その花 第五章 : 天満の刻 5
「難民の件だが、やはり俺は反対だ」
花がダグラスと面会してから十日後の二月二十四日、木曜日の朝――。寝起きの花がダイニングのテーブルにつくと、久能がマグカップを差し出しながら声をかけてきた。
「……なんでよ」
花はじっとりとした目つきで久能を見ながら、白い湯気の立つブラックコーヒーを一口含む。久能も椅子に腰を下ろし、軽く肩をすくめてさらに言う。
「難民は犬や猫じゃないんだ。一時の感情に流されて自分の手元に置こうとするのは、彼らのためにもならないはずだ」
「セイは秋田と北海道の居住区を見ていないからそんなことが言えるのよ。あんな何もない場所で人間が暮らせるはずないじゃない」
「だけど、ミサイルは飛んでこないだろ」
久能もコーヒーを静かにすすり、言葉を続ける。
「おまえは自分の生活レベルで物事を判断しているみたいだが、それは平和ボケした日本人の悪いクセだ。安全な場所に住めるなら、それでじゅうぶんだろ。おまえがそれ以上のモノを与えたいと言うのなら、自分の財布から金を出せ。自己満足のためにネスクの税金を使うな」
「なっ! なによその言い方っ! わたしのこと愛してないのっ!?」
「どうしてそういう話になる……」
いきなり牙を剥いた花を見て、久能は呆れ顔で息を吐く。
「俺は俺の思ったことを、俺の言葉で話している。それに文句を言うのは人格の否定で、言論の弾圧だ」
「誰も人格否定なんかしていないじゃない! 人を怒らせるような言い方をする方が悪いのよ!」
「それは仕方ないだろ。正論というのは耳に痛いからな」
「どこが正論よ! あなたの言葉は正論の皮をかぶった事なかれ主義じゃない! 目の前に困っている人たちがいるのに見て見ぬフリなんかしないでよ!」
「それは視野が狭すぎる。目の前ばかりを見ていたら進むべき道を間違えるぞ」
「考えるだけで何もしないよりはよっぽどマシよ!」
「俺はじっくり考えた上で、ネスクに難民を永住させることには反対だと言っているんだ。そんなことをすれば、軒を貸して母屋を取られるどころか、もっと悲惨な事態になりかねないからな」
「なによそれ。難民がネスクを乗っ取るって言いたいの? そんなバカなこと、するはずないじゃない」
「だといいが、とにかく俺は反対だ。悪いが先にシャワーを使うぞ」
久能はコーヒーを飲み干して立ち上がった。そして、花の柔らかな髪にキスをしようと腰を屈める。しかし花は首を振り、久能の顔を両手で押しのけた。
「やめて」
久能は軽く肩をすくめ、そのままシャワーを浴びに行く。花は両手でマグカップを握りながら、未来の夫の背中を不機嫌そうににらみ続けた。
それから花は、久能とはろくに口を利かずに家を出た。いつもなら軽くキスをしてから仕事に向かうのだが、今朝はそんな気分にはとてもなれない。
(……なにが正論よ。自分の言葉はいつも正しいみたいな顔しちゃって。ああいうとこ、ほんっと腹立つ)
花はプリプリ怒りながら、迎えに来た自動運転車に乗り込み、幕張エリアにまっすぐ向かった。出張から戻ってきた美東議員に面会し、難民がこのままネスクで暮らせるように直談判するためだ。
「失礼します」
若い男性秘書に案内されて、花は美東真冬のオフィスに足を踏み入れた。
ネスク市庁舎内にある代表議員のオフィスは、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。重厚な木製デスクに、洒落たローテーブルと革製のソファが目に入る。物が少なく、質実剛健といった装いは、部屋の主の性格を反映しているのだろう。
「おはようございます、飽海さん」
デスクチェアーに座る美東真冬が立ち上がった。美東はそのままデスクの前のローテーブルに足を向け、花にソファを勧めながら自分も腰を下ろす。同時に男性秘書は頭を下げて部屋を去り、ドアを閉めた。
「それで飽海さん。大事な話とは何ですか?」
花は、自分より一回り年上の美東をまっすぐ見つめて口を開く。
「実は難民のことなんですが、このままネスクで生活できるように、取り計らっていただくことはできませんでしょうか」
「それは、難民たちをネスクに永住させたいという意味ですか?」
はい――と、花はうなずきながら、『やっぱ無理かぁ……』と瞬時に思った。なぜなら、美東の顔があからさまに強張ったからだ。しかしそれは無理もない――とも同時に思う。
詳しくは知らないが、難民を一時的にネスクに受け入れる『特例期限付移住者保護条例』を制定する際も、かなりのすったもんだがあったと聞いている。普段は和やかな代表議会の席で怒号が飛び交ったという噂もあるほどだ。結局、十三名の議員による多数決で条例は可決されたのだが、7対6というギリギリの状況だったらしい。
(一年間限定の受け入れで議会が真っ二つに割れたのだから、永住させるなんて議題が出たら、殴り合いに発展してもおかしくないわね……)
固く口を閉じている美東を見て、花は暗澹たる気分になった。その厳しい目つきを見ただけで答えがわかる。間違いなく却下だ。もしかしたら怒鳴りつけられるかもしれない。
『いくら何でも、そんなことできるはずがありません』――と、静かなる怒りを込めた美東の声が、今にも飛んできそうな気がする。
しかしそうなると、あの何もない荒れ果てた居住区で難民たちは生活しなくてはならなくなる。物がない、金もない、店もない、病院もない、仕事もない、未来もない――そんなみじめな生活なんて、あまりにも悲惨すぎる。
そして今現在、その過酷な運命のレールを変更できるのは自分しかいないのだ。だったら、ここで踏ん張らないわけにはいかないでしょ――。花はそういう決意を持って美東に会いに来た。しかし会ってはみたものの、美東の厳しい表情を目の当たりにしたとたん、堅い意志がグニャリと折れ曲がりそうだった――。
「……いいでしょう。具体的なプランを聞かせてください」
「ですが美東さん。日本政府が用意した居住区には本当に何もないんです。あんな場所で生活するのは非常に困難だとしか思えません」
「ですから、私もあなたの考えに同意すると言っているのです」
「それはそうかもしれませんが、このまま難民たちを放り出すのはネスクの理念に反すると思うんです。現実的に厳しいことはわかりますが、そこを何とか――」
「ちょっとお黙りなさい」
不意に美東がローテーブルを踏みつけて身を乗り出し、片手で花のアゴを握りしめた。強制的に口の動きを止められた花はビックリ仰天して美東を見上げた。
「いいですか、飽海さん。私はあなたの意見に賛成すると言ったのです。分かったらいつまでも寝ぼけてないで、二秒で頭を切り替えなさい」
美東は低い声で言い放ち、花の頭を突き放す。花は背もたれに倒れかかり、慌てて姿勢を正して口を開く。
「す、すみません、美東さん。わたしてっきり、反対されると思い込んでいたので……」
「普通はそう考えて当然です。先週までの私なら、間違いなく反対していたでしょう」
「先週まで……?」
ソファに座り直した美東を見て、花は思わず首をかしげた。
「私が昨日まで、欧米各国に出張していたことは知っていますね」
「え、ええ、まあ……」
「私は各国の首脳に表敬訪問して、ネスクで開発したGPTをトップセールスしてきたのですが――」
GPT? それってたしか、ジェネラル・パーパス・テクノロジー、つまり汎用的な技術という意味だったわね。たしかに美東さんは交渉が上手だけど、そんな営業活動までやってたんだ――。花は胸の内で感心しながら美東の言葉に耳を傾けた。
「そこでアメリカと中国とイギタリア、そして同席した日本政府の代表から、ある提案を正式にいただきました」
「提案、ですか?」
「そうです」
美東は足を組み直した。
「彼らはあなたと同じことを口にしたのです。難民たちをこのままネスクで引き取ってほしい――とね」
え?
花は呆気に取られて目を丸くした。話の意味がわからなかった。外国政府にしてみれば、難民の受け入れ先なんてネスクだろうが北海道だろうがどこでもいいはずだ。それがどうして、わざわざネスクで引き受けてほしいなんて言うのだろうか……?
「一言で言えば、モデルケースにしたいのです」
モデルケース? ますます意味がわからない。花は思わず眉をひそめて美東を見つめた。
「ご存知のとおり、高度人材活用制度を導入したネスクは、特別行政区としてそれなりの成果を上げています。そのため、多くの国家が特別行政区の導入を検討し始めています」
(うん、その話は聞いたことがある)
花は小さくうなずいた。これはネスクに来てから知ったことだが、ネスクは『民主的・大規模資本経済社会主義生活圏』――通称『エリアD』と海外では呼ばれているらしい。つまりネスクは、資本主義と社会主義のいいとこ取りをしているように見られていて、多くの国から高く評価されていると聞いている。
「そこで各国の政府は特別行政区を導入するにあたり、難民の有効活用も視野に入れ始めたのです」
あ、なるほど。そういうことか――。
花はようやく理解した。わかってみれば何のことはない。よその国はただ単に、難民を効率的に働かせたいだけなのだ。そこで実際に難民を上手に活用できるかどうか、ネスクで実験しろと言っているのだ。
「現在、世界には数億人の難民が存在しています。その労働力を有効に活用するのは、難民にとっても、受け入れ先の国家にとっても非常に有意義なことです」
それはもちろんそうだろう。
難民がきちんと働けば貧困問題も解消するし、治安も大幅に改善する。誰にとってもウィンウィンの解決策だ。しかし、それが軌道に乗るか、絵に描いた餅で終わるのか、予想はなかなかつけにくい。だからこそ、ネスクで実際に試してほしいと要請してきたのだろう。
まったく……。高みの見物をさせてくれだなんて、よくもまあ恥ずかしげもなく言えるものだ。しかし、これはチャンスでもある――。
(データの収集に使われるのはシャクだけど、渡りに船とはこのことだ。こんなタイミングでこんなビッグウェーブがくるなんて、世の中ってほんと、どう転ぶかわからないものね)
しぼみかけた決意の炎が、花の瞳の奥で燃え上がった。その表情に、美東も首を縦に振る。
「いいですか、飽海さん。欧米各国と中国、そして日本政府が提示した条件は、難民をネスクに永住させること。そして、彼らの労働力を有効活用すること。その二点です。その見返りとして、ネスクからの輸出品に係る関税はすべて撤廃。ならびに、ネスク内の企業には永久に軽減税率を適用すると言われました」
「かっ……関税の撤廃と、法人税の永久軽減措置って……」
花は驚きのあまり目を剥いた。
そこまでの好条件が提示されるとは、実際に耳にしてもまだ信じられない。関税がなくなり、法人税が軽くなれば、はっきり言ってネスクは永久に安泰だからだ。今までの天国が、黄金の天国にアップグレードするようなものだ。
「ですが、法条知事はおそらく反対するでしょう」
(あっ、そうだった……)
苦さのこもった美東の声を耳にしたとたん、浮足立った花の心も現実に落ちてきた。
法条牧夫――。
ネスクの知事であり、久能瀬衣と内田美月の実の兄であるあの男は、一言で言うと超がつくほどの堅物だった。しかも常に人を小馬鹿にしたような態度を取り、何があっても絶対に自分の考えを変えない頑固者で有名だ。
しかし、ネバーエンディング・幸せシティ――通称ネスクを創設した法条快の実子であり長兄の彼は、その生まれついた家柄と優秀な頭脳、強靭な精神力と眉目秀麗の容姿によって、ネスクの住民からは絶大な支持を受けていた。その法条知事が、難民の受け入れには最初から強硬に反対していたのだ。
「どうして法条知事は、そこまで難民を嫌っているのでしょうか……」
「知りません」
美東は足を組み直し、淡々と言葉を続ける。
「ですが、今は彼の好き嫌いや理想はどうでもいいのです。難民をネスクに永住させる方策を考えることに集中しましょう」
それはたしかにそうね――。花はすぐに頭を切り替えた。
「それでは美東さん。たとえばこのまま代表議会で多数決を採ったとしたら、結果はどうなるでしょうか?」
「十一対二で負けます」
つまり完敗ってことか……。あまりにも厳しすぎる美東の見通しに、花は思わず愕然とした。
「それは、関税の撤廃と法人税の軽減措置があっても無理ということですか?」
「無理です」
美東はわずかに眉を寄せながらさらに言う。
「理由は主に二つあります。一つはルール。ネスクに暮らせるのは日本人だけというルールを破ったら、住民は反発します。もう一つは住民感情。ネスクの住民は外の世界で生活できなくなった人間が多い。そのため、グローバルな多様性に対する精神的なアレルギーを持つ者が少なくありません」
「つまり、ネスクの人間はお金よりも、今の環境を守りたいと思っている――ということですね」
「そういうことです。そしてすべての代表議員たちは、そういった住民の心情を理解しているのです」
「それでも美東さんは、難民をネスクに永住させようというのですか?」
「当然です」
美東は即座に言い切った。
「お金はあるに越したことはありません。なくなってから慌てても遅いのです。ネスクの財政基盤がより盤石になるのであれば、私はどんなことでも決断して実行します。……それともう一つ。私には大きな懸念があるのです」
「懸念?」
花が小首をかしげると、美東は小さく息を吐いた。
「法条の血筋のことです。あなたもご存知のとおり、ネスクを作ったのは法条快です。そして今は、彼の息子がネスクの代表を務めています」
(それはもちろん知っているけど、それの何が不安なのかしら……?)
美東の真意を図りかねた花は、口をつぐんで言葉を待った。
「いつの時代でも、どんな世界でも、世襲制は三代が限界です。初代が創り、二代目が大きくし、三代目が食い潰す――。今の法条知事は立派にネスクを発展させていますし、それは今後も変わることはないでしょう。私が心配しているのは次の世代のことです」
「それは、知事のお子さんという意味ですか?」
そうです――。美東は重々しくアゴを引いた。
「ネスクの代表議員になるには立法試験に合格する必要があります。知能、品性、道徳的観念に優れた人間だけがネスクの代表になれるのです。ですが、そんな代表議員の中にも、意志の強い者と弱い者が存在します。そして、このまま法条牧夫が知事の座に居続けると、住民は法条の血筋を崇め始める可能性があります」
「つまり、知事のお子さんにリーダーの素質がなかったとしても、人気だけで知事に選ばれてしまうかもしれない――ということですか?」
「そういうことです」
美東は軽く目を閉じて、首を小さく左右に振る。
「法条の名を持つ者が立法試験に合格すれば、必ず知事に選ばれる――。そういう流れを作ることだけは絶対に避けねばなりません。だからこそ、早いうちに法条牧夫を知事の座から降ろさなくてはならないのです」
「そのために、美東さんが行政的な成果を上げて、自らが知事の座に就く――ということですか」
「別に私でなくとも構いません。しかし、現状では他に人材がいません」
(なるほどね……。だから美東さんは、法条知事に対抗する立場を取っていたのか……)
花は美東の狙いと想いを知って感心した。彼女のネスクに対する情熱がどこからくるのかはわからないが、その想いは本物だ。美東は我が身を削り、心を砕き、はるか先を見据えて険しい道のりを進んでいる――。
(こんな人が代表議員をやっているんだから、ネスクが素晴らしいのも当然ね……)
花はそっと胸を押さえた。なぜだかわからないが胸の奥が温かい。たぶん、誰かのために一生懸命がんばっている人を見たからだろう。
(だったらわたしも、がんばらないとね――)
花はこぶしを握りしめ、新たな決意を宿した瞳で美東を見た。
「それでは美東さん。もう一度確認したいのですが、今のままだと代表議員のほとんどは、難民の永住に許可を出さないということですね?」
「それは間違いありません。おそらく一年経とうが二年経とうが、議員たちが首を縦に振ることはないでしょう。最低でもあと五人の賛同が必要ですが、それだけの数を説得するのはほぼ不可能です」
なるほど……。花はしばし考え込んだ。
そうすると、発想を逆転するしか突破口はなさそうだ。そして、こういう場合の逆転というとアレしかないが、成功する見込みはかなり薄い。しかし、代表議員五人を説得するよりは、まだわずかに可能性はあるはずだ……。
「美東さん。わたしに少し、考えがあります」
花は美東をまっすぐ見つめながら、思いついたアイデアを説明した。




