表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第一話

 ()(より)には、時折見る夢がある。

 どこまでも続く高原のような場所で少し離れた場所に両親の姿が見える。ピクニックにでも来ているのか、両親は原っぱにシートを広げて並んで座りお弁当らしきものを広げている。日和は夢の中では決まって幼い姿をしており、日和の名を優しい声で呼ぶ両親は、まっすぐに日和を見て手を振っている。そんな父と母に手を振り返して、日和は彼らのもとへ駆けて行く。しかしどうした事だろう。いつまで経っても、どんなに走っても、両親の居る場所までたどり着けない。そのうち日和は目に涙を浮かべながら、それでも懸命に足を動かしている。何度も「お父さん」「お母さん」と叫んで手を伸ばしても、両親は笑顔を浮かべて日和を眺めてばかりで、あちらから近寄ってはくれない。そのうち足を動かすのも馬鹿馬鹿しくなり、日和は立ち止まる。

 すると景色は暗転し、周囲には高原も両親もなくなって、暗がりにスポットライトを浴びた幼い子どもが立っている。先ほどまで泣いていた顔は見る間に大人になり、表情をなくしていく。

 ――そこには冷めた瞳を帯びた十六歳の日和が立っていた。


「ひよ!」

「…………」

 日和が眠っているベッドに乗り上げるようにして顔を近づける男を、日和はぼんやりとした顔で眺めた。何度か呼びかけられていたようで、少し呆れた顔をした男に起き抜けの声で「おはよう」と呟きつつ、日和は青い無地の敷布団をめくって体を起こした。

 女子高生が暮らす部屋にしてはいささか地味な内装は、全体的に青色で統一されており、カーテンもベッドも青ないし水色の無地で飾られている。勉強机は黒いデスクに白い回転チェアーと、チェスト部分はワゴンになっており動かせる仕様で、どちらかというと男性が好んで使うようなデザインになっている。

 全体を通して眺めてみても、日和の部屋はどこか無機質でどちからといえば男子高校生が生活しているような内装になっていた。

 日和はもぞもぞと立ち上がって焦げ茶のクローゼットを開くと、パジャマ代わりに着ているTシャツをめくりあげた。

「こらこらこら! 俺が出て行ったか確認してから着替えろ!」

「あ、ごめん」

「年頃の娘なんだからもっと慎みを持ちなさいっ!」

「お父さん……」

「せめてお兄ちゃんにして――はあ。朝ごはん出来てるから、着替えたらおいで」

「ありがとう、(こう)(だい)

 苦笑して手をひらひらと振った男――広大は、無言で部屋を出て行った。日和はいつもの光景に安心を覚えて、ほっと息を吐く。

 日和は、この無駄に広い一軒家にたった独りで住んでいた。正確には、両親は長期休暇には帰ってくるので完全なる独り暮らしとは言えないものの、ほぼ似たようなものだった。

 日和が小学生の高学年になる頃から彼女の両親は多忙を極めており、国内外問わず出張ばかりだった。そんな日和の面倒を買って出てくれたのがお隣に住む(なが)(みね)一家だ。

 非常にお節介な一家で、最近では珍しい色んな事に首を突っ込んでは損するタイプの温かい家庭だった。日和の両親は最初のうちは遠慮していたものの、家政婦を雇っても何かと心配が尽きない一人娘の面倒を、いつしか任せる事に慣れてしまった。休暇の折には両親そろって一家総出でお礼を伝えてあいさつを交わし、しかし金銭の類はなかなか受け取って貰えないとぼやいていたのを日和はよく憶えている。

 損得勘定なしに日和のような他人を受け入れてくれる長嶺家が、日和にとってどれほどの救いになっているかを、両親は知っているのだろうか。すっかり大人ともいえる年齢に差し掛かってしまい、寂しいとも言い出せない日和の気持ちは、誰にも拾われる事はないのだろうと諦めていたのだ。それでも、日和が本当の意味で気持ちを埋める事はない。両親でなければ救われないものが存在する事を、日和は知っているからだ。

 あるいは新しい家族を得ればそれも払拭されようが、人生の伴侶を得るには日和はまだまだ若い。いつしか日和は、早く大人になりたいという気持ちが募っていった。


 玄関の鍵を閉めて、隣の家へチャイムも鳴らさず当然のように日和は扉を開けて入っていく。「おはよう」と声を上げながらリビングの扉を開くと、ダイニングテーブルにて朝食を摂っている広大とその両親があいさつを返してくれる。日和はキッチンに足を運ぶとさっさと自分のコップを手にして冷蔵庫から牛乳を取り出して注いだ。コップを持ちながら広大の隣に座り、いただきますと手を合わせながら声を上げた。

「お父さん、そろそろ行かないと遅刻よ」

「お、もうそんな時間か」

 少し慌てた様子でブラックコーヒーを飲み干した広大の父は、行ってくる! と半ば叫ぶようにして鞄をつかんだ。広大と日和はそろって行ってらっしゃいと言いながらトーストを齧る。広大の母だけが父と同じく立ち上がり、玄関先まで見送った。

「俺らもあんまゆっくりしてると乗り遅れるね」

「うん」

 広大と日和は同い年であり、幼馴染みだ。小さいころから何かとこちらに預けられる事が多かったので、仲良くならない方が難しいような環境であったし、広大はとにかく面倒見の良い性格をしていた。それは日和に限った事ではなく、クラスの問題児を手懐けたり何かと係を引き受けては忙しそうにしている。そんな彼が、日和にはいつもまぶしく感じられた。


 日和と広大の通う高校は、二人が住んでいる住宅街から徒歩五分である最寄り駅から三駅ほど離れた場所にある。遠くもないが格別に近いというわけでもない印象で、駅からはおよそ歩いて十分程度だ。何人かの人間に声をかけられ言葉を交わして、二人は通学路を歩く。並んで歩く姿は当然ながら特別な関係だと勘繰られる事も少なくはない。日和も広大も都度否定はしているものの、誤解されて困るような相手もいないからかそこまで強く関係性を改める声は大きくしなかった。必死に否定する方が怪しく感じられるからか、近しい友人で二人の間を誤解している者はおらず、むしろ遠巻きに眺める集団はすっかり二人をカップルのように考えているようだ。

「広大は、恋人いないの?」

「どうしたの急に」

 歩きながら何でもないような口調で訊ねられた言葉は意外であったようで、日和へと顔を向けながら広大は目を丸くした。日和はといえば、無表情でぼんやり前を見つめながら足を動かしている。

「浮いた話があったら面白いなって」

「えー。日和こそどうなの? 男子の間じゃけっこうモテるでしょ」

「いやあ……てんでだめですよ」

「何それ」

 言いようがおかしかったのか、くすくすと広大が肩を揺らす。日和はその笑顔に瞳を細めながら思った。

 ――どうか煩わしさを覚えたとき、彼がすぐに自分を切り捨ててくれますように。


 日和には、生活力があまりない。

 本人は無自覚な部分があるが、日和は基本的に自分を大事にすることが得意ではなかった。三食たべずともなんとかなると思っているし、制服があるから私服は数着あれば困らないと思っているし、自分自身を飾り立てる費用はもったいないと思っている。日和が完全に独りで生活するとなると、最低限清潔に保たれた場所は好むので掃除の類はするだろう。洗濯も、こまめにではなくともきっと出来る。しかし細かい所に目が行き届かないので、部屋の隅から汚れていくし、水回りも少しずつ汚れていくし、食事はコンビニか冷たい豆腐かレンジで温めた豆腐かのどれかになる。日和は別段かまわなかった。しかし長嶺家の人間がそれを良しとはせず、特に広大は日和を大事にしたがった。

 日和は、今でも彼の存在が信じられない。実の両親にすらぞんざいに扱われてきた日和を、赤の他人が大切にしてくれる現状が、いつ夢から覚めるのかがわからない。だから常に、心に保険をかけたくなるのだ。

 いつか離れなくてはいけない。だからこそ、徐々に広大から距離を取らなくてはいけない。だというのに、広大はなかなかそれを了承してくれず、日和は最近弱り果てていた。てっきり年頃になったならば、可愛らしい彼女を連れて歩くと思っていたのだから。


「いっそ(くら)(いし)に彼氏ができる方が早いんじゃないの?」

「……そうかな」

 ぼんやりとした表情のまま頬杖をついていた日和は、クラスメイトの言葉に視線を動かした。日和の前に座る女子生徒は少し考えながら、首をかしげる。

「学校内だと邪魔されるかもしれないし――アルバイトを始めてみるとか」

「アルバイト……」

 考えてもみなかった言葉に、日和は少し心を弾ませた。

 日々を無気力に過ごしてきた日和にとって、世界を広げるという発想はなかった。日和の両親は娘にお金を渡す事に躊躇いがないようで、日和の手元には毎月過分ともいえる小遣いが入ってくる。何よりも使い道がないので、貯金ばかりが膨らむ一方だった。

 しかし広大を遠ざける理由としては上等かもしれない。何よりも働いてお金を稼ぐという行為は大人になる第一歩だろう。悪くはない話だ。

 長い髪をひと房つまんで、日和はじっと自身の黒髪を見つめる。

「髪、切ろうかな」

 働くのならばきっと邪魔になるだろう。日和の内心は、すっかりその気になっていた。


『アルバイト?』

「そうなの。それで、保護者の同意書っていうのが必要で」

『ああそうか、なるほど。じゃあ週末にでも行くわ』

「ごめんね(まさ)(ちか)

『いいよ。どうせ近いうち行こうと思ってたんだから』

 電話口の声はからからと笑っていて、日和はそれだけでほっと息を吐いた。誰かに迷惑をかけるという事が日和にはとても怖い。だからこそ、長嶺家で当たり前のように世話になっている自分を受け入れるのにはずいぶんと時間がかかった。

「日和―!」

 玄関からの呼びかけに短く返事をして、日和は「それじゃあ土曜日待ってるね」と電話を切った。

「母さんがさっきデザートあるって言うの忘れてたんだって」

 倉石家のリビングへと顔を出した広大に、日和は微笑んだ。

「ありがとう、でももうお腹いっぱいだから、私の分はみんなが食べて」

「って言うだろうと思ったから持ってきた。コーヒー淹れてよ」

 広大がにやりと笑いながら掲げたそれは、日和たちの生活圏内でいちばん大きい駅にあるケーキ屋の箱だった。日和はやられたと思いながらも、広大の日和を理解した上に成り立っている優しさが嬉しかった。

「座って待っていて」

 日和の言葉を受けて、広大がリビングに鎮座している大きいソファへと腰かける。ガラステーブルに置かれたリモコンを持ち上げてテレビを付ければ、画面から賑やかな声が響いた。

 豆を挽きながら、日和はまず広大に話しておくべきか、それとも長嶺の両親へと話すべきかと考える。

 当然ながら、アルバイトを始めれば今までのように過ごしていた時間は失われる。単純に晩ごはんを食べるのは日和独りになるであろうし、休日もきっとそのようになるだろう。朝食は今まで通り世話になるだろうが、夜の時間が色々と変わってくる。そもそも毎日世話になっている現状が異常であったのだ。食費だけは必要経費として両親から受け取っているらしいが、それだってきっと少ないだろうと日和は思っていた。

 これを機に完全に独り立ちではないけれど、長嶺家から距離を取るのがいいかもしれない、と日和は考える。

「――ねえ、広大」

「んー?」

 お湯を注ぎながら、日和はドリップされるコーヒーから目を逸らさずに口を開いた。

「私ね、アルバイトを始めようと思うの」

「え?」

 黒い液体がたっぷりと入ったマグカップをリビングテーブルに置くと、テレビを消した広大はソファから立ち上がり皿を並べる日和の隣へと腰かけた。

「広大はケーキどっちがいい?」

 箱の中を覗くと、苺とブルーベリーがのったチーズケーキと、ザッハトルテがあった。日和の言葉にどこか呆然としながらも、広大は無言で日和にザッハトルテを差し出した。日和の数少ない好きなものは、コーヒーとチョコレート。広大はそれを良く知っている。日和は礼を言ってそれを受け取った。

「アルバイトって?」

 てっきり聞かなかった事にでもするのかと思ったが、広大の言葉にきっと色々と頭を巡らせていたのだろうと考える。日和はケーキの美味しさに瞳を細めながら「そのままの意味だよ」と答えた。

「来週から働くの」

「……どこで?」

「コンビニ」

 広大は呆けた顔のまま「そうなんだ」と呟いた。多少は驚かれるとも思っていたが、広大が何故そんな反応を示すのか、日和には良くわからない。首をかしげていると、広大はケーキを一口放り込んだ。

「じゃあ、仕事帰りとか迎えに行くよ」

「大丈夫だよ、そんな遅くまで働かないから」

「行くよ」

「――」

「行くから」

 微笑む広大の有無を言わせぬ迫力に、それ以上の会話は無駄だと日和は息を吐くだけに留めた。


 ケーキを食べ終えてお礼を言いがてらアルバイトの報告をした日和に、長嶺家はおおよそ広大と同じような反応を示した。遅くなるならば広大を使えという言葉に苦笑を浮かべながらも、やはり日和はそれを否定はしない。

「それでね、朝はいつも通りお世話になるけど、夜はもういいから」

「日和ちゃん、そうは言うけどまともなものをきちんと食べるの?」

 広大の母が疑わしい、という目を向ける。日和はそれに微笑んで頷いた。

「大丈夫、()()さんが料理は教えてくれたもん」

「でも、アルバイトは毎日じゃないんでしょ? お休みの日は食べにいらっしゃいな」

「予定が急に変わった時とか悪いし、本当にいいから」

 日和のかつてない強い口調に、とうとう名都はため息交じりにうなずいた。無理だと思ったらすぐに頼るのよ、という言葉を言い添えて。

 日和はそれにやはり微笑んで見せたけれど、首を縦に振る事はしなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ