その花 第二章 : 天堕の刻 3
「あっ、おねえさん。『壁』が見えてきました」
八重洲のバスターミナルを出発してから、およそ三十分後――。
軽く船をこいでいた花の肩を砂理がゆすった。花は軽く目をこすり、スモークが貼られた窓の外に顔を向ける。すると、巨大な鋼の壁がどこまでもまっすぐに伸びていた。
「ああ、国境についたのね」
国境といってもネスクは日本の特別行政区なので、正確にはただの境界線に過ぎない。しかし、一般人の多くはその巨大な壁を国境と呼んでいた。
移住審査に合格してネスクの住民になれば、死ぬまで生活の面倒を見てもらえる。それはある意味天国みたいな場所なのだが、普通の人間からすればただの刑務所にしか見えない。
だから国境という呼び名には、普通の社会とは違う『別世界との境い目』という意味と揶揄が込められている。ネスクに向かうバスに乗ることを天国堕ちと言うのも、それと同じ理由だった。
「この壁って、どこまで続いているんでしょうか?」
「たしか、幕張から九十九里浜だったかな。幕張、四街道、八街、九十九里浜って、ほとんど一直線に作ったみたいよ」
「そうなんですかぁ。でも、どうしてこんなに大きな壁を作ったんですか?」
「さあ。あの壁の向こうの情報は完全に遮断されていて、衛星画像もリアルタイムで強制削除しているって話だから、よっぽど見られたくないことでもやってるんでしょ。もしかしたら住民に足かせをはめて、無理やり働かせているのかもね」
「えっ!? そっ、そうなんですかっ!?」
砂理は肩を縮めておそるおそる花を見た。
「冗談よ」
花は砂理の頭を軽くなでる。
「でもね、あまり期待はしない方がいいと思う。ネスクの住民になれば死ぬまで生活は保障されるって話だけど、その『生活の質』がどれほどのものかわからないからね」
「生活の質、ですか?」
「そう。わたしの予想だと、たぶん刑務所より少しマシな程度なんじゃないかと思う。きっと最低限の不味い食事に、家は古くて狭い集合住宅。服は使い回しの古着ばかりって感じかな」
花は自嘲的に顔を歪めて言葉を続ける。
「それに、仕事は間違いなく肉体労働ね。男は建設現場でこき使われて、女は工場でミシン作業。全員朝の六時に叩き起こされて、夜の十時にようやく終わり。そんな生活が死ぬまで続くの」
「ネ……ネスクって、そんなに厳しいところなんですか……?」
「さあね」
一瞬で顔が青ざめた砂理に、花は肩をすくめてみせる。
「さっきも言ったけど、ネスクの中のことって外にはほとんど漏れないのよ。だから、壁の向こうがどんな世界なのか誰も知らない。だから、ネスクは天国みたいな場所って言われているけど、誰も本気で天国だなんて思っていない」
「え? それはどうしてですか……?」
「あの巨大な壁を見ればわかるでしょ」
花は目の前に迫ってきた壁を指さした。
「あれはどう見ても、住民を外に逃がさないために決まっている。つまり、あの向こうは基本的に刑務所と同じなのよ。しかも住民全員が無期懲役という、永遠の牢獄なの。だったら、生活レベルなんて最低と考えるのが妥当でしょ」
「そ……そんな……」
砂理は驚きのあまり目を見開いて絶句した。
(あらら。ちょっと脅かしすぎたかな)
花はペットボトルの水を飲み、小さく息を吐き出した。しかし、これでネスクに行くのを諦めるなら、それがこの子のためでしょう――と花は思う。
たった十二歳で普通の生活を捨てるなんて、どう考えても間違っている。ネスクに入ったら最後、二度と外には出られない。つまりこの子は、修学旅行で京都や沖縄にも行けなくなるし、海外旅行にも行けなくなる。広い世界を見ることなく、楽しいことを何も知らずに、壁の中の狭い世界で一生を終える人生――。そんなものに、いったいなんの意味がある。
それに、この子は父親に叩かれるのが嫌だと言っていたけれど、見たところ顔にあざがあるわけでもないし、普通に歩いて、普通に会話もできている。だったら虐待というほどのことではないのだろう。どうせこの年頃にはありがちな、反抗期混じりの現実逃避をしているだけだ。それなら天国堕ちなんかするよりも、親元で普通に暮らす方が百倍もマシに決まっている。
まだ中学一年生の子どもに対してあまりきついことは言いたくないが、わたしから言わせれば、親が生きているのは幸せな人生だ。保護してくれる人から逃げたいだなんて、社会の厳しさを何も知らない愚かな子どものたわ言だ。浅はかにもほどがある。人生を舐めるなと言いたくなる。
浅慮、愚劣、思考停止、無知蒙昧――説教の言葉なんかいくらでも湧いてくる。甘えた子どもの決意なんて、言葉だけでいくらでも砕いてやれる。そんなことはクッキーを割るのと同じくらい簡単だ。しかし――。
(天国堕ちを選んだわたしに、この子を諭す資格なんかないのよね……)
花は背もたれに寄りかかり、目を閉じた。ただバスに乗っているだけなのに、なんだかとても疲れた気がする。自分だって、できることなら天国堕ちなんかしたくない。だけど、それしか他に生きるすべが見つからなかった。だから、引き返す道が残っている砂理には、考え直してもらいたいと思ってしまうのだろう。
しかし、その気持ちは決して優しさなんかではない。ただの嫉妬だ。羨望だ。自分の持っていない選択肢を持っている相手をうらやんでいるだけに過ぎないのだ。ああ……なんという恩着せがましい、醜い感情なのだろう。そして、それがわかっているから、こんなにも心が疲れているのだ……。
「……わたし、いきます」
不意に砂理がぽつりと言った。
「それでもわたし、ネスクにいきます」
「……ほんとにいいの?」
「はい」
砂理は花をまっすぐ見つめて言い切った。
「わたし、去年からずっと考えていたんです。ほんとにいっぱい考えました。いっぱい悩みました。このまま家にいると、たぶんもっと悪いことが起きると思ったんです。だからわたし、ネスクにいきます」
「……そっか。決意は固いんだ」
花も砂理を見つめ返した。相手は子ども。しかしそれでも一人の人間――。どんなに幼い決断だろうが、責任の取れない他人が口を挟んでいい道理はない。ならばもはや、何も言うまい――。
「それじゃあ、はい」――花は砂理に右手を差し出す。
「え?」――と、砂理はキョトンとする。
「握手。友達になりましょ。わたしたち、一緒に新しい世界に行く仲間だからね」
「は……はいっ!」
とたんに砂理の顔が喜びに輝いた。少女は花の手を両手で握り、幸せそうに微笑んだ。