その花 第三章 : 天生の刻 3
「あ、花さぁーん!」
花が待ち合わせ場所の噴水公園に到着したとたん、明るい声が飛んできた。目を向けると、噴水前に立っていた少女が軽い足取りで駆け寄ってくる。短いポニーテールを左右に揺らし、いかにも元気いっぱいといった様子の桐島砂理だ。長袖のブラウスに膝丈のスカートは、どうやら新しい中学校の制服のようだ。
「久しぶり、砂理ちゃん。今日も暑いわねぇ」
「はい、お久しぶりです、花さん。えっと、アイスでも食べますか?」
砂理は微笑みながら横の方を指でさす。見ると、アイスクリームの移動販売車が止まっている。バンを改装したキッチンカーで、白とピンクのカラーリングは見るからに女の子受けしそうだ。
「あら、いいわね。行ってみましょうか」
「はい!」
二人はすぐに移動販売車に向かい、花は抹茶ハニー梅干しアイス、砂理はストロベリー&さくらんぼゼリーアイスを注文し、木陰のベンチに座って一息つける。
「それで砂理ちゃん。学校の方はどんな感じ?」
「すっごく楽しいです!」
美味しそうにアイスをなめていた砂理の顔が、さらに喜びに輝いた。
「クラスの子がみんなとっても優しくて、毎日いろんなところに案内してくれるんです。それに、どこに遊びに行ってもみんな親切だし、学食のご飯もいろいろなメニューがあって、どれもすごくおいしいんです」
「それはよかったわね。わたしも近くのパブリックダイナーが美味しくて、ほとんど毎日食べに行ってるわよ。おかげで料理がちっとも上達しなくて困っちゃうぐらい」
花は砂理に微笑みながら、映美から聞いた話を思い出していた――。
外の世界の人間がネスクの移住審査を受ける際の手荷物は、一日分の着替えのみと指定されている。そして移住審査に合格すると、もう二度と外の世界に出ることはできなくなる。
そのため、外の世界に残してきた住まいや銀行口座などの各種契約については、ネスクの移住管理局が解約手続を代行し、家に残された荷物も全部まとめてネスクに持ってきてくれる。そして移住者が必要なものを選ぶと、不要なものはすべて移住管理局が処分してくれる。
それである日、花の荷物も大きなトラックでマンションの前まで運ばれてきた。花は下着やスーツ、コートなどの衣類を部屋に運び、それ以外はすべて処分した。目ぼしいブランド品は質屋に売り払っていたし、家電製品は既にそろっているからだ。そしてその時、不意に砂理のことを思い出した。
父親から虐待を受けていた砂理は、着の身着のままで家を飛び出し、ネスクに逃げ込んできた。そんな彼女の持ち物は、きちんとネスクに運ばれたのだろうか……? それがどうしても気になったので映美に尋ねてみると、すぐに移住管理局に問い合わせてくれた。
「あー、どうやら無理だったみたい。スナリーは未成年だから、私物はぜんぶ保護者の所有物ということで、持ち出しを拒否されたんだって」
ああ、やはりそうだったか……。
「なんでもスナリーのお父さんって、埼玉のどこかの警察署長だったみたい。それでたぶんプライドが高かったんでしょ。自分の子どもがネスクに逃げたことをものすごく怒っていて、管理局の人がスナリーの私物を受け取りに行ったら、『荷物は絶対に渡さん』って怒鳴られたんだって」
「えっ? 警察署長? そんな人が自分の娘を虐待してたの?」
「どうやらそうみたい。それと、ハナミーには知っておいてほしいって移住局の人が言ってたんだけど、スナリーの体、相当ひどかったらしいよ。何年も殴られていたせいで骨があちこち歪んでいたんだって。それに、体中のあざが完全に消えるにはかなりの時間がかかるみたい」
ああ……なんてひどい話だ……。映美の言葉に、花は思わず深い息を吐き出した。
「そういえば、砂理ちゃんのお母さんは何してたんだろ? 娘が殴られるのを黙って見ていたのかしら……?」
「ううん。どうやら一緒に殴られていたらしいよ。スナリーがネスクに来た直後に、スナリーのお母さん、頭がい骨の骨折で緊急入院したんだって。本人は階段から転げ落ちたって言ってるらしいけど」
最悪だ……。その話を聞いたとたん、花はネスクに向かうバスの中で砂理が口にした言葉を思い出した。
『――去年からずっと考えていたんです。いっぱい考えました。いっぱい悩みました。このままだとたぶん、もっと悪いことが起きると思ったんです。だからわたし、ネスクにいきます――』
砂理はそう言っていた。彼女はおそらく、これ以上父親の元にいたら危険だということを本能的に察していたのだろう。そしてそれは正しい判断だったのだ――。
(だって、今はこんなに元気な笑顔なんだから……)
花は隣に座る砂理を見つめた。その明るい表情は、太陽に向かって咲き誇るヒマワリのように輝いている。
「大丈夫ですよ、花さん。料理が上手じゃなくても、ネスクにいればいつでも美味しいご飯が食べられますから。それにわたし、大人になったら郁音ちゃんとハンバーガー屋さんをやりますので、いつでも食べにきてください」
「郁音ちゃん?」
「はい。クラスで一番のお友だちなんです。郁音ちゃんはすっごくいい子で、わたしと一緒にハンバーガー屋さんをやりたいって言ってくれたんです」
「そうなんだ。それじゃあ二人のお店ができるのを、今から楽しみにしてるわね」
「はい! わたしもすっごく楽しみです!」
砂理は嬉しそうに微笑み、アイスのコーンをぱくりと食べた。誰かに声をかけられたのはその時だった。
「あー、あんたたち。ちょっといいかい?」
え? ――花と砂理はキョトンとまばたきしながら前を見た。
いつの間にか、杖をついた老人が目の前に立っている。身長は低く、頭がツルリと禿げあがった男性だ。服装はシャツにズボンという普通の格好で、メガネの奥の細い目でベンチに座る花たちを見据えている。
「儂は毎日この公園を散歩して、あんたたちが座っているベンチで休憩するのが日課なんじゃ。じゃから、あんたたちは別のベンチに移ってくれ」
「……はい?」
花は思わず目を丸くした。老人が口にした言葉の意味はもちろんわかる。しかし、内容が理不尽すぎて、思考が一瞬どこかに飛んだ。
「じゃから、早くどきなさいと言うておるのじゃ。あんたたちだってネスクのルールは知ってるじゃろ。助け合いに、マナーを守る――。つまり、老人に席を譲るのは当然ということじゃ。そんなことも言われないと分からないなら、ネスクで暮らす資格はないんじゃよ。だから、ほれ。さっさとそこをどきなさい」
老人はそう言って、砂理の膝を杖で横に突き飛ばした。
「きゃ!」
いきなりバランスを崩された砂理は座ったまま花の膝に倒れ込んだ。
「なっ! なにをするんですかっ!」
花は砂理を抱きしめて、老人をにらみ上げた。しかし老人は気にすることなく、再び砂理の膝をアルミ製の杖でつつきながら淡々と言う。
「別に何もしとらんじゃろ。それより早くどかないとネスクガードに通報するぞ。そうなったら、あんたたちも困るじゃろ。ネスクで暮らせなくなるかもしれないからのぅ」
「ネ……ネスクで暮らせなくなるって……」
とたんに砂理の肩が震え始めた。その様子を見て老人はニヤリと笑い、さらに砂理の膝を杖でつつく。
「は……花さん、いきましょう……。わたし、外の世界には戻りたくないです……」
「待って」
花は、慌てて立ち上がろうとした砂理を押さえて座らせた。さらに老人の杖をひったくり、足で踏みつけてグニャリと曲げた。
「なっ! なにをするっ! 本当にガードを呼ぶぞっ!」
「お好きにどうぞ。むしろこちらが呼ばせて――」
「――おい、どうした。何かトラブルか?」
花がネスクガードを呼ぶために携帯端末を取り出した瞬間、いきなり誰かの声が飛んできた――。