第二話
土曜日の正午に駅前で待ち合わせをした日和は、予定時刻の十五分前にはその場所にたたずんでいた。あまり時間前行動をするタイプではないが、誰かとの待ち合わせとなると日和はずいぶんと神経を使う。心配になり、早め早めに行動してしまいがちだった。
「日和」
駅からはきだされる人をちらちらと眺めていると、見知った顔が日和に向って手を上げている。日和もそれに応えるべく笑顔で手を振った。
「久しぶり」
「悪かったな、最近仕事が忙しくて」
「いいよ。ていうか、そんな頻繁に来なくたっていいんだよ」
「ばーか、可愛い姪に俺が会いたいだけなの」
苦笑を浮かべる年齢より大人っぽい表情に、正親はあえて子どもを相手するように振舞う。日和はそれを知っているのかいないのか、いつも少しくすぐったそうに受け入れていた。
「今日泊まっていく?」
「ああ、そのつもりで来た。まずなんか食おうぜ」
どこがいい? と訊ねる正親に、日和は駅ビルに入っているレストランが良いと答えた。どこでもいいと言うと正親はいつも悲しそうな顔をするので、日和はなるべく自分の希望を口にする努力をした。両親が忙しく、大人にかまってもらう事に慣れていない日和は、父親より十五歳も年下の叔父にどう接していいのか年々躊躇ってしまう。大人だが、父と呼ぶには若すぎて、兄と呼ぶには大人すぎるのだ。結局は、叔父という言葉にずいぶんと助けられている気がした。
洋食のレストランに入った正親と日和は、休日らしく混雑している店をなんとはなしに眺めながら、それぞれの近況を報告し合った。
「やっとひと段落してな。忙しい時期は抜けたから、もうちょっとちょくちょく顔出すわ」
「嬉しいけどさ、正親は彼女とかいないの?」
「あのなあ、子どもが変な事気にするなよ」
呆れたような物言いと共に頭を小突かれて、日和はダメージを受けた場所をさすりながら口を尖らせた。
「だって、正親の貴重な休日が私で潰れるのやだし」
「だったら一緒に住めばいいだろ。いつも言ってるけど」
「そんな事したら正親の婚期が遠のくじゃない!」
「失礼な奴だな、まだ焦る歳じゃないっつーの」
確かに正親は二十七歳で、むしろ父よりも日和のが歳の差はない。日和の両親は同い年であり、正親よりも一つ前の歳で日和を産んでいる。だからなのか、すでに子どもが存在した時分の両親よりも年上になってしまった正親が独り身でいると、妙に焦るのだ。
もしも正親に結婚を考える女性がいるのならば、日和の存在は邪魔でしかない。高校を卒業するまで一緒に暮らすとしても、日和にはまだ二年弱の時間が残っている。貴重な三十代手前の時間を棒に振ってもらいたくはなかった。
日和は我知らずため息を落としていた。そんな姪の様子を、正親は片眉を上げて見つめる。
「お待たせいたしました」
注文した品が到着したところで、少し気まずくなっていた空気は霧散した。日和はわざとらしく「美味しそう」と口にしながら、オムライスをつついて口へ放り込んだ。
「諦めろよ、日和。俺はお前を小さいころから面倒見てきた分、可愛くて仕方ないんだから」
「正親……」
忙しい両親に変わり、幼少の頃はほとんど正親がオムツを変え、ミルクをくれたと言う。日和がもっとも両親と過ごした時間が長いと感じる期間は恐らく保育園から小学校低学年までの五年程度だ。それからは長嶺家が何かと気にかけてはくれているものの、精神面で頼りにしているのはいつもこの叔父だった。
「わかった。いつでも遊びに来てください!」
「よし、それでいい」
温かい手で頭を撫でられると、日和の心にちいさな光が灯った。
「晩ごはん何か食べたいものある?」
「お前作れんの?」
「失礼な。最近はだいぶ上達したよ」
二年に進級してから一か月ほど経過したが、正親には二か月ほど会えない日々が続いていた。月に二回は訪れていたのでそれだけ会わなかったのは初めてで、日和も思った以上に寂しかったのだと並んで歩くと痛感する。
スーパーで食材を眺めながら、春休みにみっちり名都さんに仕込まれたのだと力説する日和に、正親は微笑んだ。
「お世話になってるお隣さんか。なんかなあ、ほんと、俺がいるのにな」
「私をほったらかしにして海外にいる親が悪いんであって、正親は悪くないよ」
「そりゃそうだな」
冗談めかして言っているので、正親も本気で日和がそう考えているわけではないと知っている。両親は、たまにしか会えないながらも日和に愛情を示してくれる存在だったし、だからこそ日和はなかなか両親への甘え方がわからない。自分でも正親にずいぶんと依存していると感じてしまうけれど、彼の包み込むような愛情についつい誘われてしまう。
「まあ俺がそっち住んでもいいんだけどな」
正親のかつてない言葉に、レタスを手に取った日和は目を丸くする。
「でも仕事通うの大変にならない?」
「そうでもねえよ。引っ越さないとなってずっと思ってはいたんだよな。就職してからずっとあそこだし」
「ああそっか、駅前じゃなくてバスだもんね、正親のアパート」
「そ。だから日和の家のがむしろ楽になるんじゃねえかな」
正親の言葉に、日和はなるほどと頷いた。
日和が正親の家に転がり込むのはかなり抵抗があるが、逆ならば家賃を払わずに済む分、正親にメリットが生じる。それにたまの休日を日和に会いに行くなどという言葉で恋人との逢瀬を断ろうものなら、その恋は長く続かないだろう。その点、家でデートはしにくいけれど、日和が目の届く範囲にいるならば休日を日和のために潰さずに済む。部屋は余っているのだから、何の問題もない。
「もしそうなったら――嬉しいかもしれない」
日和の言葉に、正親は笑って姪の頭を乱暴に撫でた。
「可愛くねえな。そこは「とっても嬉しい」くらい言いなさい」
正親の笑顔交じりの手は温かく、日和は久しぶりに声を上げて笑った。
「それにしても、ずいぶんと思い切ったなあ」
「ん?」
「髪」
正親の言葉に「ああ」と日和は短くうなずいた。
金曜日、学校を終えてからその足で美容院に足を運んだ日和は、伸ばしっぱなしにしていた髪をばっさりと切った。買い物袋をぶら下げる正親の視線は、シャツと切った髪の間から覗くうなじに向いている。顎と同じラインで切りそろえてもらったので、ショートボブと言われるような髪型だ。
「会って早々言うんじゃなくて今なんだね」
笑って日和が言えば、正親は少し気まずげに視線を逸らした。
「あんまり短いもんだから、失恋でもしたのかと」
「そんなに古風じゃないよ、私」
「発想がおっさんで悪かったな」
家路を誰かと歩くというのは幸せなことだ。日和はそれを噛みしめながら、夕日に照らされた正親の顔を眺める。「どうした?」と正親が優しく微笑むと、日和はそれだけで泣きたくなった。
「日和!」
家の前に差し掛かったところで、日和は名前を呼ばれた。
声のする方へ顔を向ければ、少し慌てた様子の広大が長嶺家から出てくる。日和はそれに首をかしげながら「どうしたの?」と広大へ声をかけた。
「どうしたの、その髪!」
「え? 切ったんだけど」
夕べは美容院に行ったあとそのまま外でご飯を済ませてしまったので、広大とは会っていない。土曜である今日も朝から出かけていたので、短い髪を揺らす日和と顔を合わせるのは今が初めてだ。とはいえ、そんなに驚かれるとは思っていなくて、日和はその勢いに少々戸惑う。
「ひよ、先に入ってるか?」
「あ、ごめん」
正親が門に手をかけながら日和に声をかける。彼は合鍵を持っているので、日和が居なくとも倉石家を出入りできる。うなずいた日和に向って、正親は手を伸ばした。
「そっちの荷物も寄越しな、入れとくから」
「重ね重ねごめん」
お願いします、と声をかけて日和が持っている買い物袋を正親に託すと、正親はぽん、と頭を軽くたたいてから日和を残して倉石家へと入った。
「……あの人、最近来てないと思ったけど」
「忙しい時期が過ぎたんだって。また月に二回くらいは顔を出してくれるみたい」
日和の言葉にどうしてか広大は顔をゆがめながら「そう」と小さく呟いた。
「あの人って、本当の本当に日和の叔父さんなんだよね」
「? そうだよ」
「……従兄とかじゃないよね」
「そうだってば。どうしたの? 広大」
質問の意図がわからずに首をかしげると、そんな日和にどこか苛立った様子で広大は前髪をくしゃりとつぶした。
「日和は……」
何かぼそりと呟いた言葉は、日和の耳には届かなかった。じっと無表情に見つめる彼女のまっすぐな瞳を、広大はなかなか見返す事ができない。
うつむいたまま、広大は言葉をつづけた。
「髪、どうして切ったの?」
「バイトするのに邪魔かなって」
「……どうしてバイトするの?」
「うーん、自立したいから? かな」
「…………自立って何から?」
「色んなことから」
戸惑う広大とは違い、よどみなく答える日和の言葉に、広大は何を考えているのか瞳を揺らしながら顔を上げた。今にも泣き出しそうな姿に、日和は動揺からか肩を揺らす。
真っ赤で、まるで燃えているような瞳なのに、弱弱しい様子はどこか矛盾していると日和は思う。しかしややして、燃えているように見えるのは夕日のせいなのだと気が付いた。
「あの人にはいつも素直に甘えてるね」
「まあ、親戚だからねえ」
「俺は? 俺じゃ頼りにならない?」
「いやあ、そんなことないけど。広大は幼馴染みだけど他人だしさ」
「……幼馴染みっていう肩書きだけじゃ、足りないってこと?」
広大が発する言葉の意味が良くわからずに、日和は眉根を寄せて「広大?」と疑問を口にする。しかしそんな日和を前にして、広大はともすれば彼女よりも巨大な疑問符を浮かべているような顔を見せた。
「え? あの、こうだ」
「――ごめん、なんでもない!」
思わず伸ばされた日和の手を、広大は後ろに下がってよけた。そうして次には踵を返し、さっさと家へ引っ込んでしまった。
素早い動作についていけず、呆然と固まっていた日和は、腑に落ちないながらもそれ以上はどうする事もできずに、結局は首をかしげたまま日和もまた家へと引っ込んだ。
リビングの扉を開くと、正親がぼんやりとテレビを眺めていた。食材はすべて冷蔵庫にしまってくれたらしく、日和はそれに礼を告げて冷蔵庫を開いた。
「ごめん、すぐにしたくする」
「いやいいけど。大丈夫だったか?」
冷蔵庫内を眺める日和の背中に、ダイニングテーブルから正親が声をかける。日和はそれに「何が?」と返しながら、いくつかの食材を取り出していく。
お昼は洋食だったので、夜は和食がいいという正親の言葉の通り、日和は定番の肉じゃがを作ろうと決めていた。あとは味噌汁と、副菜を一品作ろうと脳内でまだ少ないレパートリーへ頭を巡らせる。
「まあ、俺は手助けなんかしてやんねーけどな」
「ん?」
正親の言葉に首をかしげるも、彼は笑うばかりで、結局は日和の疑問に答えてくれなかった。
月曜の朝にそのまま会社へと出勤した正親を見送り、日和は食べ終えた朝食を片付けてから家を出た。正親が泊まりに来る日はいつも長嶺家へ行かないので、彼らもそれは心得ている。
今日はアルバイトの初日だ。日和は少し緊張しながら、駅で電車を待った。
初日を終えて、日和はフラフラになりながら家路へと着いた。
お金を稼ぐという事が大変だとは知っていたはずだが、実際にやらなければ分からないことはたくさんある。日和はやるべき事の多さにめまいがしながらも、何とか初日を終えた。
働くのは週四日間。平日の十七時から二十二時まで。たまに休日は長い時間帯で働く。体力がもつかはわからないが、日和はとにかく頑張ってみようと決めた。
しかし終わって帰って来ると何もする気が起きずに、日和はさっさとお風呂に入って寝てしまおうと決める。晩ごはんを作る気にはとうていなれなずに、結局は名都の言葉通りになってしまった。
日和は心の中で少しの罪悪感を抱きながらも、慣れたらきっともう少しなんとかなる、と自分に言い聞かせながらさっさと風呂へと向かった。