その花 第六章 : 暗天の刻 5
工場で泣き崩れていた砂理の元に花が駆けつけてから、およそ一時間後――。
南町エリアにある総合病院に移動した花は、休憩室のベンチで肩を落としている砂理にパックジュースを手渡した。
「はい。のどが渇いたでしょ」
「……はい」
花が隣に座ると、砂理はジュースを少し飲む。つい先ほどまで泣きじゃくっていたので目が赤く腫れている。
「ごめんなさい、花さん……。わたし、頭の中が真っ白になっちゃって……」
「大丈夫よ。砂理ちゃんがわたしに電話してくれたおかげで、あの子も助かったんだから」
ようやく落ち着きを取り戻した砂理に、花は優しく声をかけた。
しかし、状況はそれほど優しくないことも認識していた。救急搬送された黒人の女の子が、今もまだ意識不明の状態で治療を受けているからだ。
「それで、砂理ちゃん。何があったのか話してくれる?」
はい……。砂理はうなずき、重い口調で話し始める。
「わたしもよくわからないんですけど、たぶん、あの粉ミルクのせいだと思います」
「粉ミルク?」
花はキョトンとまばたきした。意味がまったくわからない。
「あ、すいません。これです」
砂理は肩に掛けていたポシェットから、手のひらサイズのモノを取り出して花に渡した。その瞬間、花の顔面は固く強張り、両目が限界まで見開いた。それは透明なパックに包まれた白い粉だった。
「す……砂理ちゃん。これはどこで手に入れたの?」
花は全力で心を落ち着かせながら尋ねたが、声はわずかにうわずっていた。
「あの工場です。あの子たちに連れられて、倉庫みたいなところに行ったんです。そしたら大きな段ボール箱の中に牛乳パックがいっぱい詰められていて、その中にその粉ミルクが入っていたんです」
(なるほど……。牛乳パックの中に入っていたから粉ミルクだと思ったわけね……)
花は携帯端末に『工場、倉庫、牛乳パックの中』――と入力し、こっそり後ろを振り返る。すると、距離を置いて控えていたネスクガードの隊員が足音を立てずに近づいてくる。隊員は端末画面の文字を読み、白い粉が詰まったパックを受け取ると、無言でうなずき、去っていく。
その二人のやり取りに砂理は気づくことなく話を続ける。
「……そしたらあの子が、その粉ミルクを吸い込んだんです。わたし、そんな飲み方もあるんだぁ――って、のんきに思っていたんですけど、そしたら急にあの子が倒れちゃったんです。しかも、小さな体が激しく震えて、口から泡がいっぱい出てきちゃって、それでわたし、どうすればいいかわからなくなって……」
肩を落としてうつむき加減に話していた砂理が、震える両手で顔を覆った。花は砂理の小さな肩に腕を回し、そっと優しく抱き寄せる。
「大丈夫。大丈夫よ」
花は震える少女を抱きしめて、落ち着くまでそばにいた。
三十分後――。
砂理が再び落ち着きを取り戻したあと、花は砂理を車に乗せて、ネスクガードの隊員に学生寮まで送らせた。すると黒人の女の子を検査した医師が花に話しかけてきた。
「――ベンゾイルエクゴニン?」
医師の説明に、花は思わず訊き返した。
「はい。検査結果で判明しました」
「それではやはり、コカインですか」
「間違いありません」
医師は重々しく首を縦に振る。
花は目を閉じ、額を押さえた。ベンゾイルエクゴニンは局所鎮痛剤で、コカインの代謝により肝臓で生成される物質だ。つまりあの黒人の女の子は、コカインの大量摂取により急性中毒を引き起こし、呼吸器障害に陥ったということらしい――。
「心臓発作を起こさなかったのは不幸中の幸いです」
医師は淡々と言葉を続ける。
「これからさらに精密検査をしますが、脳内出血がなければ、おそらく十日ほどで退院できると思います」
「……そうですか。お手数をおかけします」
花は暗い表情のまま頭を下げた。すると医師は顔を曇らせ、言いにくそうに口を開く。
「それでですね。実はその、爆発現場から搬送された方についてですが――」
「……やはり、手遅れでしたか」
「ええ。南町エリアの二名は既に手遅れでした。北町エリアの病院からも、三名が亡くなったと連絡がありました。ただ、その五名からも、ベンゾイルエクゴニンとコカエチレンが検出されました」
その瞬間、花は長い息を吐き出した。コカエチレンは、コカインとエタノールが体内に入った時に生成される物質だ。それはつまり――。
「……つまりその五名は、酒を飲んでコカインを使っていたということですか」
「はい。もちろんその可能性もあります。ですが、彼らはおそらく、フリーベイシングをしていたのではないかと思います」
(ああ、そっちだったか……)
花は目の前が真っ暗になるのを感じながら、心の底から納得した。
フリーベイシングとは自分でコカインを化学処理して、高純度コカイン、いわゆるフリーベースを作ることだ。そうして作られた遊離体のフリーベースを、ラム酒などを入れたガラスパイプを使用して喫煙するのだが、その際にライターなどを使って常に熱を加え続ける必要がある。そのため、アルコールに火が燃え移り、ヤケドや火事になることが多いと聞く――。
「……つまり今日の爆発は、どちらもコカインが原因ということですか」
「状況から見ると、そう判断するのが妥当だと思われます」
「コカインってたしか、絶対に苦しみながら死ぬドラッグでしたよね」
はい――。医師は一つうなずいた。
「一度でも経験すると、まともな思考ができなくなる悪魔のドラッグです。有り金すべてをコカインの購入で使い果たすようになり、意識障害や動脈破裂などで体はボロボロになり、中毒者の多くが呼吸器障害で苦しみながら死亡します」
「なんで……なんでそんなモノがここにあるのよぉっ!」
花は唐突に声を張り上げ、背後の壁をこぶしで叩いた。
「なんでいい年こいた大人がそんなバカなモノを使って! なんで何も知らない子どもたちがこんな辛い目に遭わなきゃいけないのよっ!」
花はさらに壁を叩く。その顔は悲しみと悔しさで歪み、目から嘆きの滴がこぼれ落ちる。
(わたしのせいだ……)
花はこぶしを固く握る。爪が手のひらを突き破る。赤い命がにじみ出す。
ネスクに麻薬が広がりつつある――。それは法条から聞いていた。知っていた。それなのに、自分は見て見ぬふりをしていた。麻薬問題が表面化していないことに安心していた。法条に任せておけばいいと思っていた。自分がやらなくても誰かが解決してくれるだろうと甘えていた。
(それがこのザマだ……)
花はその場にへたり込んだ。
子どもは大人の真似をする。黒人の女の子は大人の真似をしたのだろう。白い粉を吸い込む大人を見て、同じように遊んでみようと無邪気に思ったのだ。砂理と仲良くなりたくて、そうして一緒に遊ぼうと思ったのだ。
ああ……どうしてこんなに悲しいことが起こるのだろうか……。
どうしてこの世は、こんなに歪んでいるのだろうか……。
愚かな大人なんて、全員死んでしまえばいいのに――。
花は声を殺して涙をこぼした。そうしてしばらくの間、病院の片隅で小さな肩を震わせ続けた。




