第三話
「ひよ!」
いつも通りの朝に、いつも通りの声。しかし日和はなかなか目を開けられない。いつまで経っても起きる気配のない日和に、広大は仕方がないと息を吐いた。
「ひーよ! ほら、朝ごはん食べる時間なくなっちゃうよ。眠いんだろうけど頑張って起きて!」
無理やり布団を引っぺがして、広大は日和の起床をうながす。寝かせてあげたいが、もうすでに危ないラインなのだ。
「んー……おはよお」
「おはよう。ほら、日和。シャツだよ」
ベッド下にある収納スペースに下着が入っている事を知っているが、広大はさすがにそれを引っ張り出そうとはしない。せめてもと日和の手に制服のシャツを握らせれば、上半身を起こした状態の日和はもそもそとTシャツを脱ぎ始めた。
「だから俺が出るまで待って!」
慌てて日和の白い肌から視線を逸らし、広大が部屋を出る。しかしいつもより寝起きが悪い日和が気になり、広大は部屋の前に立っていた。
「…………日和?」
コンコン、と扉をノックするが、返事がない。広大は一応「入るよ」と外から声をかけて、日和の自室へと再度足を踏み入れる。
「…………」
案の定というべきか、ワイシャツを着てなんとかスカートも穿き終えたまでは良かったが、日和はそこで力尽きたらしく、足をベッドから投げ出した状態で上半身を横たえて眠ってしまっていた。
「日和―、ほら起きて」
声をかけながら、広大は躊躇わずに収納を開いて下着はなるべく視界に入れずに靴下を取り出すと、日和の足に履かせてやる。日和は「んん」と言葉にならない返事はするものの、なかなか覚醒には至らないようだ。
「ほら立って。鞄は?」
広大の言葉になんとか机にある鞄をつかみ、日和はあまり開かない瞳のまま広大に手を引かれて部屋を出る。「仕方ないなあ」と言いながらも広大の声はどこか弾んでいて、日和は寝ぼけた頭ながらもそれが不思議だった。
「ほら、準備したから座って」
どうやら初日を終えた日和の惨状を正しく予見していたらしい広大は、長嶺家からわざわざ日和の分の朝食を持ち込んで、倉石家の食卓へ置いてくれたらしい。日和はそれに感謝の言葉を述べつつ、手を合わせてもそもそとごはんを口に運び出した。その間、広大はブラシを使って日和の髪を整えている。
「髪型、よく似合ってるけど手入れが大変でしょう」
「んー……なんかはねる」
「この長さは癖がつきやすいみたいだからねえ」
どちからというと柔らかい雰囲気の広大は、良く女友だちのような扱いを女子生徒から受けるようで、女の子の会話にも時折混ざるらしい。ショートヘアは髪を洗ったり乾かす分には楽だが、朝の身支度がなかなか大変なのだと良くぼやいていた。広大はそんな言葉を口にしつつ、スタイリング剤らしきものを手にしては髪を整えている。一体どこからそれを持ち出したのかは謎だが、日和は感謝だけを伝えながら大人しくそれを受け入れていた。普段ならばここまで甘えはしないが、よほど疲れているのか、広大のなすがままになっている。
広大にほとんどの世話を焼いてもらい、しっかりとした口調でお礼を伝える頃には日和の意識もはっきりしてきた。何度も下げる彼女の頭を広大はゆっくりと撫でると「気にしないでいいよ」と微笑んだ。
日和はそんな彼の様子にどこか違和感を覚えながらも、深く考える事はしなかった。
「今日はいつにも増してべったりしてたなお前ら」
自身のクラスに着いたと思えば、苦虫を噛み潰したような顔をする友人が目の前に現れて、広大は疑問符を浮かべた。
日和と広大のクラスは分かれているが、広大が一組、日和が三組とさほど離れてはおらず、教室の前で挨拶をして分かれている。なのでふたりが並ぶ姿を朝から目撃する者は多いし、登校する様子は一組から三組の人間なら目にしたことのない人間はそう多くない。広大の友人である男もそれは同じで、幾度と二人が並ぶ姿を見ているし、今さらそれについてこんな風に指摘されるとは思っていなかった。
何も分かっていないような顔をする広大に、男はため息でもってそれに応えた。
「これで付き合ってないとか本当お前らさあ……」
「なんでそんな顔でそんな口調でそんなこと言われてるの俺」
「自分の胸に訊けよ」
ますます呆れた様子で話す友人に、広大はむう、と眉をしかめる。
「岡村だって幼馴染みくらい、いるだろ?」
「いるけど広大と倉石みたいに四六時中いっしょなわけじゃないし、そもそもそんな仲良くないし。大体がこんくらいの年齢になったら疎遠になるもんだろ」
「――まあ、それはそうかもしれないけど」
「……広大はさあ、倉石と将来的に他人になるつもりあんの?」
少し慎重な声で話す岡村を見ると、前々から疑問に思っていたけれど口には出来なかったことを今言葉にしたのだと分かった。広大はそんな彼の問いに、ただ首をかしげるばかりだ。
「別にずっと幼馴染みとして今みたいに過ごせばいいでしょ?」
「…………それぞれ結婚したらそうもいかねえんじゃねえの? わかんないけど。そもそも俺のねーちゃんもう社会人だけど毎日すげえ忙しそうで帰って来て死んでるぜ。会ったり話したりする時間は確実に減るだろうし、しかも実家暮らしじゃなくて家出たらそれこそますます疎遠になるんじゃね?」
「…………」
岡村の言葉は広大に少なくない衝撃を与えた。というよりも、そんな事すら今まで考えていなかった自分に愕然としたのだ。
広大は、どうしてか分からないが今のような時間が永遠に続くような気がしていた。広大が長嶺家に住み、日和が倉石家に住み、高校生になっても大学生になっても社会人になっても――なんなら老人になっても、二人は半永久的に並んで暮らせるような気がしていたのだ。
広大はそれを疑問にも感じず、その将来が別のそれに取って変わることを考えなかった。しかし思えば、日和はよく「早く大人になりたい」と言っていたし、彼女の環境を考えればあの空間に苦痛を感じているのは容易に想像できる。
家族という単位で暮らせるだけの空間があるのに、独り置かれている家。家ではなく単なる箱なのだと彼女は呟いていた。日和の性格ゆえか、他人に世話を焼かれるのもいまだにどこか戸惑う様子が見て取れる。
広大はそんな日和がどうしてずっと隣でのんびり暮らしているものと思っていたのか、もはや客観的に認識すれば理解に苦しむ。なんと愚かしいことだろう。
「恋人になって、結婚すればまあ、お前の願いも叶うんだろうけど」
岡村の言葉に、ずんと沈み込んだ表情を見せる広大の耳がぴくりと反応した。うつむいていた顔を上げると、岡村がじっと広大を見つめている。
「そもそもお前ってさ、好きなわけ?」
「――」
最後まで言葉にされずとも、彼の言いたいことはすぐに理解した。
広大は、まるで迷子のように情けない顔をしながら、ふるり、と首を振る。
「……わかんない」
岡村は目を丸くして、やがて眉根を寄せてうなった。次に何を言うべきかが分からないのだ。
――日和を、たった一人の女性として、愛おしいと感じているか否か。
とんでもなく簡単なような、難しいような問題の答えが、広大には出す事が出来ない。
つい先日、夕陽を浴びながら彼女と話していて感じた戸惑いをすっかり忘れたまま、広大は途方に暮れた。
しばらくすると、日和はすっかりアルバイト生活に馴染んだ。なかなか追いつかなかった体力も、やっとバランスが取れるようになってくる。おぼえてしまえば楽しいもので、たまに失敗してしまう事もあるが、同僚は優しく、日和のアルバイト生活は順調と言える。
しかし日和には、ひとつ気になることがあった。
生活サイクルが変わり、本格的に長嶺家と疎遠になり始めた。疲れてどうにもならなかった頃は広大にかいがいしく朝の世話を焼いてもらっていたが、それもなくなった。そして心配していた食生活は、今のところどうにかやれていた。というのも、正親の存在が大きい。
アルバイトを終えて帰宅すると、二十三時近い時間になる。正親にとってそれは心配であるらしく、本格的に同居をする方向で話が固まりつつある。そうなれば、正親の生活が日和の一部になる。自分ひとりならばいい加減に過ごすが、正親もいっしょに暮らすとなればそうはいかない。日和は、きちんと家事をして生活する習慣を身に着けようと一生懸命だ。そしてそれをきっかけに、お隣で朝食や夕食を摂る習慣ももう止めようと決めて、最近はすっかり長嶺家で世話になることがなくなった。
些細な変化であったはずのアルバイトをきっかけに、日和の日常は大幅に変わろうとしていた。そしてそんな変化を当然のように受け入れてくれるだろうと思っていた日和は、長嶺家の――正確には彼の態度に困惑している。
どうして不機嫌な顔ばかり見せるのだろう。日和は分からずに、戸惑うばかりだ。
「朝ごはんくらい食べに来ればいいじゃないか」
「作るようにならないと。正親もそっちでお世話になるわけにもいかないもん」
「……同居するのをやめたら」
「アルバイトの帰りとか心配なんだって。私も、いっしょに暮らすの嬉しいし」
「俺が迎えに行くって言ってるじゃん」
「そんなの広大に悪いよ」
「――もう、いい!」
何度も繰り返された会話にいつも通り返していたら、広大は今までにはない反応を示した。日和はそれに戸惑いながらも、去って行く背中に何を言えばいいのかわからない。
もう朝に日和を起こす必要もないし、何かと気にかけてくれる必要もない。そう伝えれば、広大は戸惑った様子で瞳を揺らした。何かいけない事を言ってしまったろうかと訊ねれば、今度は怒ってしまう。それでも、あんな風に怒鳴って去って行かれることはなかったのに。
迷惑をかける存在ではなくなりつつある自分を歓迎こそすれ、なぜ彼は怒るのだろう。日和にはその理由が分からなかった。
あの背中がなにを想うか、分からなかった。
「思ったよりも早く疎遠になりそうだな」
「岡村うるさい」
ぺしゃんこになった状態で机に突っ伏す男へ面白そうに声をかける岡村は、鬼かはたまた悪魔か。広大は残酷な友人をにらみつけ、しかし泣きたい気持ちはすぐに威勢を削いでいく。
なぜだろう。騒々しい朝の教室はいつも通りなのに、優しいのか怖いのかよくわからない友人はいつも通りなのに、広大と日和だけが「いつも通り」ではなくなってしまった。そもそもいつも通りなんてものは、日常なんてものは、ほんの少し何かが変化するだけで大きく形を変えてしまうものだが、広大にとってそれはあまりにも普通ではなかったし、自分の日常はあまりにも当たり前だった。そんな意識の外にしかなかった変化が、こうも身近にかつ簡単に訪れてしまった事実に、怒りたいのか泣きたいのか広大には分からない。
「俺のポジションあっさり取られたー!」
ぐううう、とこぶしを握り締めてうなる広大のつむじを、岡村は指でぐりぐりと押す。
「だからお前のその感情は何なんだよ。もっと脳みそ頑張れや」
まあまあ痛いことをされながら、広大はさらに妙な声を上げる。岡村は指の動きはそのままに、さらに声を上げる。
「そもそもがお前んとこのおばさん専業主婦なのにお前は一般高校生男子よりも家事スキル高いだろうが。その意味考えたことあんのか? 何のための、誰のための能力だよ」
「…………」
日和は細かい掃除が苦手だ。洗濯物だって、指摘してやっとしわを伸ばしてから干すようになった。料理なんて出来ないわけでもないのに自分のためにするのは面倒だと言うから、母がいない時でも最低限のものを食べられるように倉石家の台所にたまに立つようにした。だってそうしなければ、日和はどんどん干からびてしまう。まるで栄養を与えてもらえない植物のように、しおしおと枯れていってしまう。
広大は、日和の養分になりたかった。すくすくと育つように、いつでも笑っていられるように。日和の身も心も守れるものになりたかった。
「――岡村、いいかげん痛い」
さんざんつむじを痛めつけられて、指を払いながら広大は机から上半身を起こした。そんな彼に一瞬目を丸くした岡村は、次にはその表情をみてにやりと笑う。
「お前ほど尽くす男そうそういないんじゃない?」
「うるさいよ」
真っ赤な顔をした広大を見て、岡村は我慢できずにふきだした。
「お疲れさまでした」
いつものように交代する同僚へあいさつをしてから、お店を後にする。コンビニなので、ついつい帰りに何か買ってしまいがちだが、無駄遣いをしないようにと日和はいつも自分を戒めている。
駅からほど近い場所だけれど、まったく歩かないわけではない。正親に言われた通り、明るい場所を選びながら移動する。週末ということもありいつもより人通りが多く感じられる。日和は浮かれた様子の人々を横目で見ながら、疲れた足を動かしていた。
駅前はこれまた人が多く、もう二十二時を回ったというのに待ち合わせらしき人々も確認できる。大人というのはいつ眠るのだろうと疑問を浮かべながら、パスケースを取り出そうと制服のポケットを探った。
「ひよ」
下を向いた瞬間に肩をたたかれた感触が伝わって、日和は驚いて飛び上がりそうになる。声の方へ顔を向ければそこにいたのは正親だった。
「どうしたの?」
「週末に少しずつ荷物運ぶって話したろ。でもちまちますんの面倒だと思って実家から車借りてきたんだ。ついでにお前を迎えに行こうかと思ってさ」
正親の言う「実家」というのはもちろん彼の両親が住む家のことだが、彼と日和の父は少々複雑で、日和が祖父母を頼れないのもそれが理由であった。
日和の父と正親はそれぞれ母親を別にしており、正親は日和にとっての祖父が再婚した相手との間に生まれた子だ。日和の父の実母は既に亡くなっており父と義母はあまり良好な関係が築けなかった。はっきり嫌い合っているのならばまだ修正のしようもあるが、ひたすらに人間としての馬が合わず、お互い会えば気まずいようだ。正親にとっては実母であるが、苦笑しながら「無理に仲良しを演じるにはあまりにかわいそうだ」と言っていたのを日和はおぼえている。昔は日和が緩衝材になればと何度か席を設けたようだが、どこまでいっても「他人の子ども」という認識しか得られなかったようで、孫として可愛がるのは難しかったようである。祖父は日和を可愛いと思ってくれたそうだが、祖母の手前そういう態度も取りにくく、結局はゆるゆると疎遠になったようだ。
そんな状態なので、そもそも日和が祖父母の家に踏み込む機会はほとんどない。母方の両親は遠方に住んでいる上に母の兄と同居しているため、日和の面倒は見られないのが現状である。日和にとって、おじいちゃんおばあちゃんというのは馴染みがない存在だった。
正親と日和の父はいまだに仲が良く、うまくいっているように見えるのにとても不思議だが、きっと色々な巡り合わせがあるのだろうと日和はなんとなく思っている。
「じゃあ、車があるの?」
「ああ、あっちのコインパーキングに停めてる。どっかで飯食うか?」
「え、でも正親もう食べたんじゃないの?」
「いや、荷物を運ぶのに何回か往復してたらこんな時間になってたからな」
「そうなの? じゃあ家に帰って何か作ろうか?」
「いいよ、めんどくせえ。ファミレス行こうぜ」
決まりだ、と言っていつものように頭を撫でる正親に、日和は微笑んでうなずいた。
「ううー、食べすぎたかも」
うめき声を上げながら、満腹の状態で車を降りた。
日和の家にも昔は車があったが、両親が国内外を飛び回るようになってからは処分してしまった。車庫はずっと空っぽだったが、久しぶりに埋まっている状態が新鮮だ。可愛らしいコンパクトカーはきっと正親の母の趣味なのだろう。それを運転するのが正親というのはアンバランスで、日和は今さら車から降りる彼を見て笑いそうになった。正親はそんな姪に首をかしげるが、何とか笑いをこらえたので内心は気付かれずに済んで日和はほっとした。
「明日はアルバイトあるのか?」
キーを操作して車にロックをかけた正親の言葉に日和は「ないよ」と首を振る。
「ならどっか行くか?」
「荷物の整理した方がいいんじゃない?」
「めんどくせえ」
正親の嫌そうな顔に今度こそ笑いながら、日和は「私も手伝うから頑張ろう」と答える。正親はうんざりした表情をしながらも、特に反論するつもりはないようで、会話は途切れた。
倉石家の玄関扉に日和が鍵を差し込んでいると「ひよ」と静かな声で隣から名前を呼ばれる。開錠される音を確認して日和はレバーハンドルに手をかけながら正親へ視線をやった。
「家のことだけどな、あんま頑張るなよ」
「え?」
言われた意味を噛み砕くことが出来ずに動きを止めると、正親は日和の手をそっと外して玄関扉を開いた。少しきしんだ音を立てて玄関が姿をあらわし、日和は暗いその場所をぼんやりと眺める。
「お前といっしょに住みたいけど、お前の負担になりたいわけじゃない」
正親からやんわりと背中を押され、日和はやっと家へと足を踏み入れた。正親が素早く扉を施錠し靴を脱いで上がると、玄関は瞬く間に明るくなる。彼が電気のスイッチを押したのだ。
「ずっと身内にすら甘えられなかった日和がずっと戸惑いっ放しなのはわかるけどな。俺も家事は出来るし、無理やり作ろうとしなくてもお前の居場所はここだから何も心配しなくていい」
「――正親」
微笑んで差し出された手をそっと取る。日和はその温かさに驚きながらも、不思議な気持ちになる。
ずっと、誰かの負担にならないよう生きていこうと思っていた。これからもそうしようと、だから大人になりたいと考えていた。けれど正親はまるでそれとは真逆な事を言うではないか。そして日和は戸惑いながらも、その手を取ってしまった。
正親は、特に迷惑そうな顔をするでもなく、微笑んだ。
「適度に甘える事をおぼえなさい」
「…………むずかしい」
心底困ったような顔をする日和に、正親は複雑な顔でやはり微笑んでいた。