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その花 第五章 : 天満の刻 9



 住民投票の告知が配信されてから二十五日後。


 三月三十一日、金曜日、午前九時四十分――。


 花は難民居住区にあるコミュニティーセンターに足を踏み入れた。様々な売店と診療所があるこのセンターは、普段からショッピングモールのような賑わいをみせているが、今朝はその賑わいがもはや熱気と化していた。一階の広いロビーに大勢の難民たちが詰めかけていたからだ。


 白人・黒人・アラビア人がところ狭しと押し寄せて、口々におしゃべりしながら奥の巨大モニターに目を向けている。画面にはネスクのローカルニュースが映っており、『本日午前十時に、難民永住化の賛否を問う住民投票の結果を発表』――とテロップが流れている。


 あと二十分ね――。


 花は人混みを避けて壁際を進んだ。そしてぽっかりと空いたスペースで足を止め、モニターに目を向ける。角度も悪いし距離も遠いが、テロップの文字ははっきり見える。眺めるだけなら申し分ない場所だ。


 手応えはじゅうぶんあった――。


 この三週間、花は一日も休むことなく広大なネスクのエリアを走り回ってきた。一から十二の各エリアにある学校や病院、パブリックダイナーやショッピングモール、港や空港など、人が集まる場所にはほとんどすべて足を運んだ。そして、難民の特使団はどこでも温かく迎え入れてもらえた。


 ちょうどモニターのローカルニュースがその様子を放送している。難民の子どもたちがバスを降りると、花束を持つ小学生たちが笑顔で出迎えたシーンだ。その周囲には教師をはじめ周辺住民の大人たちが大勢集まり、誰もが笑顔で拍手をしている。


(あの時は、思わずちょっぴり泣けたわね……)


 その様子をすぐそばで見ていた花は胸がいっぱいになり、目頭が熱くなったのをよく覚えている。そしてそれはどこの学校でも、どこの病院でも同じだった。港では新鮮な魚介のバーベキューをご馳走になったし、山奥の集会所では美味しいおにぎりをいただいた。ショッピングモールではスピーチ用の特設ステージを設けてもらえたし、高層ビルが立ち並ぶビジネス街では、多くの人が仕事の手を休めて会いに来てくれた。


 ネスクには、外の世界で生活できなくなった人間が数多く暮らしている。だから、人の苦しみを理解できる人間が多いのだ。実際にネスクの各地を回った花は、そのことを肌で感じることができた。その優しさが、人々の思いやりが、胸に痛いほど染み込んできた。


 しかし――。


 それでも、難民の永住に反対する声が根強く存在していることもまた事実だった。ネスク報道局の予想によると、住民投票の結果はフィフティー・フィフティーになるだろうという、かなり厳しい見通しが出されている。


 つまり50パーセント近い住民が、難民に拒否反応を示しているということだ。ネスクの半数――これは大きい。140万もの反対票は致命的に多すぎる。しかし――。


(それでも、今回はわたしたちが勝たせてもらう――)


 花は小さなため息とともに罪悪感を吐き出した。ネスクに難民を受け入れたくない人々には本当に申し訳ないと思う。しかし、おそらく――ううん、ほぼ間違いなく、住民投票の結果はこちらに傾く。難民たちが第十二エリアの大山地区に永住するのはほぼ確実だ。


(なぜなら、流れは完全にこちらのものだからだ――)


 花は再びニュースの映像に意識を向ける。画面の中では、難民の子どもたちとネスクの住民たちが笑顔で一緒に食事をしたり、仲睦まじく散歩したりしている。誰が見ても微笑ましい光景だ。そしてこの三週間、この感動的なシーンは毎日放送されている。


(……百聞は一見に如かず。さすが美東さん。メディアの使い方も完璧ね)


 美東の戦略は単純なクロスメディアだったが、訴求力は抜群だった。ネスクの報道局に手を回し、難民に同情的な映像をすべてのニュースで取り上げさせたのだ。さらに、ネスク経済の三割を支える巨大民間企業の美東グループに協力を要請し、ネスク内のイントラネット上でトリプルメディアを仕掛けるという隙のなさだった。


 美東の情報戦略と、花の地道な草の根運動――。


 その相乗効果によるものだろう。ネスクの住民は難民を見かけるたびに、以前よりもフレンドリーに挨拶をするようになっていた。そういったアトモスフィア(雰囲気)の変化が、花に勝利を確信させた。


(報道局の予想ではイーブン。しかし、肌で感じる住民感情はこちらに有利。明らかに、難民を応援する流れがきている。控え目に見積もっても勝利は確実。あとは、票をどれだけ伸ばせるかということね――)


 花の瞳は既に未来を見つめていた。たとえば51対49というギリギリで勝利した場合、反対派の住民が抗議活動を始める可能性があるからだ。その場合は大山地区にネスクガードの防衛線を敷いて、難民たちを警護する必要があるかもしれない。


 大山地区は東京湾に出っ張った半島状なので、防衛線は内陸側だけで済むのだが、そんな状況は可能な限り避けたい。対立が発生すれば、難民への悪感情が住民の間に広がる懸念があるからだ。それを未然に防ぐためにも、この住民投票では少なくとも六割以上の票を獲得したい。


 できれば七割、欲を言えば八割の支持が欲しい。そうすれば反対派も滅多なことはできなくなるし、自分たちが少数派だとはっきりわかれば、難民に対する態度も自然と改まるはずだ。


(ここはやはり75……いや、80パーセント以上の票が欲しいわね……)


 花は冷静に状況を分析し、自分なりの予想を立てた。現時点で八割の票を獲得したいと口にすれば、大言壮語と思われるだろう。しかし、花としては不可能ではないと思っていた。なぜならば、最終的には『たった一つの要素』が結果を左右すると知っているからだ。


 ネスクに暮らす人間は心が優しい――。


 それは紛れもない事実だった。以前、花と砂理に理不尽な難癖をつけてネスクから追放された老人もいたが、あんな人間は滅多にいない。ネスクの住民は外の世界の冷たさを知っている。誰も助けてくれない世間の厳しさをその身に刻み、多くの人が涙を流しながらネスクに逃げ込んできたからだ。


 心に大きな傷を抱える人ほど、大きな愛を与えられる――。


 悲しいことだが、それが現実だ。嘆き、苦しみ、悲しみ、叫び、涙を流す――。様々な痛みを心で受け止めてきた。誰かを傷つけて後悔した。誰かに傷つけられて絶望した。事あるごとにつまずき、転び、這いつくばった。それでも、疲れ果てた腕と足でよろめきながら立ち上がり、明日に向かって歩いてきた――。


 ネスクに暮らすのはそういう人間ばかりだ。だから彼らは、絶対に難民を見捨てたりはしないのだ――。


 ――はっ!


 不意に軽やかなメロディーが流れ始めた。思考に没頭していた花は我に返り、モニターに目を向ける。時間を見ると、十時ジャスト――。これから住民投票の結果を発表するとテロップが流れている。


 ロビーに集まった難民の数もさらに増えて、ほとんどすし詰め状態だ。誰もが幸せそうな笑みを浮かべ、仲間たちと楽しそうに言葉を交わしている。おかげで建物内には声があふれ、耳が少し痛いほどだ。


(だけどまあ、そりゃそうよね。今日まで頑張ってきた苦労が報われるんだもん)


 花は思わず微笑んだ。ふと見ると、遠くに三人の男が立っている。あの特徴的な民族衣装はハッサンだ。その隣にはスキンヘッドのアーメドと、スーツ姿のダグラスもいる。彼らもこの三週間、ほとんど休まず精力的に各エリアを回ってきた。その結果と喜びを分け合うために集まっているのだろう。


『――それではこれより、《特例期限付移住者保護条例に関する期限撤廃修正条項の追加案件》に対する、住民投票の結果を発表致します』


 女性アナウンサーの声と同時に英語とアラビア語の翻訳テロップが流れたとたん、ロビーにいる難民たちが一斉に口を閉じた。先ほどまでの喧噪が嘘のような静けさだ。誰もが固唾をのんでモニターを見つめている。花も思わず握りこぶしに力が入る。


『今回の投票数と投票率はこちらになります――』



 ネスク総人口      ―― 2,886,471人 

 10歳以上投票権者総数 ―― 2,534,322人 

 投票総数        ―― 2,522,813人 

 投票率         ――  99・5パーセント  



(いよいよねっ!)


 花は両目を見開いた。



『そして、投票結果はこちらになります――』



 アナウンサーの言葉の直後、モニター画面に結果が大きく表示された。その瞬間、花の顔は喜びに輝き、世界は怒号に包まれた。




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