その花 第二章 : 天堕の刻 1
天国行きのバスは、八重洲二丁目の地下バスターミナルから出発します――。
東京駅の八重洲南口改札を出た花は、手に持ったチラシを眺め、長いため息を吐き出した。
「ああ……。まさかこのわたしが、天国堕ちするなんて……」
花は人の波に流されながら、駅の構内をフラフラ歩いた。
しかしすぐに呆然と足を止めて、壁の巨大モニターに目を向ける。画面には若くてきれいな女性キャスターが映っているが、別に朝のニュースを見たかったわけではない。単に歩く気力が尽きただけだ。
周囲に響く雑踏のせいで音声はほとんど聞こえないが、戦車や戦闘機の映像を見れば内容はすぐにわかる。半年ほど前、中東とアフリカのどこかの国が海底油田の所有権を巡って戦端を開いた、いわゆるエイデン湾戦争についての報道だ。
どうやらその戦争で、数百万の戦争難民が発生したらしい。それで国連は総会緊急特別会期を招集し、同時に首脳級の難民サミットを開催。その席で、日本国政府は難民支援に三千億円を拠出すると表明した――という内容の字幕スーパーがゆっくりと流れていく。
なによそれ――。花は思わず悔しそうに顔を歪めた。
(なんで日本に税金を払っていない外国人に、ウン千億も恵んでやらなきゃいけないのよ。日本の政府なら、外人よりも日本人を助けなさいよ……)
我が身の不運を嘆く涙はとっくの昔に枯れ果てた。しかし、このやり切れない思いが胸の奥から消え去る日は、永遠にこないような気がする――と花は思った。
彼女の順風満帆な人生が反転したのは、ちょうど一年前の今日だった。
去年の七月三日――。
クルシマ製薬の役員全員と管理職のほぼすべてが逃げ出したあと、花と同じ部署の課長が重責に耐え切れずに自殺した。
それから五日後の七月八日。ゴッドヘアーZZの『深刻な副作用』について、マスコミ各社が一斉に報道を開始。同時に世界規模で暴動が発生。花の予想どおり、世界各国に散らばるクルシマ製薬の支社はすべて、完全に毛髪を失ったカスタマーたちの襲撃を受けた。
その結果、日本では死者こそ出なかったが、世界各地で死傷者と逮捕者が続出した。北米と欧州の各支社では従業員の半数が殺された。中米・南米・中東・アフリカの各支社では、ほぼすべての従業員が切り刻まれた。
責任を逃れて行方をくらましていた会長や社長たちも、この一年で居場所を特定されてしまい、一人残らず首と胴体を切り離された。彼らはみな東南アジアの奥地に逃げていたが、日本に残った社員が全員保護されたことを考えれば、ずいぶんと皮肉な結末だ。そして、彼らの最後はとても悲惨なものだった。
ゴッドヘアーZZのせいで毛髪を失った人々は激怒していたが、中でも女性たちの怒りは筆舌に尽くしがたいものだった。花はインターネット中継で襲撃のライブ映像を見ていたが、スキンヘッドの女性たちがマシンガンやチェーンソーを振り回し、怒号を上げながら社長をリンチする姿は、まさにこの世の地獄そのものだった。
生きていられるだけマシね――。
リンチの様子を見ながら、花はほっと胸をなで下ろした。しかし、その考えが変化するのにさほど時間はかからなかった。なぜなら、クルシマ製薬が倒産したあと、再就職先がどうしても見つからなかったからだ。
キミ、クルシマ製薬の社員だったの?
どこの会社に応募しても、履歴書を見た面接官からはそう言われ、冷たい目でにらまれた。時にはスキンヘッドの面接官に殴られたことさえある。百二十社に面接に行って、百二十回断られた。
働かなければ収入がない。そのため、あまり貯金をしていなかった花の生活はすぐに困窮を極めた。ブランド品の洋服やバッグを質屋に売っても、雀の涙にしかならないことを初めて知った。
それで、背に腹は替えられないと腹をくくりアルバイトをしようと思ったが、やはり面接ですべて落とされた。どこかのレストランの求人に応募した時は、マネージャーの女性にカツラを投げつけられたことさえある。
しかし、精神的に一番苦しかったのは、有香と綾子の態度だった。
課長が自殺した日はさすがに気が動転してしまい、二人に連絡するのをすっかり忘れてしまった。それが今になっても悔やまれる。そのせいで、有香の彼氏と綾子の母親がゴッドヘアーZZを使ってしまったのだ。その数日後、三年後に必ずハゲるという副作用をマスコミの報道で知った二人は、花のところに怒鳴りこんできた。
「「これはいったいどういうことよ!」」
激高する二人に対し、花は副作用のことを知らなかったと釈明し、素直に頭を下げて謝罪した。しかし、二人の怒りは収まらなかった。有香は彼氏に殴られたのだろう。青あざだらけの顔で、花を激しくなじり続けた。綾子は母親に引っぱたかれたのだろう。真っ赤に腫れた顔で、泣きながら花を何度も叩いた。
そして二人は、花に絶交を言い渡して立ち去った。
幼い頃に両親を失った花には身よりがなく、今回の一件で頼れる友人もいなくなった。貯金も完全に底を突き、口座の残金は八万円弱――。もはや今月の家賃すら払えない。
最後の手段として区役所に赴き、恥を忍んで生活保護の申請をしたが、スキンヘッドの職員にあっさり却下されてしまった。あとはもう、最後の最後の手段を選ぶ他に道はなくなっていた――。
「あのぉ、すいません……」
「……あ?」
呆然とニュース番組を眺めていた花に、誰かがおそるおそる声をかけてきた。
自分のことで頭がいっぱいだった花は、思わずやさぐれた声を発しながら顔を向ける。すると、すぐ横に背の低い女の子が突っ立っていた。
「……え? わたし?」
相手が中学生ぐらいの少女とわかり、花はキョトンと一つまばたき。それから慌てて左右を見渡す。東京駅の構内は大勢の人が行き交っているが、巨大モニターの前で足を止めているのは自分しかいない。念のため、花は自分を指さしながら少女を見た。すると、黒い髪を肩まで伸ばした少女は、おずおずと首を縦に振って口を開く。
「あの、えっと……天国行きのバスって、どこから乗ればいいのでしょうか……?」
「え? 天国行きのバスって……まさかあなたが乗るの?」
花は呆気に取られて目を丸くした。長袖のセーラー服を着た少女は恥ずかしそうに肩を縮めて花を見ている。
「でもあなた、どう見ても中学生ぐらいよね? 天国堕ちすると、もう二度と外の世界に戻れないのよ? そんなに若いのに、なんで天国なんかに行こうと思ったの?」
「そ……それはその……」
とたんに少女の顔がくしゃりと歪んだ。さらに、目から涙がボロボロとこぼれ始める。
「あっ、ご、ごめんなさい」
花は慌ててハンカチを取り出し、少女の頬に押し当てた。
しかし少女は細い肩を震わせて、さらに涙を流し続ける。その小さな口からは次第に嗚咽が漏れ始め、すぐに白い両手で顔を隠した。
「もう……もう……おとうさんに叩かれたくないんですぅ……」
その消え入りそうな微かな声に、花の心は大きく揺れた。
「ごめんね……」
花は少女の震える背中に両手を回し、落ち着くまで抱きしめた。
本作をお読みいただき、まことにありがとうございます。
作中で登場したバスターミナルは、新ターミナル計画に基づき、2020年東京オリンピック前の開業を目指して建設予定の高層ビル地下フロア新ターミナルを想定しておりますので、2018年5月現在は存在していません。
・八重洲一丁目バスターミナル
地下一階
停車場所数7バース
西暦2024年竣工予定
・八重洲二丁目バスターミナル
地下二階(地下一層)
停車場所数13バース
西暦2020年・西暦2021年竣工予定
作中では八重洲二丁目バスターミナルの、建設予定にない第14バースを想定しております。建設予定では東京駅の八重洲地下街と接続しておりますので、花と砂理は地下街を移動しています。
作中単語補足説明
・エイデン湾
架空の地名です。
アラビア半島とアフリカ大陸の間に位置しているとイメージしております。
次回の第三話では、いよいよ天国の名前と移住の条件が明かされます。
それと、かなりクズっぽいオッサンが出てきます。あ~、こういうヤツ現実にいるいる、という感じのオッサンです。こいつは序盤でかなりのクズっぷりを発揮しますので、どうぞご期待ください。けっこう痛々しい魂のシャウトをかますオッサンですので、現実世界に不満のある方には是非ともご一読いただければと思います。
あと、何かご質問などがございましたら、お気軽にお問い合わせください。叩かれたらあっさり凹む低反発マクラみたいなメンタルですが、ご批判、ご指摘もありがたく頂戴したいと思います。誤字・脱字を教えていただけますと、ものすごく喜びます。
それでは、皆さまの健康をお祈りしつつ、失礼させていただきます。
記 : 2018年 5月 24日(木) 松本 枝葉