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その花 第六章 : 暗天の刻 9



「別に、それほど珍しい話ではありません――」



 工場の倉庫から、事務棟二階の小さな会議室に移動したダグラスが、窓の外の景色を眺めながら淡々と話し始めた。ハッサンとアーメドに無理やり連れてこられた花は、壁際の椅子に腰を下ろしてダグラスをにらみ上げる。


「ユダヤ人だってパレスチナの地に集まり、西暦1948年に自分たちの国を創ったでしょう。エジプトや中東諸国など、周囲を取り囲むすべての国家が反対したのに、彼らは金の力で欧米諸国を味方につけて、新しい国を一つ創り上げたのです」


 部屋の入口ではハッサンが相変わらずカートをクチャクチャと噛み続けている。アーメドは作業机の上にあぐらをかき、ラクダ肉のジャーキーを噛み千切っている。ダグラスは花の向かいの椅子に座り、話を続ける。


「西暦2014年に起きた、ロシアによるクリミアの編入もそうです。ロシア連邦がクリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市をウクライナから奪い取った事件です。世界中の国々は猛烈に抗議しましたが、結局はロシアのモノになってしまったではありませんか」


「……だからって、ネスクを占領するなんて、そんなことできるはずがないでしょ」


 花は憎々しげに言い放つ。しかしダグラスは手のひらを上に向けて、軽く微笑む。


「ま、普通はそう思うでしょう。ですが、我々は既に房総半島の南端を占領しています。そして明日、つまり八月一日の正午には、独立を宣言する予定です」


「どっ!? 独立ですってっ!?」


 ええ――。ダグラスはニヤリと笑ってさらに言う。


「その独立宣言と同時に、中国、ロシア、南北朝鮮などの国々が、我々を正式な国家として認定します。そして我々の自治防衛を支援するために、中国は軍隊を派遣してくれます。我々はその軍事力を使ってネスクに侵攻し、三日以内に制圧します。うまい具合に北緯36・65度線に巨大な壁がありますから、そこを国境にする予定です」


「なっ! なにをバカなことを言ってるの!? そんなこと、この現代社会でできるはずないじゃない!」


 花はさらに声を張り上げる。


「日本には自衛隊だってあるのよ! そもそも同盟国のアメリカが黙っているはずないんだからっ!」


「それはもちろん分かっています。ですから、中国は長い年月をかけて日本の土地を買い続けてきたのです」


「え……? 土地……?」


 落ち着いて話すダグラスを見て、花は思わず眉を寄せた。


「ええ。ご存知ないかもしれませんが、今や日本の土地の8パーセントは中国のモノです。そして、そこには既に人民軍の特殊部隊が待機しています。彼らが一斉に破壊活動を開始すれば、日本の警察と自衛隊、そして在日アメリカ軍は機能不全に陥るでしょう」


「そ……そんな……。そこまで大掛かりな計画なんて……そんなことが……」


 瞬時に顔が青ざめた花を見て、ダグラスは満足そうに一つうなずき、話を続ける。


「いいですか、ハナさん。中国にとって日本は目の上のたんこぶです。なぜなら、日本があるせいで太平洋への入口が閉ざされているからです。しかし、房総半島が中国の土地になれば、彼らの世界は一気に広がります。そして莫大な海洋資源を手に入れることができるのです。だったら、彼らが必死になってもおかしくはないでしょう」


「……つまり、あなたたちは中国の手先ってこと?」


「いえいえ。ただのビジネスパートナーです」


 ダグラスはわざとらしく片手を振った。


「分かりやすく言えば、こういうことです。多くの日本人はアフリカの国々に関心がありませんし、どうなろうと知ったことではないはずです。それと同じです。我々もまた、日本やネスクがどうなろうとどうでもいいのです」


「なんて自分勝手なことを……」


「ハハハ。それはこちらのセリフですよ」


 軽蔑の眼差しを向けた花に、ダグラスは乾いた笑い声を漏らしてさらに言う。


「悪意もそう。思いやりもそう。すべては毒になるのです。難民を見捨てることが自分勝手と言うのなら、難民に手を差し伸べることもまた、自分勝手と言うべきなのです」


「なんでよっ! 困っている人に手を差し伸べることのどこが自分勝手なのよっ!」


「簡単な理屈です。難民を助けるには金がかかる。では、その金は誰が出すんですか? 決まっています。税金です。ですが、税金とはそもそも自分たちの国民のために使うべき金です。それを見知らぬ外国人を養うために使うなんて、そんなことは一部の政治家の自分勝手な判断です」


「それは国家としての外交政策なんだから仕方ないじゃない!」


「ですがハナさん。その金をバラまく外交政策のせいで日本の税金は上がり続け、人口の半分近くが貧乏階級に転落しました。そしてまともに生活できなくなった日本人には、もはやネスクに逃げ込むしか選択肢がなくなったのです――。そうですよね?」


「そ……それは……」


 花は思わず息を呑んだ。それはたしかに事実だった。


「ハナさんもそうではないんですか? アナタも普通の生活ができなくなったから、ネスクに逃げてきたんでしょう? そんなアナタに他人を助ける余裕なんてあるのですか? アナタには難民を助ける経済的な余裕なんかないでしょう。アナタはただ、ネスクの税金を湯水のようにバラまいて、難民たちに施しをしているだけです。それで偉そうに善人を気取るなんて、みっともないとは思いませんか? それこそ、ひとりよがりの自分勝手な人間というものでしょう」


「なっ! なによっ! 今までさんざん助けてもらっておきながらっ! 偉そうな口を叩いてるんじゃないわよっ!」


「ハハハ。ついに本音が出ましたね」


 ダグラスがニヤリと笑った瞬間、花はハッと口を押さえた。しかし、一度口にした言葉はもう戻らない。


 ダグラスは花を見ながら楽しそうに笑っている。ハッサンも、カートを詰め込んだ頬をリスのように膨らませて笑っている。アーメドは口の中のジャーキーを床に吐き捨て、花をにらみつけている。


「ハナさんも結局、難民たちを下に見ていたってことですね」


 ダグラスは意地悪そうに微笑みながらさらに言う。


「オマエたちは貧乏で哀れだから施しを与えてやる。だから、ほら。ひざまずいて感謝しろ。涙を流して日本人を褒め称えろ――ってね。ハナさんにとって、難民たちはペットと同じってことですね。そうやって、ワタシたちを人間として見ていなかったアナタに、ワタシたちを責める権利なんかないでしょう。お互い様というヤツです」


(くやしい。くやしい。くやしい。くやしい……)


 花はダグラスをにらみながらギリギリと奥歯を噛んだ。悔し涙が次から次にあふれ出す。


 今日までほとんど丸一年間、自分は身を粉にして働いてきた。困っている難民がいたら手助けしてきた。病気の子がいたら診療所まで抱えて走った。老人が亡くなったら葬式を手配した。雨の日だろうと、風の日だろうと、雪の日だろうと関係なく、呼び出されたら休みの日でも駆けつけた。朝だろうと夜だろうと関係ない。それこそ二十四時間、いつでもだ――。



(それなのに……。それなのに……。わたしはそんなふうに思われていたのか……)



 花の目から涙がこぼれる。ポタリポタリと滴り落ちる。その姿を、ダグラスはニヤニヤと笑いながら眺めている。鼻で笑って馬鹿にして、ふんぞり返って観賞している。


「……しかし、ハナさんが約束の時間を守らずに、こんなに早く来るとは思いもしませんでしたよ。おかげで難民たちを手懐けるドラッグの隠し場所を見られてしまいました。ですが、こうなっては仕方がありません。予定よりかなり早いですが、大山地区を完全に封鎖します。そしてアナタには、このまま我々の捕虜になってもらいます」


 淡々と告げるダグラスを、花はにじんだ瞳でにらみつける。


「なあに。心配することはありません。アナタのおかげで我々の計画は最終段階まで漕ぎつけましたからね。そのお礼として、丁重に扱うことをお約束しますよ。ネスクを占領するキッカケを与えていただき、本当にありがとうございました」


 そう言われた瞬間、花はおもむろに立ち上がった。そして両手で椅子をつかみ、ダグラスに向かって投げつけた。


「うおっ!」


 ダグラスは慌てて床に飛び込んだ。直後、椅子と椅子がぶつかり合い、激しい音が部屋に響いた。ギリギリで椅子を避けたダグラスは、ゆっくりと立ち上がって肩をすくめる。ハッサンとアーメドは小馬鹿にした目つきでダグラスを眺めている。女相手に何やってんだ――と、顔にハッキリ書いてある。


「……あなたたちは、最初からネスクを乗っ取るつもりだったわけね」


「ええ、そうです」


 低い声で訊いた花に、ダグラスは服のほこりを払いながら答える。


「そのために、中国とイギタリアが裏であれこれ手を尽くしましたからね」


「法条知事が難民の永住を許可しなかったら、どうするつもりだったの」


「住民投票で負けた場合は、アナタを人質にしてネスクガードの動きを封じ、難民全員で大山地区を占拠する予定でした。麻薬の密輸に使っている潜水艦に人民軍の特殊部隊を待機させていたので、法条知事の決断がなければ血の雨が降っていたはずです」


「潜水艦って……そんなものまで……」


「別に驚くことではないでしょう。ネスクというのは、そうまでしてでも手に入れる価値のあるエリアですから」


「価値……?」


「まあ、ハナさんはご存知ないとは思いますが――」


 ダグラスは椅子を起こして、腰を下ろす。


「ネスクの正体は、最新の兵器工場なんですよ」


(えっ? 兵器工場……?)


 花は怪訝そうに眉を寄せた。ダグラスの言っている意味が理解できなかった。


「いいですか? 考えてもみてください。どうしてただの特別行政区を、あれほど巨大な壁で隠す必要があるのか。どうしてネスクの住民は二度と外に出ることができないのか。どうして住民の四割が自宅勤務なのか。そしてどうして、三人一組という少数でプロジェクトチームを組んでいるのか――」


 そう言われたとたん、花はハッと目を見開いた。


「そ……それってまさか……」


「そうです。巧妙に仕事を分割することで、ネスクの住民に自分たちが何を設計して、何をプログラミングしているのか気づかせないまま、軍事開発をさせるためです。しかし中には勘の鋭い人間もいる。真実を見抜く人間もいる。そういう人間を逃がさないために、あの壁はあるのです」


「そ……そんなバカな……」


「バカな話ではありません。むしろかなり洗練されたやり方です。ネスクの工場だってそうです。ほとんどすべての工程がオートメーション化されているのは、誰にも気づかれないように兵器を作るためです。そうして作った最新の兵器を世界中の軍隊に売ることで、ネスクは莫大な利益を確保しているのです」


(うそ……。うそよ……。そんなの……うそに決まっている……)


 花はよろめき、後ろに下がった。ネスクは誰もが幸せに暮らせる場所だ。誰もが幸せに働ける場所だ。それがまさか兵器を作らせるためだったなんて、そんなバカな話、あるはずがない……。


「うそではありません。現にワタシはこの一年でネスクの機密情報をいくつか盗み出しましたが、その中には軍事利用が可能な最新のテクノロジーが数多く含まれていました。はっきり言ってネスクの技術は世界の最先端です。だから中国はネスクがほしいのです。ネスクというのは技術的にも、地政学的にも、中国にとってはノドから手が出るほどほしいエリアなんです」


「そんな……そんな……」


 花は壁に寄りかかり、愕然とした。


 ダグラスの言葉なんか信じたくない。しかし、言われてみると思い当たることがいくつもある。久能が使用していた電撃銃もそうだ。人間が乗ることができるドローンだってそうだ。あんなモノ、外の世界では見たことも聞いたこともない。判断支援人工知能のシエンもそうだ。世界最高峰のフォトン・コンピューターだってそうだ。どれもこれも、外の世界の技術とは比べものにならないほど優れている――。


「それじゃあ……わたしたちは知らないうちに、人殺しの道具を作っていたの……?」


「そういうことです」


「そんな……だって、ネスクは天国だって……」


「ええ、もちろんそうです。ネスクが作った兵器によって、今も世界のどこかで大勢の人間が天国に送り込まれています。ネスクがあらゆる意味で天国ということは間違いないでしょう」


(な……なんて恐ろしいことを……)


 花は床にへたり込んだ。考えたくなかったが、たしかに兵器というのはそういうものだ。人を殺す道具なのだ。戦争に使われる道具なのだ。そんな薄汚い道具を作ることに自分が加担していたなんて、とても信じられない……。信じたくない……。うそだ……。うそよ……。何かの間違いに決まっている――。


 ハッ!


 不意に激しい音が部屋中に響き渡った。


 ガラスが砕ける破壊音だ。花はとっさに目を向けた。すると、外から飛び込んできた男が転がりながら立ち上がった。ネスクガードのジャンパー姿――。サイドの髪を刈り上げた男――久能瀬衣だ。


「えっ!? セイッ!?」


「花っ! 伏せてろっ!」


 久能は素早く腰の電撃銃を抜きトリガーを引く。小さな雷鳴が瞬時に轟く。青いイナズマがダグラスを一瞬で打ち倒した。ハッサンは慌てて部屋の外に飛び出していく。アーメドは近くの椅子を片手でつかんで走り出した。そのまま椅子を頭上に振り上げ、久能に向かって襲いかかる――。


 瞬間、電撃銃が再び吠えた。雷光が空気の壁を突き破る。青い電撃がアーメド目がけて突き進む。直後――アーメドはイナズマを椅子で叩いてかき消した。さらにそのまま久能に飛びかかり、岩のようなコブシを久能の顔面に叩き込んだ――。


 寸前、久能は目の前に飛んできたパンチを左手で右側に受け流し――そのまま横に一回転。右の肘をアーメドの背中に叩き込んだ。さらに腰を落として足を踏ん張る。両手を全力で前に突き出し――アーメドの巨体を吹っ飛ばした。


 壁に叩きつけられたアーメドは反動で床に倒れ込んだ。しかし即座に体を起こして怒りの声を吠え上げる。さらにそのまま久能に向かって全力の体当たりをぶちかました――刹那、久能はその場にしゃがみ込み、アーメドの足を蹴って払った。アーメドはもんどり打って床に激突。その背中に久能は電撃銃のトリガーを引いた。青い雷光がアーメドの巨体を瞬時に貫く。アーメドは一言も漏らすことなく動きを止めた――。


「花っ! 無事かっ!」


 久能は電撃銃を腰のホルスターに突っ込みながら花に駆け寄った。


「え、ええ、わたしは大丈夫だけど……」


「よし! すぐに脱出だ!」


 久能はさっさと花を抱き上げ、窓に走る。花は思わず仰天して声を張り上げた。


「えっ!? だっ、脱出って、どうするつもりっ!?」


「黙ってろ! 舌をかむぞ!」


 久能はそのまま割れた窓から飛び出した。


(えっ!? ちょっ!? うそっ!? ヤダっ!? いやっ! ここ二階! 二階二階二階二階っ! ぎやああああーっ!)


 花は心の中で叫びまくった。工場の二階はマンションでいうと三階以上の高さがある。久能と一緒に落下した花は白目を剥いた。


 しかし久能は落ち着き払って地面に着地――。そのまま衝撃を逃がすように花を抱いたまま大地に転がり、すぐに立ち上がって走り出す。


「……え? うそ。なんで? わたし、生きてる……?」


 花は呆気に取られて呟いた。どうして二階から飛び降りて無事なのかまるで理解できない。


「当たり前だ」


「いや、当たり前じゃないでしょ。あなた、もしかして改造人間?」


「アホか。これぐらい空挺隊員なら誰でもできる」


 久能は近くの木まで走り、花を下ろす。そしてすぐさま腰の端末を操作した。すると青い空から何かが一直線に降りてくる。


「あれは……ドローン?」


「ああ。上空で待機していたサイレント・ビーだ。事情はあとで聞くから、今はとにかくあれに乗って脱出するぞ」


 久能は降りてきたドローンの足場に花を乗せる。さらにポールの固定具に花の右手首を差し込んでロックした。


「幕張までは自動操縦で飛んでいく。ポールにしっかりつかまっていろ。怖かったら下を見るな」


「え? セイは一緒に乗らないの?」


「これは一人乗りだ。もう一機降りてくるから、おまえは先に行け」


 花を乗せたドローンが宙に浮かぶと、空からもう一機降りてきた。花はぐんぐん上昇するドローンにしがみつき、心配そうに久能を見下ろす。すると久能は慣れた様子でドローンに飛び乗り、止まることなく上昇してくる。


(ああ、よかったぁ)


 花はホッと胸をなで下ろした――瞬間、乾いた音が空に響いた。同時に久能がドローンから滑り落ちた。久能はそのまま芝生に転がり、動きを止めた。


「セイっ!?」


 花は声を張り上げた。ハッとして工場に目を向けると、逃げてきた二階の窓に誰かが立っている。ダグラスだ。ダグラスがライフル銃を構えている。しかもその銃口を空に向け、今度は花に照準を合わせている。


「いやぁーっ! セイっ! セイっ! セェェェイっっ!」


 しかし花はダグラスを無視し、久能に向かって手を伸ばした。ポールから右手も離して飛び降りた。しかし右手首の固定具が花の体を逃がさない。花が動いた衝撃でドローンは斜めに傾いた。しかしすぐにバランスを取り戻し、上昇を続ける。


 その瞬間、二発目の銃声が響き渡った。空中で大きく揺れたドローンの推進器に弾丸がかすめて火花が散った。しかし今の花には久能しか見えていない。


「セイっ! セイっ! セェェェイっっ!」


 花はドローンにぶら下がりながら手を伸ばした。しかしドローンは無情にも、速度を上げて上昇していく。


 遠ざかる恋人の姿――。

 芝生に倒れて動きを止めた大切な人――。


「まってっ! もどってっ! おねがいっ! おねがいだからっ! セイッ! セェェェイっ!」


 花は宙づりのまま声を張り上げた。しかし固定具は頑として花の手首を放さない。高度は既に百メートルを超えている。久能の姿はさらに小さくなっていく。


 花は叫んだ。


 声の限りに泣き叫んだ。のどが裂けんばかりに久能を呼んだ。そして悲しみの雨を降らせながら、空の彼方に飛んでいった――。




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