その花 第四章 : 天開の刻 2
移住管理局・湾岸支部のビルを出た花は、そのまま海側にまっすぐ歩いた。
田川の話によると、ツーブロック先に見えた巨大な建物群が難民たちの居住区に使われているらしい。花はさらに暑さを増していく青空の下を進みながら、携帯端末に目を落とす。
画面で地図を確認すると、巨大な体育館みたいなマンションは四つどころか無数にズラリと並んでいる。これは地震などの災害に備えて作られた、耐震型の避難用集合住宅のようだ。
(ここに、昨日到着した難民の第一陣、約一万人が収容されているのね)
花はまだ新しいマンション群を見上げながらひたすら歩き、広場に作られた五階建てのコミュニティーセンターに到着した。
この大きなセンターには、ネスクの医療機関から派遣された医療スタッフが常駐する診療所と、食料品や日用品を販売するマーケットが整備されている。おかげで大勢の難民たちが出入りしているので、まるでショッピングモールのような賑わいだ。
(ここはもはや、外国ね……)
花は周囲を見てそう感じた。センターの前には大きな噴水と芝生の広場があり、大勢のアラビア人やアフリカ系黒人、そして白人たちが楽しそうに散歩している。ベンチや木陰で談笑している人たちもいるし、ボロボロのボールでサッカーをしている人たちもいる。見るからに誰もが幸せそうな表情だ。
(パッと見たところ、特に問題はなさそうね)
花は安堵の息を漏らしながら広場を突っ切る。そして近くの道路に止まっていたネスクガードの車列に近づき、警備していた隊員に話しかけた。
「すいません。移住管理局、難民支援室の者ですが、難民代表団の要望を伺いに来ました」
そう告げると、若い隊員はすぐに無線で連絡を取る。すると近くの車から一人の男が姿を現した。
「――よう。遅かったな」
「え? 久能さん?」
花は軽く驚いた。気安い声をかけてきたのは、サイドの髪を刈り上げた久能瀬衣だった。
「また会ったな。とりあえず中に入ろう。ここは暑くてかなわん」
久能は首の汗を手の甲で拭いながら、さっさと入口に向かっていく。花は慌てて追いかけて、自動ドアをくぐり、広いロビーを歩きながら久能に話しかける。
「今日の護衛って、久能さんだったんですね」
「まあな。今日は一応、難民代表との初会合だから、こっちもそれなりの面子を出す必要がある。だから俺が派遣されたんだ」
「え? それじゃあもしかして、久能さんって偉いんですか?」
「別に偉くはないが、一応ネスクガードの総司令だからな。警備の責任者として、あちらさんに顔ぐらいは見せておいた方がいいだろうってことさ」
(……へ? 総司令ってつまり、ネスクガードのトップってこと……? え? なにそれ? この人こんなに若いのに、そんなに偉かったんだ……)
意外な事実を耳にして、花は思わず久能から顔を逸らした。知らなかったとはいえ、ネスクの移住審査に合格した日に、けっこう生意気な口を叩いてしまったからだ。しかし久能は花の様子に目ざとく気づき、淡々と言い放つ。
「おい、そんなあからさまに目を逸らすなよ。今さらおとなしそうな態度を取っても無駄だぞ。むしろ気持ち悪いからやめろ」
ふんぐぐぐぐぐ……。
花は思わずこぶしを握りしめた。先日は傲慢な老人に絡まれたところを助けてもらったので少しは見直していたのだが、やっぱりこいつは性格が悪い――と認識を元に戻した。
「ところで」
不意に久能が花に訊いた。
「なんで、あんたみたいなネスクに来たばかりの新人が、難民支援室の責任者に抜擢されたんだ?」
「はあ? そんなこと、こっちが聞きたいぐらいなんですけど」
「ふーん。それじゃあ自覚はないってことか。だけど、あんたはアラビア語が得意だって話だが、外国語なんて翻訳ツールがあれば会話ぐらいできるだろ」
久能は耳に装着したイヤホンを指でつついた。
「実際、あちらさんの代表団を会議室まで案内したのは俺たちだが、こいつで問題なかったしな」
「それはまあ、たしかに挨拶ぐらいならそれで問題ないでしょ」
花は軽く呆れ顔で言葉を続ける。
「だけど、意思の疎通となるとそうはいかないのよ。肝心なのは、相手の文化を理解することなんだから」
「ほほう。文化ときたか」
久能が軽く鼻で笑ったので、花はじっとりとした目でにらみながら口を開く。
「日本でもそうでしょう。関東ではお好み焼きとご飯を一緒に食べないけど、関西では別に珍しいことじゃない。それと同じ。たとえば、中東のヨビアン王国と、アフリカのウルビランド共和国では、『カート』が人々の生活の中心に根付いているけど、普通の日本人はそういうことを知らないでしょ」
「カート? 荷物を運ぶ台車のことか?」
「ぜんぜん違う」
花は呆れ顔を隠そうともせずに久能を見上げる。
「カートっていうのは樹木のことよ。和名は『アラビアチャノキ』。向こうの人たちは、その木の葉っぱを口の中にいっぱい詰めて、何時間もかけて噛み続けるの。そうすると精神がリラックスして、意味もなく楽しい気分になるそうよ」
「なんだそりゃ? まるでドラッグじゃないか」
「そうよ。中東でも多くの国はカートを禁止薬物に指定しているから、正真正銘のドラッグね。だけどドラッグとしての効果はとても低いから日本では禁止されていないし、ヨビアンとウルビランドでは伝統的にカートをたしなむ習慣があるの。向こうではスークという市場でカートを買って、お昼を過ぎるとマフラージというカートを楽しむ専用の部屋にみんなで集まり、カートを楽しみながら夜までおしゃべりするのが日課になってるのよ」
「ふーん。なるほどな」
久能は納得顔で隣を歩く花を見下ろす。
「つまり、そういう文化的背景を知らないと、難民たちが『どういう理由』で『何を望んでいる』のかを理解できないってことだな」
「まあ、そういうことね。わたしが難民支援室に配属されたのは、向こうの生活様式に詳しいからっていうのが一番の理由でしょ。だけど、だからこそ嫌なのよねぇ」
花は長い息を吐き出した。
「なんだ? 何が嫌なんだ?」
「実はね、向こうの人ってものすごーくいい加減なのよ。約束を平気で破る人がものすごーく多いから、できればあまり関わりたくないのよねぇ」
「それは仕方ないだろ。そういうのはお国柄だと思って割り切るしかない。それがあんたの仕事だ」
そんなこと、あなたに言われなくてもわかってるわよ……。
花はボソリと呟き、ふてくされたように頬を膨らませた。すると久能が花を指さしながら口を開く。
「それよりさ、なんか万能な言葉があったら教えてくれないか?」
「……はい? 万能?」
唐突な質問に、花は怪訝そうに眉を寄せた。いったいなんの話だかまるでわからない。
「だからさ、向こうの言葉だよ。なんかあるだろ。たとえば……『そうですね』とか『問題ありません』とか、そういう感じの、どんな状況でも使える言葉だよ」
「どんな状況でもって、どういうこと?」
「つまり、ガードの全員が常に翻訳ツールを起動しているわけじゃないってことだ。難民たちに声をかけられた時に何も言えなかったら、こっちの印象が悪くなるだろ?」
「ああ、なんだ、そういうことね」
花は久能の望みをようやく理解した。そして少し考え込んでから口を開く。
「……だったら、『メッチャルフィン』って言っておけばいいでしょ」
「メッチャルフィン? どういう意味だ?」
「挨拶みたいなものよ。『会えて光栄です』とか『よろしくお願いします』って意味。アラビア語圏ではよく使う言葉だから、それさえ口にしておけば大抵はなんとかなるから」
「へぇ。そいつはたしかに使えそうだな。あとで全員に通達しておこう」
はいはい、好きにしてちょうだい――と、花は手のひらを上に向ける。
「それより久能さん。向こうの代表ってどんな人? 三人とも、おとなしそうな人だった?」
「さあ、どうかな」
久能はわずかに首をかしげる。
「とりあえず、どのグループもおとなしかったけどな」
「グループ? 代表って、それぞれ一人じゃないの?」
「いや。どこも五、六人は連れてきていたぞ」
その言葉に、花は思わず目を剥いた。
「ということは、向こうは十五人以上で、こっちはわたし一人ってことか……。ああ、気が重い……」
通路の奥に会議室の大きなドアが見えてきて、花はさらにガックリと肩を落とす。
「おいおい、しゃっきりしろよ。あんたは一応ネスクの代表なんだからな。あんたが舐められたら俺たちが困るんだよ。それにさっきも言ったけど、あちらさんは意外におとなしいから、そう心配することは――」
その瞬間――会議室のドアが弾けるように開いた。
幅の広い通路に激しい音が響き渡る。花と久能は反射的に足を止めてドアを見た。すると、三、四人の男たちが取っ組み合いながら飛び出してきて、暴れまくっている。
黒い肌と白い肌と褐色の肌の若い男たちだ。彼らは歯を剥いて怒鳴りながら拳で殴り合っている。さらに会議室の中からも、怒鳴り声やガラスが割れる音、椅子や机がひっくり返る激しい音が響き渡ってくる。
「えーっと……おとなしい?」
花が半分白目を剥いて久能を見た。
「はいはい。もう何も言うな」
久能は軽く両手を上げて花に応え、乱闘している男たちにまっすぐ向かう。
そして、「メッチャルフィン」、「メッチャルフィン」と声をかけながら、一人ずつ殴り倒した。