その花 第七章 : 葬天の刻 2
いったい、どこで間違えてしまったのだろう――。
ソファの上で目を覚ました花は、遠い天井に向けて片手を伸ばした。
そして知事室の白い天井を見つめたまま、緑色の芝生を探す。倒れて動かない久能を探す。どれだけ手を伸ばしても、もう届かない未来を探す――。
(何も、見えない……)
涙が一筋、静かに流れる。
ああ……。いったい、どうすればよかったのだろう。
いったいどうして、こんなことになってしまったのだろう。
わからない……。
ううん――。
本当はわかっている。
ぜんぶ、わたしが悪いんだ。
人間は一人ひとり違うのに。考え方が違うのに。価値観が違うのに。そんなことはわかっていたはずなのに――。わたしは結局、何もわかっていなかった。自分の勝手な思い込みを基準にして、難民たちを判断していた。
同じ人間同士なのだから、話せばわかる。理解し合える。助け合える。尊重し合える。優しい世界を作っていける。手に手を取って、平和な世界を作っていける――。そう思い込んでいた。
だけど、それは間違いだった。
人間には誰にでも、『善の心』と『悪の心』が必ずある。つまり、すべての人間が善人であり、悪人なのだ。そしてその善悪のバランスは、人によって大きく異なる。
楽をしたい、金がほしい、自由気ままに生きていきたい――。そう強く願う人間ほど、自分の心のままに行動する。ダグラスとハッサンとアーメドは、そういうタイプの人間だった。彼らは自分の欲望に忠実な人間だったのだ。
ダグラスは金がほしい。だからネスクを狙う中国に協力した。ハッサンはカートを噛みたい、アーメドは土地がほしい。だから彼らはダグラスの計画に加担した。そう。彼らは弱肉強食の生存本能で生きているのだ。だから必要ならば誰にだって媚びへつらうし、必要がなくなれば誰にだって牙を剥く。
つまり彼らにとって、彼らの行動は悪ではないのだ。自分たちさえ楽ならそれでいい、自分たちさえ自由ならそれでいい、自分たちさえ幸せならそれでいい――。それが彼らの基準なのだ。そしてその結果、誰が泣こうと、誰が苦しもうと、誰が死のうと、そんなことは彼らの知ったことではないのだ。
ああ……。
なんという邪悪――。
わたしは彼らの本性にまったく気づいていなかった。しかし、今ならハッキリわかる。戦争難民はたしかに悲惨だ。しかし、その悲惨な状況を生み出したのは彼ら自身のおこないなのだ。彼らの歴史が培った、彼らの自分本位な国民性こそが、彼らの悲惨な現状を紡ぎ出したのだ。つまり彼らは争いの火種そのものなのだ。そしてそんな火種を受け入れたら、燃え移って当然だったのだ――。
花はゆっくりと体を起こした。
少し離れた円卓に、代表議員たちが集まっている。十三名全員が厳しい表情でうつむいている。ガラスの壁に目を向けると、夏の空が夕暮れの赤に染まっていた。腕輪を見ると、午後の五時過ぎ――。五時間近くも気を失っていたのかと、花はそっと息を吐き出した。
それから再び議員たちに顔を向ける。誰もが口を固く閉ざし、思案に思案を重ねている。しかし、彼らはダグラスたちの企みをまだ知らない。それを伝えるのが、セイに命を救ってもらった自分の仕事だ――。花はそう覚悟を決めて立ち上がり、法条に近づいた。
「……法条知事。報告があります」
声をかけられた法条は、無言で顔を上げて花を見据える。円卓の議員たちも二人に視線を注いでいる。
「難民たちは明日の正午に、大山地区の独立を宣言するつもりです――」
その瞬間、法条以外の議員たちは一斉に目を剥いた。花は法条を見つめたまま言葉を続ける。
「麻薬を密輸し、ネスクの機密情報を盗んでいたのはダグラス・テイラーです。ハッサン・サウード・ユーセフ・アルヤマンと、アーメド・アブドルラフマンもダグラスの企みに加担しています。彼らは麻薬を使って難民たちを支配して、ネスクの制圧に利用するつもりです。そしてダグラスたちを操っているのは、中国とイギタリアです」
「……やはり、そうでしたか」
ざわめく議員たちの中でただ一人、法条だけが落ち着き払って呟いた。
「ということは、難民たちが大山地区で独立を宣言すると同時に、中国の人民軍がネスクに攻め入ってくるという段取りですね」
はい――。花は一つうなずいた。
「それと同時に、日本各地に潜伏している人民軍の特殊部隊が破壊活動を始めます。警察と自衛隊、在日アメリカ軍の行動を封じるのが目的です」
「なるほど……。準備万端というわけですか」
法条は手のひらを上に向けながら、隣の美東に声をかける。
「どうやら我々は、あちらさんの思惑どおりに動かされたみたいですね」
言われた瞬間、美東はこぶしを強く握り、悔しそうに唇を噛みしめた。その仕草に法条は軽く肩をすくめたが、表情は厳しいままだ。
「さて、ネスク代表議員の皆さん。お聞きのとおり、情勢は逼迫しています。飽海さんが入手した情報によると、タイムリミットは明日の正午。つまり、残り19時間――。この危機を切り抜ける方法をなんとかひねり出してください」
「今すぐ自衛隊に出動を要請しましょう!」
第十一エリア代表の村木祥子が声を張り上げた。
「言うまでもなくネスクは日本の行政区です。国土防衛のために自衛隊が出動するのは当然です!」
「ですがそうすると、中国の特殊部隊が即座に破壊活動を開始するでしょう。大山地区の難民たちも、明日を待たずに独立宣言をおこなう可能性が出てきます。そうなると、もはやネスクだけの問題ではなく、国際問題に移行します」
「ですが法条さん」
今度は第十二エリア代表の浅野学が口を開いた。
「他国の軍隊が攻めてくるとなれば、遅かれ早かれ自衛隊の出動は避けられません。ここは熟慮の段階ではなく、拙速を尊ぶべきではないでしょうか」
「私も浅野議員の意見に賛成です」
美東がすぐさま同意した。
「事ここに至っては、もはやなりふり構ってはいられません。ネスクガードを総動員して大山地区を封鎖し、自衛隊に制圧してもらう以外に方法はありません」
「なるほど……。ですが皆さん、これを見てください」
法条はパネルを操作して、全員のモニターに映像を表示した。
「これは大山地区につながるすべての道路です。見てのとおり、難民たちがバリケードを設置して完全に封鎖しています。ここにネスクガードを投入して防衛線を張るのはいいでしょう。ですが、自衛隊が大々的に大山地区の制圧に向かったら、中に取り残された一般人はどうなりますか?」
その言葉に花は両目を見開いた。
(そうだった……。道路が封鎖されているということは、砂理ちゃんと田川さんはまだあそこにいるということだ……)
「ご存知のとおり、大山地区にいるのは難民だけではありません。ネスクの一般市民192名と、ネスクガードの隊員14名、合わせて206名が取り残されています。このまま自衛隊が出動すると、彼らは難民たちに殺されてしまう可能性があります」
そう言って、法条は円卓を見渡した。議員たちはさらに厳しい表情でモニターをにらんでいる。
(おそらくみんな、頭の中で計算しているのね……)
花は議員たちの思考を読んだ。
ネスク市民206名の命と、ネスクの存亡――。どちらを優先すべきかなんて考えるまでもない。しかし、それを口に出すのは非常に苦しい。今は涙をのんで決断を下さなくてはならないと誰もがわかっている。しかし、わかってはいるのだが、一秒でも、一瞬でも、その時を遅らせたいのだ。だったら――。
「わたしが行きます」
不意に花が口を開いた。その場にいる全員が、ハッと顔を上げて花を見つめる。
「わたしが大山地区に潜入して、ネスクの市民を助け出します」
「何を言っているの! ただの職員にそんなことできるわけないでしょ!」
村木祥子が目を吊り上げた。しかし花は冷静に見返して、口を開く。
「お言葉ですが、それは逆です。これはわたしにしかできない任務です。なぜならわたしはこの四か月間、大山地区の隅々まで歩き回ってきたからです」
花は議員一人ひとりを見つめながら言葉を続ける。
「わたしは11万3,000人の難民がどこに住んでいるのかを知っています。彼らが朝起きて何をするのか、どこに買い物に行くのか、どこに集まるのか、どういう時にどういう行動を選択するのか、そのすべてを知っています。そして、大山地区に取り残されたネスクの市民たちがどこにいるのかも知っています。さらに、彼らが難民たちに捕まった場合、どこに監禁されるのか目星もつきます」
「それなら」
美東が花を指さして言う。
「ネスクガードの特殊部隊を送り込みますので、あなたはここから指示を出してください」
「それはダメです」
花は即座に首を振る。
「市民の救出には一瞬の判断が重要になります。一秒の遅れも許されません。それにダグラス・テイラーは、通信を遮断する方法を持っています。確実に市民を救い出すには、わたしが直接行くしかないんです」
「ですが、あなたは戦闘訓練を受けていません。そんな素人に市民の救出を任せるわけにはいきません」
美東の指摘に、他の議員たちも無言でうなずく。しかし法条だけはパチンと指を鳴らし、花の主張に同意した。
「いえ。飽海さんの意見はもっともです。ここは一つ、飽海さんにお任せしましょう」
「ですが法条知事」
美東が慌てて食い下がった。
「やはり危険です。下手をすると飽海まで殺されてしまうかもしれません」
「別にいいじゃないですか」
法条はあっさりと言い放った。その言葉に、十二名の議員たちは驚きのあまり目を丸くした。
「ご存知のとおり、ネスクガードの総司令である久能瀬衣は殉職しました。皆さんも薄々気づいていたとは思いますが、彼は私の弟です。血の繋がった肉親です。ですので、私の大事な弟を死なせた飽海さんの命なんか知ったことではありません」
「わたしも同感です」
花も即座に口を開く。
「わたしが悪いんです。わたしは誰よりも難民たちの近くにいたのに、彼らの企みに気づくことができませんでした。だから、セイが殺されたのはわたしの責任です。だからどうかお願いします。わたしに行かせてください。この命に換えても、ネスクの市民全員を必ず救い出します」
「――はい。よく言いました。それでは、時間がありませんので決を採ります」
法条はすぐさま両手を叩き合わせ、強引にまとめに入る。
「まずは大山地区の東側にネスクガードで防衛線を張ります。そして難民たちの注意を引き付けている間に、飽海さんが取り残された市民を助け出します。それから自衛隊に出動を要請し、武装している難民たちを制圧します。現状ではこれがベターです。ただし、飽海さんが失敗した場合は、即座に自衛隊に出動してもらいます。皆さん、この意味はお分かりですね?」
法条に目を向けられた議員たちは重々しくうなずいた。そしてすぐに手を伸ばし、賛否を問うパネルに触れた。
「――はい。結果が出ました。満場一致で可決です」
法条は椅子を回し、花をまっすぐ見上げて言う。
「それでは飽海さん。市民の救出はあなたにお任せしますが、プランはありますか? 必要なものがあったら何でも用意しますよ」
ありがとうございます――と花は答え、言葉を続ける。
「それでは、脱出用に人数分のサイレント・ビーをお願いします。それと、NESとHRGをお貸しください」
「NESっ!? あなたまさかっ!?」
いきなり美東が声を張り上げた。しかし法条はすぐに手のひらを向けて美東を黙らせる。
「いいでしょう。知事の専権事項として許可します。それと今回の事態が収拾するまで、飽海さんにはレベル10の裁量権を附与します」
「法条知事っ! レベル10って、そんな――」
「分かっています。全責任は私が負います」
再び声を張り上げた美東に、法条は優しく微笑んだ。それからおもむろに立ち上がり、室内の全員を見渡しながら語りかける。
「さて、皆さん。ネスクは今、存亡の危機に瀕しています。余力を出し惜しみしている場合ではありません。289万人のネスク市民を守るために全力を尽くしてください。そして、命を懸けて愛する女性を守った久能君のように、我々も命懸けで立ち向かいましょう」
その言葉で、その場にいるすべての者が決意を固めた。
花は奥歯を噛みしめ、涙をこらえた。そしてすぐに、法条と一緒に知事室をあとにした。




