その花 第三章 : 天生の刻 5
その日の花は、朝から少し落ち込んでいた。
ネスクに移住してきてから三週間後――。ガイドの椎菜映美が、花のマンションを去ってしまったからだ。
「何か困ったことがあったらいつでも連絡してねー。それじゃ、バイビー」
映美は最後にアイドルらしいポーズをキラッと決めて、あっさりと出ていった。
(いきなり押しかけてきて面倒くさい子だと思っていたけど、いなくなるとちょっぴりさみしいわね……)
一人になった花はホットの麦茶をすすり、小さな息を静かに漏らす。するとその時、キッチンカウンターに置いていた携帯端末から着信音が流れ出した。画面を見ると、『住民投票の通知』と表示されている。
(あら。話には聞いていたけど、実際に参加するのは初めてね)
花は椅子に腰を下ろし、端末に表示された説明文を読み始めた――。
ネスクの住民になると七つのルールが義務付けられる。そのうちの一つが『投票の義務』だった。『E‐デモクラシー』と呼ばれる『電子的直接民主主義』のシステムが完全に整備されたネスクでは、定期的に『住民投票の通知』が届く。
内容は主に、ネスクの代表議会が可決した条例の賛否確認で、このシステムは四年ごとのネスク代表議員選挙にも活用されている。ネスクで生活する『満十歳以上の住民』は、住民投票と選挙のどちらにも、必ず投票をしなくてはならないと決められている――。
(まあ、十歳以上というのはさすがに驚いたけど、最近の子どもは頭がいいからね。それに、社会が作られていく過程に参加するのは、教育の観点から見ても有意義であることは間違いないでしょ)
花は軽くうなずきながら、通知内容にざっと目を通していく。今回の住民投票は、議会通過案件が十二件に、住民発議案件が三件のようだ。
議会通過案件は『レファレンダム』と言う。これはネスクの代表議会が可決した条例などを住民に通知して、その内容に賛成か反対か、それとも判断を棄権するかを住民に選ばせることだ。
そしてもう一つの住民発議案件は『イニシアティブ』と呼ばれている。こちらはネスクの住民が生活における問題点の改善策などを提案し、代表議会での審議にかけるかどうかを住民に問うことだ。このイニシアティブで住民の過半数から支持を受けた案件については、世論を反映しているということで、ほとんどが議会で可決される流れになるらしい。
このレファレンダムとイニシアティブは、どちらも投票総数の過半数が賛成することで成立する。そしてネスクの住民には『投票の義務』があるので、投票率は毎回九十九パーセント近くになるという。
(九十九パーセントだなんて、まるで独裁国家なみの投票率だと思ったけど、よく考えると逆なのよね。選挙に参加しない人は民主主義を捨てている。つまり、投票率が低い国ほど民主的ではないという証明なのよ。それで年金や健康保険みたいな、自分に都合のいい社会保障だけを受ける人って、ほとんど寄生虫ね……)
花はぶつぶつと呟きながら、さらに読み進めていく。
「えーっと、なになに。今回の議会通過案件は、健康促進条例改正案に、移住管理局補正予算案、それに特例期限付移住者保護条例――へぇ、期限付きの移住者なんているんだ。でも、この内容に全部目を通す人って、そんなにいるとは思えないわね……」
花は各条例案に添付されていたファイルを開き、ウンザリした。いずれも、条例が制定された経緯や補足説明などが書いてあるのだが、半分以上が軽く百ページを超えている。これをすべて読むにはかなりの時間がかかりそうだ。だからだろう。住民の多くは、議会通過案件のファイルにはあまり目を通さずに賛成のボタンを押すらしい――。
だけどまあ、そりゃそうよね――と、花は納得顔でうなずいた。
映美の説明によると、ネスクの住民は代表議会に絶大な信頼を寄せているという。なぜならば、ネスクの代表議会の定数は十三名で、彼らは全員、ネスクの住民による直接投票によって選ばれているからだ。
ネスクでは四年ごとに代表議員選挙が実施されていて、得票数が一番多かった議員が総代表の『ネスク知事』となり、残りの十二名がネスク内の十二のエリアを管理する『エリア代表』に就任する仕組みとなっている。
さらに、誰もが代表議員に立候補できるわけではないことも、住民からの支持を受けている大きな要因だという。その立候補の条件は二つ。一つは十八歳以上の成人であること。そしてもう一つは、『立法職従事者試験』と呼ばれる、議員適性資格試験に合格することだ。
この試験は――政治家とは、市民の未来を左右する重要な職業であり、真に優れた教養を持つ人格者でなければならない――との考え方から、ネスクが設立当初から採用したシステムだった。
そのため、ネスクの代表議員は深い知識と高いモラル、そして強い意志を持つ人物のみで構成されている。だからネスクの住民は、議会通過案件については安心して賛成のボタンを押すそうだ――。
(たしかに、弁護士になるには司法試験、官僚になるには国家公務員試験があるのに、政治家になるための試験がないのはおかしな話よね……)
花はそう思いながら麦茶をすすり、とりあえずすべてのファイルに目を通していく。そしてほとんど丸一日かけて、なんとか住民投票を終わらせた。
それから一週間後の八月一日、日曜日――。
再び携帯端末から着信音が流れ出した。手に取って見てみると、『労働管理局からのお知らせ』と表示されている。ネスクの移住審査に合格してから、今日でちょうど四週間。おそらくこれが、自分への職業通知なのだろう――と、花にはすぐにピンときた。
「とうとう来たわね。いったいどんな仕事をさせられるのかしら……」
花は立ったまま深呼吸して心を落ち着けた。
映美の話によると、ネスクの住民のおよそ四割は在宅勤務で働いているという。どうやらネスクのインフラストラクチャーを管理するクビット演算型のフォトン・コンピューターが、在宅ワーカー一人ひとりの適性と実力を分析し、最適なプログラミング業務を割り振っているそうだ。
「たぶんハナミーも、そういう仕事になるんじゃない?」
映美はそう言っていたが、花自身も、できればそういう仕事に就きたいと思っていた。
(自宅勤務なんて最高じゃない。朝のメイクも簡単で済むし、いつだってお茶が飲めるし、トイレにだって気兼ねなく行けるしね。ああ、ほんと、在宅ワークになりますように……)
花は携帯端末を天に掲げて目を閉じて、神らしき何かに祈りを捧げる。それからおそるおそる目をあけて、通知を開く。――直後、パチクリとまばたきした。
「え……? なにこれ? これが、わたしの仕事……?」
花は画面に表示された職業名を見つめたまま、しばらく呆然と突っ立っていた。
本作をお読みいただき、まことにありがとうございます。
作中単語の補足説明をさせていただきます。
・インフラストラクチャー
「下支えするもの」という意味。
道路、ダム、発電所、学校、病院など、社会福祉や経済活動の基盤となる構造物。
・クビット演算
クビットは「量子情報の最小単位」で、「キュービット」または「キュビット」とも言う。
クビットは「量子ビット」を意味する。
クビット演算は「量子コンピューターの演算」のこと。
作中の量子コンピューターは、クビット(量子ビット)に光子を使用。
一つの光子に「1」「0」「1と0を重ねた状態」を作ることをクビット(量子ビット)という。
(※注:作中ではフォトンコンピューターを使用しているので『一つの光子に~』と限定しましたが、『光子=クビット』ではありませんので、ご注意ください)
・フォトンコンピューター
フォトンは「光子」、つまり「光の粒子」のこと。
光子を「量子ビット」として用いる量子コンピューターを「フォトンコンピューター」という。
究極の量子コンピューター。
その他の単語や内容にご不明な点、ご質問等がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
記:2018年 6月 3日(日) 松本 枝葉