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その花 第一章 : 逆天の刻



 解語かいごの花は空気を読んだ。


「ねぇ、知ってるぅ? あのエミシーがさぁ、天国()ちしたらしいのよ」


 ランチパスタを食べていた飽海花あくみはなは、テーブルを囲む友人の言葉に目を丸くした。しかし、別に本気で驚いたわけではない。話を切り出した宮本有香みやもとゆかが、サラダシュリンプにフォークを突き刺したままニヤリと笑っているからだ。


 どう? 驚いたでしょ?


 有香の顔にそう書いてある。だから長年の友人として、あえて驚いてみせただけだ。花の本音としては、どこの誰が天国に堕ちたとしても何の感情も湧いてこない。


 この世の天国だなんて大げさなキャッチコピーを付けてはいるが、あそこはただの特別行政区だ。しかも入ったら最後、二度と外の世界に出ることができないなんて、そんなエリアは天国どころか地獄としか思えない。


 まったく。あんな刑務所みたいなところに入るだなんて、みっともない――。


 脳裏に浮かぶ感想はそれしかない。人生の負け組……いや、負け犬どもが、貴重な自由を手放して、自ら進んで奴隷の道を選んだだけのことに、ニュース性なんて欠片も感じられない。そんな情報は右から左に吹き抜けるそよ風よりも価値がない。


 だがしかし、テレビ局に勤める有香にとっては重大なことなのだろう。だから花は驚いたフリをして訊き返した。


「え? エミシーって、アイドルの?」


「そうそう。椎菜映美しいなえみ。昨日の夜、いきなり天国行きのバスに乗っちゃったんだって」


「へぇ、そうなんだ。それはまた、ずいぶんと思い切ったことをするわね」


「でしょー? ビックリだよねぇ。まさか現役の人気アイドルが、いきなり天国堕ちしちゃうなんて」


「そ~お?」テーブルを囲むもう一人の女性、織田綾子おだあやこが口を挟んだ。「アイドルだって人間だもん。そういうことがあっても、別におかしくないんじゃない?」


 そう言って、綾子はフォークに突き刺したニョッキを口に運ぶ。


 でも――と、花は二人の親友もどきを交互に見た。「あの子ってたしか、まだハタチぐらいじゃなかった?」


「うん。二十一」有香がすかさずレスポンス。


「そんなに若いのに、なんであんな壁の向こうに行こうだなんて思ったんだろ?」


「さあ? アイドルだから、いろいろストレスが溜まってたんじゃない?」


「枕営業とか?」と、綾子が笑みを含んだ声で言う。


「そりゃあるでしょ。アイドルなんて、顔と体しか売るモノがないんだから」


(あらあら。だったら有香なんて、売るモノが何もないわね)


 花は歯の裏まで出かかったその言葉を、パスタと一緒に飲み込んだ。


 有香はテレビ局に、綾子は銀行に勤めているが、二人ともコネで入社したお嬢様だ。自分みたいに必死に頭をひねって作戦を練って、どうにかこうにか志望企業に滑り込んだわけではない。


 彼女たちは顔も体も、知識も知性も品性もすべてが人並み以下という、ただ生まれた家がよかっただけに過ぎない甘ったれた寄生虫だ。一応、大学時代からの友人だからあまり悪くは言いたくないが、この二人は生きていようが死んでいようが、どうでもいい典型みたいな人間だ。――と、花は二人の評価を再認識した。


「それでさぁ、うちのディレクターが、『エミシーの特番を組んで視聴率ゲットだぜぇ~』って、朝から息巻いてウルサイのよ」


「え~、なにそれぇ。テレビ局ってほんとイヤラシイわね~」綾子が呆れ顔でフォークを有香の鼻面に向ける。「天国堕ちしたってことは、もう二度と外の世界に出てこないって意思表示でしょ? だったら、そっとしておいてあげればいいじゃない」


「そんなのダメよ。芸能人の不幸ってのは、視聴率がガッポリ稼げるんだから」


「あー、はいはい。アンタは昔っからそういう性格だったわね~」


「当たり前でしょ。視聴率が取れれば夏のボーナスも上がるんだから、こちとら必死よ」


「あら、テレビ局ってまだだったの? うちはとっくにもらったわよ」


「へぇ、銀行ってボーナスの支給早いんだ。綾子はいくらもらったの?」


 訊かれたとたん、綾子は指を一本立てた。


「おおー、百かぁ。さすが大手は気前がいいわねぇ」


「そうかなぁ? うちはたしかに大きい方だけど、二十五歳ならこれぐらい普通でしょ。花なんか、二百ぐらいもらってんじゃない?」


 え? 急に話を振られた花はパスタを飲み込み、軽く肩をすくめて答える。


「ああ、うん。去年はたしか、それぐらいだったかな。今年はまだもらってないけど、午後に部長と面談があるから、その時に金額がわかると思う」


「おおー。花ンとこはヤッパすごいなぁ。さすが世界規模でガッツリ稼いでるクルシマ製薬は一味違うわね。アタシもそっちに就職すればよかったなぁ」


「いやいや。有香やあたしじゃ無理でしょ。花みたいにアラビア語でも専攻してないと、普通は一次で落とされるって」


「いや、わたしはほら、運がよかっただけだから」


 花は口元を拭くフリをして、テーブルナプキンの陰で舌をこっそり小さく出した。


(……この子たちは今さらなに言ってんのよ。そんなの当たり前じゃない。運だけで就職なんてできるはずないでしょ。こっちはクルシマ製薬が中東に進出するのを見越して、わざわざアラビア語を専攻したの。あんたたちとは準備期間がぜんぜん違うんだから。なんの努力もしなかった自分たちと同じレベルで考えないでほしいわね。ちなみに去年のボーナスは三百でした。ざまあみなさい。大してかわいくもないお嬢様どもは、トイレでキャンキャン吠えてるぐらいがお似合いよ)


 花は澄ました顔のまま、腹の中で嘲笑あざわらった。


「だけどまあ」綾子が花に目を向ける。「花はけっこう美人だからね~。面接官に受けがよかったんでしょ」


「え~、なにそれ。それじゃあまるで、わたしが顔で受かったみたいじゃない」


 そう言ってんの――と、有香と綾子が口をそろえて花を指さす。


「はいはい」


 花は軽く肩をすくめ、パスタを食べる。顔で入社できたと言われるのは心外だが、この二人に比べれば、たしかに顔も体も、頭の中身も圧勝しているという自負はある。


 しかも同年代ではトップクラスの給料をもらい、人生設計はもはや盤石ばんじゃく。あとはそれなりの金持ちを見つけて結婚すれば画竜点睛がりょうてんせい。もはや死ぬまでイージーモードで暮らしていけるのだから、少々のやっかみを受けるのは義務と言っても過言ではない――。花はそう考えるようにして、気乗りのしないランチの無聊ぶりょうなぐさめた。


「あ、そうだ、花。アレ、持ってきてくれた?」


 不意に有香が上目遣いで訊いてきた。


 物欲しそうなイヤラシイ目つきね――と花は思いながら、バッグから二本の薬品を取り出し、有香と綾子の前に置いた。薬品のラベルには『ゴッドヘアーZZ(ダブルゼット)』とプリントされている。


「「キャー! ありがとー!」」


 二人は喜びに顔を輝かせながら、自分のハンドバッグにさっさと薬品をしまい込む。


「この薬、新しいカレが欲しがってたんだけど、品切れで買えなかったんだよねぇ」と、有香は上機嫌でデザートのシフォンケーキにフォークを突き刺す。


「ごめんね。ちょっと売れすぎちゃって、生産が追いつかないみたいなの」


「ううん、オッケーオッケー。花と友達でほんとよかったぁ」


「ほんとほんと」と、綾子も即座に相槌を打つ。「このゴッドヘアーって毛生え薬、本当にすごいよねぇ。一度塗るだけで、どんなハゲでも髪の毛がフサフサになるんだもん」


「まあ、うちの主力製品だからね。綾子も彼氏にプレゼントするの?」


 花が無理やり興味深そうな表情を浮かべて尋ねると、綾子は照れくさそうに手を横に振る。


「ううん。ママにあげるの。パパのツルツル頭がボウボウになったのを見て、ママも使ってみたくなったんだって」


「そうなんだ。喜んでもらえるといいね」


「うん」


 まあ、一本十万円もするんだから、喜ばないはずがないでしょ――と花は思った。


 ゴッドヘアーZZは、三年前に発売を開始してから、全世界で爆発的に売れまくっている大ヒット商品だ。おかげで世界の十二か国に生産拠点を作り、フル稼働で生産しているが、それでも需要に追いつかないほどの人気を博している。流通量の少ない地域では、闇取引で一本百万円以上の値段が付くこともあるらしい。


 しかし、それも当然だった。


 ゴッドヘアーZZは、男性型脱毛症のAGAのみならず、女性男性型脱毛症のFAGAにも対応しており、性別や人種の別なく、一度塗れば必ず髪の毛が生えてくる強力な発毛剤だからだ。


 たとえ毛根が死滅していても確実に髪が生えてくるということで、ゴッドヘアーZZは全世界で熱狂的に迎え入れられた。そしてその結果、クルシマ製薬の年間売上高は五百億ドルを軽く突破。日本の製薬業界では、法条グループ配下の法条製薬に次ぐ大企業にのし上がった。



「さてと――それじゃあ、そろそろ会社に戻ろっか」


 食後のアイスコーヒーを飲み終えた花が席を立つと、有香と綾子も立ち上がって口を開く。


「花。お誕生日おめでと。ここはアタシたちで払っておくから」


「ハッピーバースデ~」


 二人は笑顔で花に祝いの言葉を贈る。


「ありがと、二人とも。ボーナスが出たら、またみんなで食事に行こうね」


 花も笑顔で礼を述べて二人に手を振り、イタリアンレストランをあとにする。


 店の外に出ると、七月の都心は目がくらむような暑さに包まれていた。冷房の利いていた店内が天国に思えるほどの熱気だ。花はうんざりした表情を浮かべながら、放射熱で揺らめく歩道を足早に歩き出した。


(しかし、それにしても……)


 一人になった花は、胸の内に虚しさが広がっていくのを感じていた。


 誕生日おめでとう――なんて言われても、素直に喜べる気がしなかった。なぜなら、ゴッドヘアーZZは社員割引で一本三万八千円。さっき食べたパスタランチの、ちょうど十倍の金額だ。


(……まったく。友達っていうのは、ぜんぜん割に合わないわね……)


 クルシマ製薬の本社ビルに戻った花は会議室に向かいながら、有香と綾子の顔を思い浮かべてため息を吐いた。


 花の年収はあの二人の年収を足したよりも多い。そして彼女たちも、そのことはじゅうぶんに承知している。だからだろう。三人で食事に行くと、彼女たちはいつも花に食事代を支払わせる。


 自分たちより稼ぎが多いのだから、おごってもらって当然だ――。


 そう言わんばかりの態度どころか、面と向かってはっきり言われたこともある。花としては、別に食事代ぐらいで波風を立てるつもりなんかこれっぽっちもないのだが、それでも都合のいい財布のように扱われると、さすがに心穏やかではいられない。わたしはあんたたちのATMじゃないのよ――と、時々ぶちまけたくもなる。


 しかし、その一方でこうも思う。


 彼女たちは、自分より収入が高い人間に嫉妬している。そして同時に、給料が低い自分を卑下ひげしている。さらにその相手が長年の友人で、自分ではどう頑張ってもかなわないと理解しているので、やり切れない思いが余計に湧いてくるのだろう。そういった複雑な心情の発露はつろが、食事代をたかるという行動に出ているのだ――。


 そう考えると、花としては哀れみを感じてしまい、何も言う気がしなくなる。だからこそ、これまで文句の一つも言うことなく、わずかに苦笑いを浮かべながら食事代を支払ってきたのだ。


 しかし――。


 それでもやはり、舐められていると思うと、無性に腹が立つ時もある。


(二人とも裕福な家のお嬢様のくせに、浅ましい性格ね……)


 花はもう一度ため息を吐きながら、会議室のドアをノックした。


「――失礼します」


 殺風景な会議室に入ると、スーツ姿の男性が椅子に座って待っていた。男は花を見つめながら、無言で向かいの椅子を手でさし示す。


 花は椅子に腰を下ろし、軽く左右に目を向ける。四角いテーブルの向かいに座るのは中年男性一人だけで、他には誰も見当たらない。花は軽く首をかしげながら、男に向かって口を開く。


「えっと……課長だけでしょうか? 今日は部長との面談だと伺っておりましたが」


「……ああ。うん。そういえばそうだったね。たしかに予定ではそうなんだけど――はああああああ……」


 不意に男が頭を抱え、盛大なため息を吐き出した。


 その姿に花は思わず目を丸くした。男は同じ部署で働く上司なので、当然その人となりはよく知っている。仕事ぶりは極めて真面目で、他人に優しく、自分に厳しい、絵に描いたような理想の上司だ。こんな疲れ切った態度を人前にさらすような人物ではない。それなのに、これはいったい……?


「課長……? どうかされたのですか? ひどくお疲れのご様子ですが」


「ああ……うん。実はね、ちょっと困った事態になってしまって、途方に暮れているんだよ」


(途方に暮れている……?)


 課長の言葉に花は心の底から困惑した。


 会社の売り上げは三年前からずっと右肩上がりで、男と花が所属する部署も順調に業績を伸ばしている。業務上の問題なんて、ただの一つも思いつかない。それなのに、いったい何をそんなに悩んでいるのだろうか……?


「あの、もしかして、ご家庭のご事情でしょうか……?」


「え? ああ、そういえばそれもあったか。まあ、たしかに家族のこともあるんだけど、一言で言えば全部だね。それで二進にっち三進さっちも行かなくなってしまったんだよ」


 男はガクリと肩を落とし、再び長い息を吐き出した。それからゆっくりと顔を上げ、疲れきった瞳で花を見つめる。


「……実はね、飽海さん」


「はい」


「部長が夜逃げしちゃったんだよ」


「……はい?」


「だから夜逃げだよ! 夜逃げ!」


 男はいきなり、こぶしでテーブルを激しく叩いた。


「あのクズヤローども! 僕に全部押しつけて、外国に高飛びしやがったんだ!」


 花はパチクリとまばたきした。課長が突然声を荒らげたことにも驚いたが、それ以上に何を言っているのかまるでさっぱりわからない。


(夜逃げ? クズヤローども? 外国に高飛び? いったいなんの話をしているの……?)


 呆気に取られた花は言葉を失った。しかも課長は両手で頭をかきむしり、明らかに苛立ちの色を見せている。問いただそうにも、声をかけられるような雰囲気ではない。


「ああ、ごめんね、飽海さん……。えっと、とりあえず最初から順を追って説明するよ。うちが三年前に発売したゴッドヘアーZZなんだけど――」


「はあ……」


「実はアレ、頭皮に塗ってから三年が経過すると、毛根が完全に破壊されてしまうらしいんだ」


 ……え?


 花は一瞬、思考が止まった。


「つまりね、ゴッドヘアーZZを使った人は、三年経つと全員ハゲになってしまうんだよ」


「ちょ……ちょっと待ってください」花は慌てて口を挟んだ。「お言葉ですが、ゴッドヘアーは毛根が死んでいても、効果があると伺っておりましたが」


「うん。僕もそう聞いていたし、開発局のデータとレポートにもそう書いてあった。だけど先日、そのデータとレポートが、改ざんされていたことが判明したんだ」


「か……改ざん……?」


 そんな、まさか……。


「ゴッドヘアーは死んだ毛根を復活させていたのではなく、不活性状態で残っていた毛母細胞を活性化させて、強制的に発毛させていたんだ。そしてゴッドヘアーを塗布された毛根は三年でエネルギーを使い切ってしまい、不可逆的に死滅してしまうんだ。開発局はそのデータを改ざんして、無害な薬品ということにしていたんだよ」


「不可逆的って……」


 そんな……嘘でしょ……?


「そ……それはつまり、髪の毛が二度と生えてこないという意味でしょうか……?」


 花の質問に、課長はこくりとうなずいた。


 そのとたん、花はすべてを理解した。部長が夜逃げした理由も、課長が混乱して憔悴しょうすいし切っている理由も分かった。


「つまり、この三年でゴッドヘアーを使用されたお客様が、これからどんどん脱毛していく――ということですね?」


「うん。そういうことなんだ。そしてゴッドヘアーの販売数は既に四十億本を突破している。つまり、最大で四十億人のお客様がハゲになり、我が社に怒鳴り込みにくるはずだ。一般販売を開始したのは七月六日だったから、今日から三日後。ほぼ間違いなくその日から、全世界規模でお客様の髪が抜け始めるはずだ」


(そ……それは、非常にまずい……)


 花は唾を飲み込んだ。


 手のひらがじっとりと汗ばみ、鼓動が速くなっていくのがはっきりわかる。


 課長は『お客様が怒鳴り込みにくる』と表現したが、そんな生易しいことで済むはずがない。男女合わせて、世界中の四十億人がハゲになるのだ。そんな事態は前代未聞どころか、空前絶後の大不祥事だ。突如として髪の毛を奪われた人々の怒りと絶望がどれほどのものになるか、そんなことは想像に難くないなんてレベルではない。火を見るより明らかだ。


 三年前、ゴッドヘアーZZの登場に全世界の人々は熱狂した。現代社会に生きる人類にとって、髪の毛というのはそれほど大切なものなのだ。それがある日、いきなりすべて抜け落ちてハゲになってしまったら、この惑星は阿鼻叫喚あびきょうかんの渦に叩き込まれる。


 しかもそれがゴッドヘアーZZのせいだとわかったら、人々の怒りは激怒なんてレベルで収まるはずがない。怒りは殺意に変貌し、クルシマ製薬の本社および支社は暴徒と化したカスタマー集団に襲撃されるに決まっている。社員たちは間違いなく片っ端から袋叩きにされてしまい、逃げ遅れた従業員はすべて殴り殺されてしまうだろう。


「……まあ、そういうわけで、今日から部長以上の管理職が全社員に状況を説明して、早期退職を勧告することになっていたんだ。ところが、本社と支社のすべての部長が夜逃げしてしまったんだよ」


「す……すべて? じょ……冗談ですよね? すべての部長が夜逃げだなんて……」


 花の言葉に、課長は力なく首を横に振る。


「正確に言うと、部長以上の役職全員が逃げたんだ。専務も社長も会長も姿を消して、誰にも連絡が取れないんだよ」


(な……なんという逃げ足の速さ……)


 花は愕然と目を見張った。


 年間売上高五百億ドルを超える、世界でもトップクラスの巨大企業が、知らない間に沈没船と化していたことを知り、花の体は小刻みに震えていた。


「それでね、飽海さん。とても信じられないと思うけど、今現在、この本社ビルの最高責任者は僕ということになっているんだ」


「え? 課長が、ですか……?」


 男はダラリと背もたれに寄りかかって言葉を続ける。


「ゴッドヘアーの副作用が判明したとたん、管理職は全員、上から順に逃げていったんだ。会長と社長が真っ先に消えた。それから専務たちが部長たちにすべてを押しつけて行方をくらました。部長たちは課長たちにあとを任せて会社を去り、課長たちの八割は今日の午前中に逃げてしまった。残っているのは何も知らない一般社員たちばかり。今のところ、一般社員でこの事実を知っているのは飽海さんだけなんだ」


 そうか……。

 そういうことか……。


 ここは、砂の城だったのね……。


 クルシマ製薬の巨大な本社ビルが、砂で作られた城のように崩壊していく――。そんなイメージが花の頭に浮かび上がった。


 サラサラと、サラサラと――すべてが風に吹かれて消えていく。


 盤石だったはずの人生設計。金持ちと結婚すれば画竜点睛がりょうてんせい。残りの一生はイージーモード――。ほんの一時間前はそう思っていたのに、それがこうもあっさりと、一瞬で砕け散った。



「それでね、飽海さん。悪いんだけど、次の人を連れてきてくれないかな?」


「……え?」


「これから一般社員全員に事情を説明しようと思うんだけど、みんながみんな、飽海さんのように冷静でいられるとは思えないからね。飽海さんには、僕と一緒に説明する側に座ってほしいんだ。だから最初に話したんだ」


(なるほど。そういうことね……)


 課長の狙いがようやく分かった。


 彼は自分をサポートする人材が欲しかったのだ。たしかに、こんなとんでもない事態が起きていることを聞かされて、冷静でいられる人間は少ないと思う。気の弱い女性なら泣き出してしまうかもしれない。気の短い男性なら怒鳴り散らすかもしれない。課長一人では手に負えない状況になる可能性はじゅうぶんに考えられる。そういう場合に備えて、味方を用意しておきたかったのだ。


「……わかりました。それでは、とりあえずわたしの進退については後回しにして、次の人を呼んできます」


「そうしてもらえると助かるよ。ありがとう。本当にごめんね」


 いえ――と花は短くこたえ、会議室をあとにした。


(もう、ボーナスどころの話ではないわね……)


 花は休憩室に足を運び、自動販売機でペットボトルのお茶を二本買った。話が長くなりそうなので、課長と自分の水分補給のためだ。一人一本で済むとはとても思えないが、今はまとめ買いするような気分にはとてもなれない。


 ふと周りを見ると、昼休みが終わったばかりだというのに、休憩室には多くの社員が集まっていた。見張る上司がいないから仕事をサボっているのだろう。みんなのんきにおしゃべりして、楽しそうな笑い声を上げている。


 せいぜい今のうちに笑っておきなさい――。


 花はそっと息を漏らした。それから女性社員を一人連れて会議室に戻り、ドアをノックして中に入る。


「失礼します。課長。ただいま戻りました――えっ?」


 口を開いた一秒後、花の手からペットボトルが滑り落ちた。


 同時に花の両目が限界まで開いていく。真後ろに立つ若い女性社員が甲高い悲鳴を上げた。花はテーブルの上で小さく揺れている足を見て、それからもう一度上を見る。



 課長は天井から垂らしたロープで、首を吊って死んでいた。





本作をお読みいただき、まことにありがとうございます。



本作は2018年5月21日現在で既に完成しており、総文字数は約20万字となります。しかしながら、『小説家になろう』サイトに書き写し、最終的な推敲と同時にスタイルを調節する作業はまだ四割ほどしか進んでおりません。



そのため、最初の数話は数日おきの更新として、すべて書き写してから毎日更新を予定しております。これは作品の最終的なバランスを保つための作業になりますので、ご容赦いただけますよう、よろしくお願いいたします。(全50話ほどになる予定です)



また、本作には一般的ではない用語を随所に使用しておりますので、各話の後書きにて補足説明を入れる予定です。説明のない単語や用語、意味のわかりにくい描写、その他気になる点などがございましたら、お気軽にお問い合わせ、またはご指摘いただけますと幸いです。



・解語の花

 言葉のわかる花、つまり美人のこと。


・ニョッキ

 団子状のパスタの一種。もちっとしていて美味しい。


・レスポンス

 応答、反応。


画竜点睛がりょうてんせい

 最後の仕上げ。


・無聊を慰める(ぶりょうをなぐさめる)

 『無聊』→退屈なこと。気が晴れないこと。


・ゴッドヘアーZZ

 永久脱毛に使いたいです。


卑下ひげ

 自分を低く見て、へりくだること。


発露はつろ

 心の中が表に出ること。


・二進も三進も行かない(にっちもさっちもいかない)

 物事が行き詰まり、身動きのとれないこと。


・カスタマー

 お客様



本作品は社会小説を意識しております。社会問題、価値観の対立、貧富の格差、資本主義、民主社会主義、直接選挙、住民投票、個人の自由、個人の権利、そして暴力などについてを、主人公の目線を通じて描いております。



テーマは堅苦しいところがありますが、一風変わった特別行政区で、新たな人生をスタートさせる主人公の生活が中心になりますので、気軽にお読みいただけると幸いです。また、感想などをお寄せいただけますと、思わず小躍りしちゃうほど嬉しいです。



それでは最後になりますが、重ねて御礼申し上げます。


本作品をお読みいただき、まことにありがとうございました。


皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。



記 : 2018年 5月 21日(月) 松本 枝葉

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