その花 第六章 : 暗天の刻 4
梅雨明けの七月二十四日、月曜日――。
「……何とかここまで漕ぎつけましたか」
真夏の太陽の下、クールビズ姿の美東真冬が目の前の工場を感慨深げに見渡した。山林の一角を切り拓いて新たに建てられた精密機械の製造工場だ。
「そうですね」
美東の横に立つ花も、ほっと胸をなで下ろす。
二人は今、大山地区に造られた巨大な工場の横にある芝生広場に立っていた。つい先ほど、工場の落成披露パーティーが終わり、広場に設けられた大きなパイプテントには大勢の来賓が集まっていた。花は白い天幕の下で和やかに歓談している人たちを眺めてから、再び工場に目を向ける。
「だけど、こんな大きな工場をたったの四か月で造るなんてすごいですね」
「当たり前です」
感嘆の声を漏らした花に、美東が淡々と言葉を返す。
「法条知事から早くやれと言われましたから、既存の工場の三次元設計図と施工図と竣工図を流用しました。組み立てるだけなら、これぐらい普通です」
(まあ、それはそうかもしれないけど、作業員をこっちに集中させたせいで、他の工場はまだ完成してないんだけどね……)
花はそう思ったが、苦笑いを浮かべるだけにしておいた。すると不意に美東が声を潜めて訊いてきた。
「それより飽海さん。ネスクガードの報告によると、昨夜も乱闘事件が発生したそうですが、これはいったいどういうことですか」
「それは……」
花はバツが悪そうに顔を曇らせた。美東は治安維持局の局長も兼任しているので、ネスクで発生した事件はすべて把握している。そのため、元より隠し立てなんかできないし、する気もないのだが、やはりどうしても口の動きは鈍くなる。
「正直なところ、治安は徐々に悪化しているように見えます」
「それは分かっています。今後の対策はどうするのですか?」
(ああ……やっぱりわたしに丸投げするのね……)
花はわずかに渋い表情を浮かべながら口を開く。
「とりあえず、来週の八月一日から治安維持対策を強化する予定です。具体的にはネスクガードに二十四時間体制で巡回してもらい、暴力事件を起こした者は速やかに拘束します。そして今までのような懲罰的社会奉仕活動処分ではなく、メンタルケア措置にします」
「そうですね。それがいいでしょう。ただし――」
美東は重たい息を吐き出してから言葉を続ける。
「メンタルケアは『軽度』にしなさい」
「軽度……? メンタルケアには軽い処置もあるんですか?」
ええ――。美東は重々しく首を縦に振る。
「先入観を持たれると困るので公表はしていませんが、メンタルケアには『通常』と『軽度』の二種類があります。難民は既にネスクの住民ですので、これからは軽度を適用するように手配しなさい」
「分かりました。ネスクガードにはそのように要請しておきます」
よろしい――。そう言って、美東は花をまっすぐ見つめる。
「それでは飽海さん。私はこれで市庁舎に戻ります。あとはあなたに任せますので、何かあったらすぐに連絡をするように」
はい――。花が一つうなずくと、美東も小さくアゴを引き、そのまま駐車場へと向かっていく。花はその背中を見送って、小さく息を吐き出した。
すると近くのパイプテントから、黒い髪をポニーテールに結った少女が軽い足取りで駆けてきた。夏によく似合う半袖のワンピースを着た桐島砂理だ。
「花さぁ~んっ!」
「あら、砂理ちゃん」
「お仕事お疲れさまです。レモネードをもらってきました」
砂理は満面の笑みでグラスを差し出す。花は礼を言いながら受け取り、ほとんど一気に飲み干した。
「あ~、おいしっ。砂理ちゃんもちゃんと食べた? パーティーなんだから、高いモノを好きなだけ食べていいんだからね」
「花さんってホント、高級品が好きなんですねぇ」
砂理はクスクスと笑い出す。
「そりゃそうよ。基本的に、値段の高いモノの方が美味しいんだもん」
花もおどけたふうに肩をすくめ、笑みをこぼす。そしてこっそり砂理の白い腕を見て、さらに目元を和らげた。
一年前にはあれだけあった紫色のあざが、今はもうどこにも見当たらない。治るまでにずいぶんと時間がかかったが、今ではこうして幸せそうに笑っている。それが本当に嬉しくて仕方ない。
(勇気を出して、ネスクに来た甲斐があったわね――)
花は砂理の頭を優しくなでた。砂理は照れくさそうに微笑みながら口を開く。
「それで花さん。お願いがあるんですけど」
「あら、なぁに?」
「あそこの子たちなんですけど――」
砂理は近くのパイプテントを指でさす。つられて花が目を向けると、白人と黒人の女の子がこっちを見ている。二人とも六歳ぐらいだろうか。無邪気な笑みを浮かべながら花と砂理に手を振っている。
「なにかわたしに見せたい物があるみたいで、工場に連れていってくれるっていうんですけど、中に入ってもいいですか?」
「ええ、別にいいわよ。危ない機械があるところはロックしてあるから、それ以外は自由に入って大丈夫だから。なぁに。お友達になったの?」
「はい。なんかわたし、気に入られちゃったみたいで」
砂理は嬉しそうに頬をかく。そんな砂理の小さな鼻を、花は指で軽くつつく。
「よかったわね。お・ね・え・さ・ん」
「もぉ。からかわないでください」
砂理は照れ臭そうに微笑んだ。それからすぐに「それじゃあちょっと、いってきまぁす」と花に言って、パイプテントに足を向ける。そして二人の女の子に手を引かれながら工場へと駆けていく。
「ほんと。世界中の人間が、ああいうふうになれたらいいのにねぇ……」
花は喜びと切なさのこもった瞳で子どもたちの背中を見送った。すると不意に、ネスクガードの隊員二名が早足で近づいてきた。
「――失礼します、飽海さん。問題が発生しました」
「えっ? 問題?」
花はハッと目を見開き、二人の男をまじまじと見た。男たちの表情は真剣そのものだ。どうやらただ事ではないらしい。
「はい。今から十分ほど前に、大山地区の北町エリアで爆発が発生しました」
「ばっ!? 爆発っ!?」
「さらについ先ほど、南町エリアでも爆発が起きたとの報告が入りました」
「二か所同時っ!? それってまさか――」
同時多発テロ……!?
爆発現場のイメージが脳裏をよぎった瞬間、花の体はふらりとよろけた。だがしかし――と思考を一瞬で切り替えた。たしかに大山地区の治安は悪化しているが、テロリストなんかいるはずがない――。花はそう自分に言い聞かせながら、隊員たちに問いただす。
「とりあえず、被害状況を教えてください。怪我人は?」
「不明です。現在、消防と救急が向かっています。北町エリアの爆発規模は小さいとのことですが、爆心地が仮説住宅だったため、延焼しているとのことです。南町エリアの詳細は不明です」
「火事って……」
(最悪だ……。よりにもよってこんなタイミングで、そんなことが起きるなんて……)
花は奥歯を噛みしめながら周囲を見た。今日は難民たちが安定した生活を始める記念すべき第一歩として、ネスクの外から多くの賓客とマスコミを特例として招いていた。そのため、工場の落成披露パーティーは既に終わったが、まだかなりの人がテントの下に残っている。もしも彼らに爆発のことを知られたら、間違いなく大騒ぎになってしまう――。
(ネスクの安全管理に疑問を持たれるのはまずいわね……)
花は瞬時に腹をくくり、隊員たちに目を向ける。
「すみませんが、難民支援室の責任者として、これより箝口令を敷きます。爆発の件は部外者に漏らさないよう周知徹底をお願いします。それと、今すぐ北町エリアまで連れて行ってください」
二名の隊員は即座に了解し、花を先導して駐車場に向かう。そして三人は車に乗り込み、工場をあとにした。
二十分後――。
花は北町エリアの爆発地点に到着したとたん、車から飛び出した。現場では既に多くの消防隊員と救急隊員が行動を開始している。見たところ火事はほとんど鎮圧されていて、今は消防隊員が残火処理に当たっているようだ。
ふと顔を上げると、青い空に無人機がいくつか飛んでいる。消火と救急活動の支援機だ。そのうちの一つは細長いポール型で、板状の足場に乗った消防隊員がつかまっている。ポールの先端にある推進装置は六方向に展開したタワー型になっているので、搭乗者にダウンバーストが直撃しない造りになっている。
(あれはたしか、前にセイが言っていた強襲用ドローン『サイレント・ビー』ね。消防局にも配備されていたんだ。――じゃなくて、爆発現場はここね)
花は軽く首を振り、爆心地らしき仮設住宅に意識を集中する。見ると、消防隊員に囲まれた平屋造りの建物は黒こげだった。かろうじて床とドアが残っているだけで、壁と天井は完全に燃え尽きている。火勢のすさまじさは一目瞭然だ。
「――飽海さん。消防の人間に確認してきました」
花を連れてきたネスクガードの一人が近づいてきた。
「爆発の原因は調査中ですが、おそらくエタノールではないかとのことです」
「えっ? エチルアルコール? それってまさか、お酒?」
キョトンとした花に、隊員は一つうなずく。
「消防局はその可能性が高いと見ているようです」
「そうですか……」
その言葉に、花は胸の内で安堵の息を漏らした。爆発と聞いたので爆弾が使われたと思い込んでいたが、原因がアルコールなら、ただの事故の可能性が高い。
北町エリアに住むのはヨビアン王国出身のアラビア人で、彼らの多くは飲酒が禁止されているアララム教徒だ。しかし、中にはこっそり酒を飲む人間がいてもおかしくはない。花は焦げ臭い匂いを嗅ぎながら呼吸を整え、再び隊員に問いかける。
「それで、怪我人は?」
「今のところ六名が救急搬送されたそうです。爆発現場で発見された三名は、おそらく助からないだろうとの話です」
「分かりました。南町エリアの情報はありますか?」
「はい。そちらの爆発も小規模だったとのことです。現場は民家だったようですが、幸い火災には至っておらず、家屋内に倒れていた二名を救急搬送。現在は、消防局が原因を調査中とのことです」
(なるほど……。そうすると、事故が偶然重なってしまったということか――)
隊員の報告を聞いて、花は心の底からホッとした。今のところ怪我人は八名で、その内の数名は助からないかもしれないが、被害が一桁で済んだのは不幸中の幸いと言える。何しろここは無数にひしめき合う仮設住宅のど真ん中だ。強風が吹いていたら延焼はさらに広がっていたに違いない。
(これでとりあえずは一安心ね。まずは美東さんに連絡を入れてから、南町エリアの状況確認に行かなきゃ……)
花はネスクガードの隊員と車に戻りながら携帯端末を手に取った。そのとたん、端末が振動したのでちょっと驚いた。画面を見ると砂理からの着信だ。
おそらく爆発騒ぎを聞きつけて、電話をかけてきたのだろう。しかし今は、話ができるような状況ではない。だけどこのまま無視するのも心苦しい。仕方ない。とりあえず電話に出て、すぐに話を切り上げよう――。
花は車のドアを開けてくれた隊員に手のひらを向けながら少し離れ、携帯端末を耳に当てた。
「あー、もしもし? 砂理ちゃ――」
『はなさんっ! たすけてっ! たすけてくださいっ!』
いきなり飛び出してきた砂理の声に、花の体は一瞬で強張った。助けを求める切羽詰まった声――。間違いない。何か異常事態が起きたのだ。
「どうしたのっ!? なにがあったの!?」
『こどもがっ! おんなのこがっ!』
砂理は完全に取り乱している。涙声で呼吸が荒い。ほとんどパニック状態だ。
「落ち着いて砂理ちゃん! 子どもがどうしたの? なにがあったの?」
『うごかないんですっ! 死んじゃう! この子死んじゃう!』
死ぬっ!?
これは尋常な事態ではない――。そう思った瞬間、花は車に飛び乗った。異常を察したネスクガードの隊員も運転席に滑り込み、即座に車を走らせる。
「工場に戻ってくださいっ!」
花は運転席に声を飛ばし、電話口の砂理に言う。
「砂理ちゃん。大丈夫だから。今からそっちに向かうから、とりあえずそこにいて」
花は砂理を落ち着かせながら、もう一台の携帯端末を取り出し、救急車を工場に向かわせた。




