは大学を出てから三年間、普通のOLをやっていたんだけど、会社を辞めたら、『自分はなんにもできないんだなぁ』って痛感したの。だけど、シェフだったら料理が作れるでしょ? もしも、働いているレストランがいきなり潰れたとしても、料理の腕がたしかなら別のレストランで働ける。でもね、サラリーマンだと、なかなかそういうわけにはいかないのよ」
「そうなんですか?」
「まあ、それは人によって違うとは思うけど、わたしの場合はもう二度とサラリーマンとしては働けない。どれだけ事務処理能力が高くても、どこの会社も雇ってくれないからね」
花はいったん言葉を切って、伊勢エビをパクリと食べた。
「だけどわたしがシェフだったら、世界中のレストランが雇ってくれなくても、自分でお店を開くことができたかもしれない。だからお金を稼ぎたいじゃなくて、何かの仕事をしたいと思って、手に職をつけていれば、今みたいに天国堕ちしなくて済んだのかもしれないなぁ――って思うの」
「……あのぉ、ごめんなさい。花さんのおはなし、なんとなくしかわかりません……」
「いいのよ別に。わたしと砂理ちゃんは別々の人間なんだから、考え方が違うのは当然よ。お互いに理解できないところがあるのはむしろ自然なことだから、何も気にすることはないわ。それより砂理ちゃんは、何かやってみたい仕事ってある?」
「わかりません……。でも……」
「でも?」
花が訊くと、砂理はもじもじと肩を揺らし、ちらりと花に目を向ける。
「あの……笑わないでほしいんですけど……」
「うんうん。笑わない、笑わない」
花はあえて目を逸らし、伊勢エビをパクパクと口に放り込む。
「いま思いついたばかりなんですけど……その、ハンバーガー屋さんをやってみたいかなぁって……」
「うん。いいんじゃない。ハンバーガー屋さん。美味しければ、きっと大繁盛すると思うわよ」
「そう……ですか?」
「うんうん。そうそう」――と、花は明るい声で背中を押す。
その言葉に砂理は照れくさそうに微笑んだ。そしてすぐにハンバーガーを嬉しそうに頬張り始める。
なるほどね。生まれて初めて食べたハンバーガーが美味しかったから、ハンバーガー屋さんになりたいと思ったのね――と花は察した。
そして思った。それは子どもらしい単純な発想だが、それを素直に思えるのはすごいことだと、この年齢になってようやくわかった気がする。たぶん、そういう素直な気持ちにまっすぐ向き合うことが、自分には足りなかったのだ。だからこうして大人になって、後悔ばかりする人生になってしまったのだ。
まあ、今さら言っても手遅れだけどね……。
「――それじゃあ、花さん。おやすみなさい」
ディナーを終えた花と砂理は、それぞれに割り当てられた客室の前まで足を運んだ。二人の部屋は隣同士で、砂理は軽く手を振ってから、自分の部屋に入っていく。花もドアのセンサーに手首のブレスレットをかざしてロックを外し、中に入る。
「わお。さすが高級ホテル。すごいわね」
花は軽く目を見張った。室内は一人で泊まるには十二分に広く、しかもベッドはキングサイズで、開放的なベランダにはゆったりとしたソファとローテーブルまで置いてある。備え付けの冷蔵庫を開けてみると、ミネラルウォーターや炭酸飲料、ミニボトルの洋酒がぎっしりと詰まっている。
「ミニバーも充実してるわね。ネスクはアルコールの規制があるって話だから、今のうちに飲み納めしておこうかな」
花は手早く服を脱いでシャワーを浴びた。それからバスローブ姿でベランダに足を向ける。高層階だからだろうか。外に出ると、ときおり風が吹き抜けてけっこう涼しい。手すりに近づいてみると、夜の東京湾に明るい月が浮かんでいる。
「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなお、蛍の多く飛びちがいたる――ってね」
花はブランデーを注いだグラスを掲げ、黄色い月にウインクした。すると不意にノックの音が微かに響いた。
ドアを開けると、バスローブをまとった砂理が突っ立っている。花が部屋に招き入れると、砂理はベッドに腰を下ろしてぽつりと言った。
「あのぉ、花さん。今夜、一緒に寝てもいいでしょうか……?」
(ああ、そういうことね)
親元を離れ、寂しくなったのだろうと花は察した。
「別にいいわよ。寝る前に何か飲む?」
「いえ。今日はちょっと疲れたので……」
そう言って砂理はベッドに横になり、すぐに動きを止めた。どうやら一瞬で眠りに落ちたらしい。
(あらあら。ほんとに疲れていたみたいね)
花は軽く苦笑いを浮かべ、再びベランダに足を向ける。
しかしふと振り返り、砂理の顔をのぞき込んだ。砂理は静かな寝息を立てて、完全に寝入っている。花はサイドテーブルの灯りをつけて、砂理のローブの袖をそっとめくった。――そのとたん、思わず顔をしかめてしまった。
(こ……これはひどい……)
花は砂理を起こさないように注意しながら、足や背中、胸も見た。顔以外のほとんど全身に紫色のあざがある。おそらく長い間、何度も何度も叩かれ続けたのだろう。素人が見てもわかるほど、新しいあざと古いあざが混在している。
(だから夏なのに、長袖のセーラー服を着ていたのね……)
花は音を立てずに灯りを消した。そして再びベランダに出て月を見上げる。酒を飲みたい気分はどこか遠くに消え失せていた。今の胸の中には二つの感情しか見当たらない。それは怒り。そして悲しみ。悲しみ。悲しみ。悲しみ――。
ああ……。どうしてこの世は、こんなに歪んでいるのだろう……。
花はソファに腰を下ろし、膝を抱いて丸まった。そしてぽたりと、涙を流した。
本作をお読みいただき、まことにありがとうございます。
少ないですが、単語の補足説明をさせていただきます。
・パーテーション → 衝立。仕切り用の壁。
・伊勢エビのテルミドール → テルミドール=クリームソース焼き
その他、何かご不明な単語等がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
次回はいよいよ移住審査の発表になります。
そしてついにあのオッサンが大活躍(?)しますので、ご期待ください。
記 : 2018年 5月 27日 松本 枝葉