その花 第四章 : 天開の刻 4
「――それでは、本日の定例会議は以上で終了します」
幕張の高層ビル街に建つネスク市庁舎ビルの会議室で、議長の男性が淡々と会議の終わりを告げた。
円形のテーブルについていた十二人の男女は、丁寧に頭を下げてすぐに会議室をあとにする。しかしそのうちの一人、美東真冬だけはドアに向かわず、議長に近づいて声をかけた。
「法条さん。少々よろしいでしょうか」
「ああ、すいません美東さん。ちょっと待ってください」
黒い髪を長めに伸ばした中年男性は、美東に軽く手を向けて席を立つ。そのまま背後にある重厚な木製の机に近づき、水を一杯飲んで喉を潤した。
机には洒落たネームプレートが置いてあり、『ネスク知事・法条牧夫』と刻まれている。この部屋は会議室を兼ねた知事のオフィスだった。
「お待たせしました」
法条は壁際に飾ってあった黒い木刀を手に取り、きっちり着こなしたスーツの肩を木刀で軽く叩きながら口を開く。
「なんだか最近、肩が凝るんですよねぇ」
「それはそうでしょう。法条グループ代表とネスク知事の二足の草鞋なんて、土台無理があるのです」
「ですが、それでもなんとか三期目です。この肩には、ネスクに暮らす住民の期待がかかっていますからね」
「そうは言っても、私とあなたの差はたったの二万票。私は美東グループの経営には関わっておりませんので、あなたの重荷ぐらい、いつでも引き継いで差し上げますよ」
「それを決めるのはネスクの住民だと思いますが、まあ、あなたのご意見は心に留めておきましょう」
法条は片手で木刀を回しながら歩を進め、再び円卓の椅子に腰を下ろす。
「それで美東さん。ご用件は?」
「今朝、難民支援室に配属した飽海花と会ってきました」
美東も法条の隣に座り、足を組む。
「飽海花……。たしか、アラビア語が得意な方でしたね。それが何か?」
「彼女に、レベル5の裁量権を与える許可を頂きたいのです」
「ほう? 局長に次ぐ権限を、ネスクに来たばかりの新人にですか」
法条は再び木刀で肩を叩き始める。
「――駄目ですね。その申請は却下します」
「理由は?」
「必要がないからです」
「お言葉ですが、彼女は使える人材です」
美東は手に持っていたタブレット端末を操作して、法条の前に差し出した。そこには花の個人データが事細かに表示されている。
「それは移住審査での能力診断、精神分析、職業適性のデータです」
「……ほう。これはすごい」
法条はデータに目を通しながら軽く目を見開いた。
「ほぼすべての職業に適性ありですか。教養も、判断力も、情緒の安定度も群を抜いている。つまりあなたは、彼女を自分の手駒にしたいというわけですね」
「ネスクのために、優秀な人材を活用したいだけです」
「物は言いようですね」
法条は淡々と言って、タブレットを美東に向けて滑らせた。
「彼女に裁量権を持たせたいのは、難民が問題を起こした時に握り潰すためでしょう」
「知事としても、その方がよろしいはずです」
「別に。私としては、難民なんか今すぐ追い出したいと思っていますから」
「それは代表議会が許しません。特例期限付移住者保護条例は、代表議員の過半数から賛同を得ております」
「そうは言っても、7対6」
法条はニヤリと笑う。
「どうやってこちらの派閥の一人を取り込んだのかは知りませんが、あなたの足下は非常に脆い。ここ十数年の世界の歴史はご存知でしょう。移民や難民は必ず争いを引き起こす。毒だと分かっているモノに関わるのは愚かの極みです」
「ですが、経済効果は見込めます」
「それは食い潰されているだけだと何度もお話ししたはずです。人が増えれば消費が増える。そんなことは当たり前です。ですが、人が増えれば治安が乱れる。医療費もかかる。一時的な経済効果なんて、一瞬で吹き飛ぶほどの社会保障費が必要になるんです。そんな簡単な理屈が分からないほど、あなたはボンクラではないはずです」
「こちらこそ、それは適切な管理でカバーできると何度も説明したはずです」
美東は呆れ顔でかぶりを振った。
「……どうやら、これ以上お話ししても意味がなさそうですね」
「はは。やはりあなたはボンクラではなさそうだ」
法条は木刀で肩を叩きながら軽い調子で言い放った。同時に美東はタブレットをつかんで立ち上がり、無言でドアへと向かっていく。
「――ああ、美東さん」
不意に法条が声をかけた。その顔はデスクの奥、ガラスの壁の向こうに広がる幕張のビジネス街に向けられている。法条は並び立つ高層ビル群を眺めながら、淡々と言葉を続ける。
「レベル5の裁量権を、飽海花に附与することを許可します」
名前を呼ばれたとたん、美東は足を止めていた。そして法条の言葉を背中で聞くと、無言のまま知事室をあとにする。その直後、一人の女性が室内に入ってきた。長い黒髪をお下げに結った、スーツ姿の若い女性だ。
「――失礼します。法条知事。奥様よりご伝言を承っております」
「ああ、内田君か。わざわざ悪いね。内容は?」
法条は立ち上がり、木刀を元の場所に戻しに向かう。
「お読みします。『ネスク大学の学長が、あたしを名誉学長にしてくれないからマジでムカつく。あのバカをさっさとネスクから追放しろ。あと、秘書の内田と浮気したらぶっ殺す』――とのことです」
「おやおや。本人に向かってそんなことを言ったのか。すまないね、内田君。気を悪くしただろ」
「いえ。いつものことですから」
申し訳なさそうに頭をかく法条に向かって、内田は無表情で淡々と答える。
「それより、コーヒーか玉露をお持ちしましょうか」
「そうだな……」
法条は右手首にはめた腕輪に目を落とす。デジタル時計は12時26分を表示している。
「いや。キリがいいから昼食にしよう。内田君も一緒にどうかな? 妻の無礼のお詫びにご馳走するよ」
「ありがとうございます。それでは、餃子でお願いします」
「はは。また餃子か。君も好きだね」
法条は苦笑いを浮かべながらドアへと向かう。同時に内田は法条にそっと寄り添い、軽く腕を組んで一緒に知事室をあとにした。




