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その花 第六章 : 暗天の刻 3



 難民の永住が決定してから、二か月半後の六月十四日、水曜日――。



 ただいまぁ――と、花が自宅マンションに帰宅すると、キッチンから久能がひょっこり顔を出した。


「おかえり。夕飯作っておいたぞ」


「あら、ありがと。すぐに着替えて行くから」


 花は雨で濡れたレインパンプスの水滴を拭き取り、陰干ししてから寝室に向かう。そして手早くスーツを脱いで、ラフな私服姿でダイニングに足を運んだ。


 するとちょうど、久能がテーブルに料理を並べ終えていた。今夜のメニューは焼き立ての山盛り餃子にモヤシ炒め、ご飯とサラダと中華スープのようだ。


「あ、餃子だったらわたし、ご飯いらないから」


「なんでだよ。餃子とご飯は最高の組み合わせだぞ」


 花と向かい合って座った久能は、焼き餃子に酢醤油とマヨネーズをべったりつけて、ライスと一緒に食べ始める。


「炭水化物と炭水化物って、どう考えてもおかしいでしょ」


 花はコショウをたっぷり振りかけたお酢に餃子をつけて、パクリと食べる。


「うん。美味しい」


「だろ? 餃子は昔からよく作っていたから自信があるんだ。ほら。マヨネーズをつけるともっと美味くなるぞ」


 そう言って、久能は花の小皿にマヨネーズを絞り出す。その瞬間、花は全力で悲鳴を上げた。


「ぎゃーっ! やめてぇーっ!」


 しかし、時すでに遅し。てんこ盛りのマヨネーズを見て、花は半分白目を剥いた。


「……わたし、マヨネーズはあんまり好きじゃないって知ってるよね?」


「なんだよ。食わず嫌いはよくないぞ」


「チョッピリなら嫌いじゃないわよ! だけどねぇ! みんながみんな、あなたみたいなマヨラーじゃないの! こんなモリモリのマヨネーズなんて食べられるわけないじゃない!」


「ふーん。変なヤツだな」


「どっちがよっ!」


 花はマヨネーズの小皿を久能の前に突き出した。それから諦めの息を吐き出し、中華スープを静かにすする。久能は軽く肩をすくめ、マヨ餃子をパクパクと食べながら花に尋ねる。


「ああ、そうだ花。大山地区の様子はどうだった?」


「……まあ、順調な方ね」


 花はちょっぴりふてくされながら淡々と答える。


「うまい具合に取り壊していない民家がいっぱいあったから、仮設住宅の建設は予定の半分で済んだし、とりあえず生活に支障はないみたい。梅雨入り前に生活基盤を確保できたのは大きいわね」


「今年は梅雨入りが遅かったからな。工場の方はどうだ?」


「そっちはあと一か月ぐらいかな」


 そう答えながら、花は胸の内でため息を吐いた。


 大山地区は東京湾に突き出した半島状の地形で、中央は広大な山林部、それを囲む沿岸部の平野に三つの町が点在している。そのため、北の町にはアラビア人、南の町にはアフリカ系黒人、西の町には白人と、人種ごとに新たな生活を始めてもらっている。


 ヨビアン王国出身のアラビア人と、ウルビランド共和国出身の黒人は、歴史的にも宗教的にも相容れない部分が多い。だから山を隔てて引き離すことにした。そして、半島状の先端に位置する西の町にはイギタリア出身の白人たちに住んでもらい、緩衝地帯にした。それにより、今のところ大規模な民族対立は発生していない。


 しかし、そこまでは順調だったのだが、問題はそのあとだった。なぜか難民たちの大半が働こうとしなかったのだ。


 大山地区に暮らすのは難民の外国人のみなので、難民支援室の計画としては、彼ら自身に町を作らせるつもりだった。卸売市場おろしうりしじょうや小売店、町役場や病院、学校や工場などのインフラストラクチャー運営を難民たちに任せることで、自主的に生計を立ててもらう予定だった。それなのに、その町づくりが遅々として進まないのだ。


 北・西・南の三つの町それぞれに海産物の加工工場と野菜工場を造り、山の一部を切り拓いて大規模な精密機械の製造工場を建設する。そうすれば第一次・第二次・第三次産業がすべてそろい、就労可能な難民全員に仕事を用意できる。――はずだったのだが、なぜか難民たちは工場の建設に協力的ではなかった。


 もちろん建設現場の仕事なので給料はきちんと支払われるのだが、働きにくる難民は非常に少なく、しかもお昼を過ぎるとさっさと帰ってしまうのだ。そのため、想定していた労働力が確保できず、工場の建設はかなり遅れていた。


(仕事がほしいって言っていたのに、変な話よね……)


 花は首をひねりながら、さらに思う。最近の花は週に二回、大山地区に足を運んでいる。そのたびにハッサンやアーメド、ダグラスは歓迎してくれるのだが、難民たちの態度は以前よりもどこかよそよそしいように見えた。


 今日も、しとしとと降り続ける雨の中を一日中歩き回ってきたのだが、町の中には活気がなく、買い物をしている人も少なく、以前のように花に声をかけてくる者は一人もいなかった。


 まあ、日本の梅雨は初めての経験だから、気が滅入っているのだろう――。


 花は自分にそう言い聞かせることで、なんとか納得することにした。そして、軽い徒労感に肩を落としながら自宅へと戻ってきた――。


「――おっと、俺の端末だな」


 不意に軽やかな電子音が聞こえたとたん、久能は反射的に席を立ち、キッチンカウンターに置いていた携帯端末を手に取った。


「……また呼び出し?」


「ああ」


 不機嫌そうに尋ねた花に、久能はメッセージを読みながら肩をすくめる。


「どうやら大山地区の工事現場で、難民の若いヤツらが殴り合っているらしい」


(はあ……またか……)


 花は思わず額を押さえた。難民たちが大山地区に移り住んだのは五月の頭なのだが、それから今日までほぼ毎週のように乱闘騒ぎが起きていたからだ。


 花も最初の頃はすぐに駆けつけ、当事者に理由を尋ねてみたのだが、誰一人として口を開こうとはしなかった。それで結局、毎回原因不明のままうやむやになり、ただの喧嘩として処理され続け、いつしか花も諦めの息とともに慣れてしまった。


「アーメドさんのとこ?」


「いや。今夜はアラビア人らしい」


「どうする? わたし、ハッサンさんに連絡しようか?」


「その必要はないだろ。ただのケンカだ」


 久能はソファに放り投げていたネスクガードのジャンパーをつかみ、玄関に向かっていく。花もすぐに席を立ち、久能の背中についていく。


(ただのケンカで、ネスクガードの総司令が呼び出されるはずないじゃない……)


 花はため息を吐きながら傘を手に取り、久能と一緒にマンションの外まで足を運んだ。すると既に迎えの車が到着しており、ネスクガードの若い隊員が直立姿勢で待っていた。


「セイ。気をつけてね」


「ああ、行ってくる。今夜はたぶん戻らないから、俺を待つ必要はないぞ」


 久能は花の頭に軽くキスして、そのまま車に乗り込んでいく。車はすぐに動き出し、静かな糸雨いとさめに打たれながら走り去る。その遠ざかっていくテールランプを、花は眉を寄せて見送った。


「……働かない難民に、活気のない町。そして暴力。そんなのまるで――」


 スラムじゃない。


 花は最後の言葉を飲み込んだ。それから夜の雨に長い息を吐き出し、マンションに足を向けた。




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