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夕陽が一日の仕事を終える間際、美海は、自分の身長よりも長い影を連れて、家路に着く。すると、ひきこもりの弟である野村美空が、玄関前に凭れかかって立っていた。自ら外に出ることもあるのかと思いながら、美海が「ただいま」と挨拶すると、「あいつ、何なん?」と話しかけられ、一時静止。
「昼間、勝手に家に入って来たで。しかも歩き回るしうるさいし。勝手に入んな言うといて」
昨日はあんなに黙っていた弟が、普通に話しかけてきたので、驚いて、美海の頭は言葉の内容を理解し忘れた。
「なぁ、聞いてんの?」
「あ、ごめん。関西弁だなぁと思って」
「は?」
美空の生まれは美尼島だが、大阪に越して十年以上その地で育った。だから、その土地の訛りになるのはごく自然。けれど昨日、ろくに会話をしなかったため、そんな当たり前のことに気付けなかった。
「関西弁喋る人、島で喋る人おらんし、生で見るの初めてだから、なんか新鮮。テレビの新喜劇とかバラエティ番組くらいでしか聞けないし」
本当は関西弁だけでなく、どもることなくはっきり喋る姿に動揺したのだが、それは美海の小さな胸の中に秘めておく。
「そりゃ喋るわ。どこに住んでる思ってんねん。けど、みんながみんな、オモロイ事言うと思ったら、大間違いやで」
「え?」
「この前、テレビでナンパできないイタリア人がナンパに挑戦っちゅう企画やってたの、見てへん?秋田美人とか、ブスも絶対おるって。お前も美尼に住んでるからって、歌が上手いわけちゃうやろ?」
美尼島は民謡が盛んで、三味線を奏でながら歌う老若男女が多い。最近は、美尼島出身のアーティストとしてテレビで活躍する人も多く、美空のいうとおり、美海は自慢できるほど歌が上手いわけではないので、彼の言いたいことがよく分かる。けれど「勝手に決めらんでくれん?」と、言い返した。
「なら、歌って」
「…え?」
「下手やないんやったら、一曲くらい歌えるやろ」
「な、何で歌わんばいかんわけ」
「ふーん、下手くそ」
昨日の寡黙な美空とは違い、口から出る言葉は美海を挑発する。か弱い人間なのだと同情した自分が阿保らしく思え、美海はその挑発に、ちゃんと聴きなさいよと前置きして、乗った。
島の住民なら誰もが知る『行きゅんにゃ加那』という民謡をチョイスし、アカペラで歌う。
この曲だけは自信がある。遠くへ行く愛しい人を想い歌う内容には自然と気持ちを乗せて歌え、祖母にも上手いねと褒められた実績がある。酔っ払った父に、歌えとリクエストされたこともある。
今回も、側にいない母を想って丁寧に歌い上げた。しかし、だ。
「何言うてるか、分からへん」
歌詞の内容なんて方言なのだから、島に住んでいる子供でさえ、直訳することは難しく、簡単に、別れの歌だと説明したが「ふ〜ん」と流され「知ってる曲で歌って」と、美海は催促された。
「え、なんで…?」
「知らへん曲歌われても、上手いのか下手なのか分からへんやんか。俺の知っとる曲やないと。そうだ、犬のおまわり歌うてみぃ」
嫌だ嫌だと美海は拒絶したが、あまりにもしつこいので一番だけ歌うと「かわいそうな犬やな」と美空は同情した。
「ちょっと、どーゆうこと!」
問い詰めようとしたが「中におるおっさん、もしかして親父?」と訊かれ、心当たりのない美海は「え?」と訊き返した。
自分以外、家に誰もいないのが当たり前。
美空が家の中へ入るので、後をついて玄関に入ると、普段ならないはずの古びた黒いクロックスのサンダルが散らかってあった。
「珍しい。お父さん、いる」
いつも父親のサンダルがない方が一般的におかしいとはいえ、美海にとってそのサンダルのない光景が日常であり普通なので、妙な感じを受けた。
玄関を上がり、そのまま茶の間の入り口で佇む美空のところへ向かう。茶の間を見れば、座卓の上には黒糖焼酎の瓶とガラスのコップ。その横で座布団を二つ折りにして枕の代わりに使って、いびきをかいて寝ている父親がいた。美空が祖母の部屋から出てきたのは、自発的というより、家の中の居心地が悪かったからなのかもしれないと美海は察し、大きな声で「昼から何飲んでるわけ!」と起こす。しかし、父親は唸るだけで起きようとしないので、美海は近寄り「みーくんに挨拶したわけ?」と、体を叩いたり揺すったりして、ようやく「みーくん…?」と反応を示す。
「あんたの子供よ!いるでしょ、もう一人!もう挨拶したの?」
「おったかい…?」
「ちょっと、嘘でしょ。信じられん!今いるから起きて。挨拶して!」
その様子を美空は、何も言わず、黙って見ていた。
美海は、父親のだるそうな体を、胡座でも何でもいいからとにかく座らせ「ほら、挨拶!」と、美空を指さして挨拶を促す。しかしこの父親は「うん?何すればいいわけ?」と眠たそうな目を擦り、美空を見つめたかと思うと、目を泳がせ、再び瞼を閉じようとする。よほど酔っているのかと頭にきた美海は「あ、い、さ、つ!大阪から来たんど」と怒鳴った。あぁ、挨拶ねと美海の父親は正座に座り直し「いらっしゃいませ!」と頭を下げた。
美空にとっては、久しぶりの父親との再会。それなのにこの父親は、土下座した形で、そのまま眠りに入ってしまった。
「ちょっと、寝るとかありえん」
呆れる美海に「そのまま寝かせときぃや」と、美空は言う。
「べつに、親父に会いに来たわけちゃうし」
その言葉が本音なのか、無表情の美空からは読み取れない。美空は今、どんな気持ちでいるのかと、正確な感情を探るには難しいが、気の利いた言葉をかけてあげたいと思った。しかし、言葉は見つからない。そして、窺っているのがばれたのか、美空は「気にせんといて」と、無表情のまま呟いた。
「存在消されるの、慣れてる」
「みーくん!」
呼び止めても、美空は無視して茶の間から姿を消した。美海は父親から離れて後を追うが、縁側にはもう、姿はない。トイレにも風呂にも自分の部屋も探した美海は、サンダルを履いて外へ出る。
「みーくん!」
美空は存在を消されることに慣れていると言った。推測しかできないが、それは、学校でそのような扱いを受けているという意味なのだろう。
話をきちんと聞きたいと思った美海は、近所を捜索する。けれど、どこを探しても見当たらない。
夕闇を照らす他所の家の窓からカレーの匂いが漂ってくる。そして「お母さん、またカレー?」と文句を言う子供に「今日は唐揚げも揚げたがね」と、あやす母親の声。その光景が目に浮かび、羨ましいのか悔しいのか、美海は泣きそうになる。ぐっとこらえて目から落ちる前に涙を手で拭き、まだ探していない公園や海沿いを探してみるが、結局は見つからず、時間と体力を消耗した。
夕闇の空、星が鮮明に光り、バスの停留付近は、リュウキュウコノハヅクのという名の小型のフクロウが、夜の始まりを住民に鳴いて伝えていた。
歩き疲れた美海は、その停留所の長椅子に横たわる。購入した当時は鮮やかな青だったに違いないが、雨や風に晒されて薄くなり、年季が入っている。けれど頑丈で、役場の人が設置したのか、それともバス会社の人が設置したのか美海には分からなかったが、いい買い物をしたもんだ、と両手を合わせて枕の代わりに頭に添えた。この集落の停まるバスの数は少なく、午後八時を過ぎると一本もない。誰にも迷惑はかけないだろうと目を瞑り、美空を想う。
美空は大阪で、何一つ不自由なく、優雅に暮らしていると思っていた。そう決めつけていた。美海とは違い、島に残されることなく母親と共に島から出ていった美空を、羨ましく思っていた。どうして美空を自分より幸せなのだと決めつけていたのだろう、父親が一緒だというのに。家族のことで、全く悩んでいないわけがないのに。
「ごめんね、みーくん」
美空をもっと知りたいと思った。もっと知らなければいけないと感じた。
そのまま眠ろうとした矢先。
「おい、美海!」
急に大きな声をかけられ、飛び起きる。
「お前、こんな所で何寝てるわけ!」
「悟…」
そんな大声で怒鳴らなくてもと言い返したかったが、悟の後ろに聖司や明里、その他にも制服姿の知らない男女が数名いたので、人見知りが発動し、口籠ってしまった。そして悟の「こんなに暗いのに一人で寝て」と美海を心配して叱る声より、その後ろにいる明里の「浮浪者かと思ったね」と嘲笑う声がストレートに聞き取れたため、早くこの場から消えたいと立ち上がる。ビーチサンダルに中学校指定の短パンを穿き、Tシャツ姿。どうして自分はこんな姿で外に出てしまったのかと後悔し、羞恥心が湧く。制服さえもオシャレに着こなす明里に、私服を見られたく無かったという思いから、何も言わずにその場を去った。
「おい、美海!」
後ろから、悟がついてくるのが分かる。そして「悟、メシは?」と聖司の声がして「また今度」と、返事をしているのが逃げながら聞こえた。美海は捕まってたまるかと猛ダッシュをしたが、サンダルでは本領発揮できず、体力自慢の悟にあっさりと腕を掴まれ、逃走を阻止された。
「何があったわけ、あんな所で寝て」
「別に。疲れとったからちょっと寝ただけ」
「家があるがな」
「…うん。帰るから離して」
「いや、理由言えっちょ。言わんば帰さん」
月も立派に輝き美しく島を照らしている。けれど、美海は俯いたまま黙り込んだ。カエルや野鳥が山の近くの川から聞こえ、賑やかではあるが、悟が真面目な顔で一言も喋らずに話すのを待つので、気まずい。その沈黙に耐えられず「…いいわけ?」と美海が尋ねた。
「何が」
「…ごはん。聖司たちと食べに行く途中だったんでしょ」
「また今度行くし」
「…今からでも、間に合うんじゃない?」
「いいっちば。はぐらかすな」
はぐらすつもりではなく、心配して言ったのにと、ふくれっ面になった美海の頬を悟は軽くつねり、観念した美海は、その手を払いのけて「話すから抓るな」先ほどの経緯を語った。
事情を把握した悟は、あとは俺が探すからと言ったが「美空の姿、分かる?」と訊くと固まったので「やっぱり、私一人で探すが」と、断った。
「馬鹿言うな。もう暗いがな。変なのに絡まれたらどうするわけ」
「その変な人、今、うちで寝てるから大丈夫」
嫌味口調になってしまったが、悟は不快に思うことなく、むしろ変な気を遣って「誰もお前の父ちゃんのこと言っとらん」とフォローする。けれど、近所の人に美海の父が酒好きで女好きということは知れ渡っているし、通りすがりのちびっ子達が度胸試しに酔っ払いの住む家にどこまで足を踏み入れられるかチャレンジしている現場に、悟も遭遇したことがある。
悟は声を明るくして「とりあえず、探す当てもないから一旦家に戻らん?もしかしたら帰ってるかもしれらんしや」と提案した。美海は悟の言葉に乗り、一度照家に戻ると決めた。
家に戻っても、美空の姿はどこにもなく、酔っ払いが大の字で茶の間を占領し、爆睡しているだけだった。
「美海の父ちゃん、久しぶり。ちょっとだらしないんじゃない?」
悟が陽気に起こして会話を試みるが、父親の呂律は回っておらず、成り立たない。
久しぶりに見た父親の姿を、美海は情けなく思う。美海でさえ思うのだ。何年も会っていなかった美空は、もっと残念に思っているだろうと、美海は心から不憫に思った。
美空はどこへ行ってしまったのだろう?
美空、美空、美空と、個々の中で名前を唱えながら心配していると、茶の間に、黒電話ではない、ケータイ独特の音が鳴った。
「悟、鳴ってる」
「いや、俺じゃない」
既に確認した悟が自分のスマホを見せ、鳴っていないと証明する。そうなると一人しかいないので、父親の周辺を探した結果、酔っ払いのズボンから鳴っていると突き止め、悟がポケットに手を突っ込む。取り出したのは二つ折りのガラケーで、開くと画面には知らない番号が映し出されている。いつまでも鳴り止まないので、悟は持ち主に許可を得ず、電話に出た。もしもし?と明るい声で反応を伺うが、いつまでたっても声がしない。心配する美海が「どうしたわけ?」と窺う。悟はケータイに耳を当てながら「無言電話っちゅうか…イタズラ電話?」と、相手にも聞こえて構わない音量で返事をした。
「貸して」
もしかすると、父がタダ呑みしている酒屋かもしれないと思った美海は、挨拶しなければと悟からケータイを受け取る。
「もしもし、娘の美海です」
耳をすまし、しばらく様子をみる。しかし、雑音が聞こえるだけで、返事はない。茶の間の照明が一瞬消え、美海は上を見る。そういえばライトを代えたのはいつだったかなと考えていると、雑音と一緒に『美海』と、声がした。相手もこちらを窺うその声に、行方を眩まして探していた相手と重なり「みーくん、あんた、どこにいるわけ」と叫んだ。電波の届きにくい場所にいるのか、美空の声は聞き取りづらい。それでも「その呼び方すんなや。猫みたいで嫌」と、はっきりと聞き取れ、父親のあの態度に、そこまで気持ちが沈んでないように思えた。
「じゃぁ美空、どこにいるわけ?迷子になっとらん?」
「大丈夫やから」
「大丈夫っち、何が?」
「探さんでええから」
「えっ?」
淡々と、俺の居場所はそこだけちゃうしと告げられ、電話が切れた。繋がっていた何かが同時に切れた気がして、美海はそのまま固まった。そんな美海を心配して悟が声を掛けたが、美海はその後を、あまりよく覚えていない。
どうして美空を、自分と同じ境遇に立たされていると思ったのだろう。美海はその夜寝付けず、半分しか血の繋がらない弟について考えた。
半分繋がりはあるが、もう半分は違う。
美空の母親は島の出身で、母親側の親戚の家もこの島にあるのだと思い出し、見離された気持ちになった。




