その花 第四章 : 天開の刻 5
「や……やっと……終わった……」
コミュニティーセンターからフラフラと外に出た花は、噴水を囲む石段にへたり込んだ。そのまま疲れ切った顔で空を見ると、とっくに夜の帳が下りている。
もうヒグラシの声も聞こえないし、薄い星空の真ん中にはやけに大きな月が浮かんでいる。近くのポール時計に目を向けると、時刻は夜の九時を回っていた――。
「勤務初日から四時間以上の残業って、けっこうキツイわね……」
花は先ほどまでの話し合いを脳裏に浮かべ、ガックリと肩を落とした。難民代表の三人にネスクのルールを説明したところまでは順調だったのだが、それぞれの要望を尋ねたとたん、三人の口から言葉の濁流が飛び出してきたからだ。
その勢いはまさにダムの放流のごとく、あれがほしい、これがほしいと、次から次にあふれ出して止まらない。花も事前に予想はしていたが、衣食住に関する彼らの要望はほとんど底なしだった。
アラビア人のハッサンは、新しい民族衣装を人数分用意しろ、日本に入国した時に取り上げられたジャンビーアと呼ばれる短剣を全員に返還しろ、アララム教の礼拝所を作ってくれ――など、かなり細かく注文してきた。
アフリカ人のアーメドは、ラクダを一万頭と、それを飼育できる土地を用意しろとすごんできた。イギタリア人のダグラスは他の二人に比べると控えめだったが、難民全員に仕事を寄こせという、何気に一番厳しい要望を突きつけてきた。
「ラクダ一万頭って、そんなの無理に決まってるじゃない……」
花は黄色い月を見上げながら、呆れ返った息を漏らす。それから携帯端末を取り出して電話をかけた。難民支援室で待っているはずの映美と田川に連絡するためだ。
「――あ、もしもし? エミシー? 遅くまで待たせてごめんね。今までちょっと手が離せなくて、ようやく難民の代表から要望を聞き終わったところなの」
『おー、おつかれぇ~。こんな時間まで大変だったねぇ~』
「ほんと、もうヘトヘトよ。すぐに事務所に戻るから、一緒に何か食べて帰らない?」
『あー、ごめん。あたし、もう家だから』
……はい?
その瞬間、花はパチクリとまばたきした。
「……え? なんで? エミシー、もう帰っちゃったの?」
『うん。仕事は四時半までだから、速攻で帰ったよん』
ナンダト、コノヤロー。
花は空いている手でこぶしを握り、石段に叩きつけた。映美の言っていることはよくわかる。勤務時間が終われば家に帰る。それはたしかに当然だ。
だがしかし。
こっちは残業四時間オーバーで働いていたのだ。業務の格差がありすぎるだろ。なんという理不尽。なんという不公平。この腹の底からグツグツと湧き出てくるイラつきは、いったいどうやって処理すればいいのよ――と思いながら、花は力の限り穏やかな声をひねり出す。
「そ……そうなんだ。それじゃあ、田川さんも帰っちゃったのかな?」
『そりゃもちろん。今どき残業する人なんかいないっしょ』
おい、こら、小娘、ちょっと待て。ここに四時間残業したわたしがいるだろ――と花は思いながら全力で牙を剥き、端末画面をにらみ下ろした。
「そ……そっか。それじゃあ、わたしも何か適当に食べて帰るわね」
『え~、今から食べると太るんじゃない? だってほら、もう九時を過ぎてるし、あたしもフェイスパックが終わったら麦茶を飲んで寝る時間だし』
ああ、うん、どうしよう。
わかっちゃいたけど、この子やっぱりムカつくわ。
『だからさ、ハナミーも早く寝た方がいいと思うよ。もう若くないんだ――』
その瞬間、花は速攻で電話を切った。それから思いっきり息を吸い込み、怒りの炎を吐き出した。
「だまれぇーっ! 花粉症で鼻水ダラダラの小娘が生意気いってんじゃないわよぉーっ! わたしはまだ二十六歳だーっ! このボケぇーっ! ボケムスメーっ!」
「――おいおい。こんなところで大声出すなよ。みっともない」
「あぁっ!?」
いきなり聞こえてきた声の方を、花は反射的ににらみ上げた。すると、いつの間にか久能が近くに立っている。
「うるさいわねっ! 疲れてヘトヘトの時に、オンナとして全否定されたら怒鳴りたくなって当然でしょ!」
「なんだ? 彼氏とケンカでもしたのか?」
「そんなモンいないわよっ! 相手が男だったら速攻で殴って殺して埋めてるところよっ!」
「おいおい、ネスクガードの前であまり物騒なことを言うなよ」
「冗談に決まっているじゃない! 変な髪型のクセにいちいち真に受けてんじゃないわよ!」
「いや、俺の髪型は関係ないだろ」
久能は苦笑いを浮かべながら、サイドを刈り上げた頭をかいた。
「ま、たしかにさっきの会議はかなり大変だったからな。後ろで話を聞いていただけの俺がこれだけ疲れたんだから、あんたがイラつくのも無理はない。そういうわけで、一杯おごってやるからついてきな」
「はあ? なにそれ? ナンパしてんの?」
花は久能をじろりとにらんだ。
「彼女がいるくせに、他のオンナに色目を使ってんじゃないわよ」
「彼女?」
久能は眉を寄せて首をかしげた。
「ほら、この前わたしと砂理ちゃんを公園で助けてくれた時、すまし顔の美人とデートしてたじゃない」
「ああ、あれか。あれは冗談だ」
「……冗談?」
今度は花が眉を寄せて首をかしげた。
「内田さんは法条知事の秘書だ。あの時は仕事の打ち合わせに向かう途中で、偶然一緒になっただけだ」
「じゃあ、なんでデートしてるなんて言ったのよ」
「さあな。なんとなくそう言った方がいいと思ったんだよ」
「なにそれ。あなた、けっこう適当なのね」
「まあな。あまりマジメだと、こういう仕事は厳しいのさ」
久能はシャツの上腕に縫い付けてあるネスクガードのワッペンを指でさした。
「それより、あんたも腹が減ってるだろ。俺の行きつけの店は遅くまで営業しているし、飯も美味い。お勧めは魚貝のパエリアだが、食べに行かないか?」
う……パエリアか……。なかなかいいチョイスじゃない……。
花はエビとイカとムール貝がのった黄色いパエリアをイメージして、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……いいわ。行ってあげる。ただし、ご飯を食べて一杯飲んだら、すぐに家まで送ってちょうだい。わたしはそれで帰るから」
「はいはい。分かりましたよ、お姫様」
久能は軽く肩をすくめ、近くの車に足を向ける。花もすぐに立ち上がり、尻を軽くはたいて久能を追った。