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その花 第六章 : 暗天の刻 7



 七月三十一日、月曜日、午前九時――。



 難民支援室のオフィスに出勤した花は、自分のデスクで冷たい麦茶をすする田川と、床の上で寝袋にくるまって転がる映美を交互に見ながら話をしていた。


「――というわけで、二人にお願いがあります。わたしでも美味しく作れる手料理を教えてください」


「あきらめたら?」


 反射的に映美がボソリと言った。


「久能さんの誕生日って、明後日なんでしょ? いくらなんでも、今からじゃ無理っしょ」


「そうですねぇ。私も無難にレストランがいいと思います」


 田川もうなずきながら映美の言葉に同意を示す。しかし花は不機嫌そうに顔を歪めて食い下がる。


「そんなのダメよ。せっかくの誕生日だもん。わたしだって美味しい料理が作れるってことをキッチリ見せつけてやるんだから。それであいつの鼻っ柱をへし折ってやらないと、わたしの気が済まないの」


「いや、ハナミーはいったい何と戦ってるわけ?」


「プライドですが、何か?」


「ふーん。ハナミーって恋人の誕生日を祝うより、自分のプライドが優先なんだぁ」


 映美は死んだ魚のような目で花を見上げた。


「ほんと、めんどくさいオンナだよねぇ。なんで久能さんは、こんな地雷オンナと結婚しようと思ったんだろ。言っちゃ悪いけど、オンナを見る目がなさすぎだよねぇ」


「うるさいわねぇ」


 花はミノムシのように転がる映美を、鬼のような形相ぎょうそうでにらみ下ろした。


「生理痛でまともに仕事もできない元アイドルの方が、よっぽどめんどくさいと思うけど」


「あたしはいいの。そういうキャラなんだから。あ、ハナミー。麦茶とって」


 はいはい――と、花は呆れ顔でストロー付きの水筒を映美に手渡す。映美は白い錠剤を麦茶で飲み込み、息を吐き出した。


「ま、ハナミーでも作れる美味しい料理っていうと、やっぱ湯豆腐じゃない? あれ、ちょー簡単だし」


「え~、八月に湯豆腐はないでしょ~」


 花はあからさまに嫌そうな表情を浮かべて言葉を続ける。


「もっとこう夏っぽくて、美味しくて、手間がかかってそうに見えて、それでいてわたしでも作れる簡単な料理がいいんだけど」


「そんなのあったら、あたしの方が知りたいわ」


「だから、それを二人に考えてほしいのよ」


「なんで丸投げされなくちゃいけないのよ」


 映美はわざとらしいため息を吐き、田川もそっと顔を逸らす。するとその時、花の背後から凛とした中年女性の声が飛んできた。



「――話は聞かせてもらいました」



 部屋の中央にあるフラットモニターのそばに立っていた花は反射的に振り返る。そこにはクールビズ姿の美東真冬がピシッと背すじを伸ばして立っていた。


「びっ! 美東さん! おっ、おはようございますっ!」


 花は慌ててかしこまる。田川も即座に席を立ち、丁寧に頭を下げる。映美は寝袋から片手を出して、会釈代わりに肩をすぼめる。


「花さん! おはようございます!」


 不意に美東の後ろから、砂理がひょこっと顔を出した。


「あら、砂理ちゃん。もう来たの?」


「はい。ちょっと早めに着いたら美東さんにバッタリ会って、中に入れてもらっちゃいました」


「当然です。子どもを炎天下に置いておくわけにはいきません」


 美東はコホンと咳払いし、再び花をまっすぐ見つめる。


「それより飽海さん。先ほどの話は聞かせてもらいました。クソ生意気な男どもを手料理で見返してやろうという、その心意気はあっぱれです」


 いや、男どもじゃなくて、たった一人でいいんですけど――と花は思ったが、とても口に出せる雰囲気ではないので黙っておいた。


「そういう事情でしたらよろしいでしょう。やむを得ない案件として、『シエン』の使用を許可します」


「えっ? 『シエン』って、こんなことで『判断支援人工知能』を使っていいんですか?」


 花は思わず呆気に取られた。判断支援人工知能――愛称『シエン』は、ネスク内のあらゆる業務をサポートする超高性能な人工知能だ。それを個人的な悩み相談に使うなんて花には思いもつかなかった。


「もちろん構いません。悩み事は職員のパフォーマンスに悪影響を及ぼし、ヒューマンエラーを引き起こすきっかけになります。それを未然に防ぐためなら、使用条件はじゅうぶんに満たしています――としておきましょう」


 美東は淡々と言いながらフラットモニターを操作して、判断支援人工知能の使用を承認する。


「さあ、飽海さん。準備はできました。世界最高レベルのフォトン・コンピューターに組み込まれた人工知能『シエン』から適切な解答を得て、クソ生意気なロクでもない男どもに目に物を見せておあげなさい」


「はっ、はいっ! ありがとうございますっ!」


(やったーっ! 超ラッキーっ!)


 花は顔を輝かせながらフラットモニターに目を落とした。すると、画面に表示されたかわいらしい少女のキャラクターが、花を見上げてにこやかに微笑んでいる。シエンのインタフェース・キャラクターだ。


「それじゃ、えっと……鏡よ鏡よ、鏡さん――じゃなくて、シエンちゃん。質問があります」


『はーいっ! 飽海さん! おっはよぉーございまぁーすっ! それで、本日のご相談はなんでしょうか?』


「えっと、明後日の八月二日が婚約者の誕生日なんだけど、手料理を作ってお祝いしてあげたいんです。それで、わたしでも作れる簡単で美味しい料理を教えてください。できれば手間がかからなくて、見栄えがよくて、文句のつけようのない完璧な料理でお願いします」


『はーいっ! ご質問、うけたまわりましたーっ! 飽海さんにおすすめのお料理はこちらでぇーすっ!』


(おおっ! 一瞬で答えを出すなんて、さすが世界最高の人工知能ね!)


 元気いっぱいの笑顔を浮かべているシエンを見て、花は期待に胸を膨らませた。


 美東も田川も興味深そうに画面をのぞきこんでいる。映美もよろよろと立ち上がり、砂理に支えてもらいながらフラットモニターを見つめている。


 そして五人の目の前で、画面の中のシエンは軽やかなドラムロールを演奏し、キメ顔でポーズを取った。


『ズバリっ! 飽海さんにおすすめのお料理はっ! ――ジャンジャ~ン♪ ジャカジャカジャ~ン♪』




 ラザニア(冷凍食品)。




 その画像がパッと表示された瞬間、難民支援室は静寂に包まれた。


 美東と田川は画面に映るラザニアから無言でそっと目を逸らす。映美は何事もなかったかのように再び床に寝転んだ。砂理は凍りついた笑顔でパチパチとまばたきを繰り返している。花はかわいらしく微笑むシエンを見つめながら、唇を噛みしめてこぶしを握りしめた。



 それから花は、美東が手配したヘリコプターに乗り込み、田川と砂理を連れて大山地区に移動した。




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