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翌日、美海が学校から帰宅すると、悟が玄関に座ってスマホを弄っていた。
美海の家は年季の入った平家の木造で、玄関の段差は縁側と同じ高さになっている。小さい頃は上るのに一苦労し、それを見兼ねた親戚のおじさんが、板を釘で打っただけの簡単な木箱を置いてくれたので、それを補助に階段に見立てて上っていた。それが今では必要なく、体格のいい悟も、座るにはちょうどいい高さに思えた。
「何勝手に入ってきてるわけ」
「お前こそ。昨日、何勝手に帰ったわけ」
美海は、昨日と言われ、そういえば悟に何も言わずに帰ったんだと思い出す。けれど。
「ちゃんと西さんに帰るって言ったけど」
「西?ああ、明里か。あいつ何も言わんかったけど」
明里が悟に何も伝えなかった動向に、そこまで驚きはしなかった。それよりも美海が少し気になるのは、悟の名前の呼び方。すっかり下の名前で呼び慣れている。悟はいつから明里のことを苗字から下の名前で呼ぶようになったのだろう、今まで下の名前で呼んでいたのは自分だけだったのに、と思う。高校でよほど仲良くしているに違いなかった。
「美海、どうした?」
「え、ううん。それだけ?」
平常心、平常心。美海は唱えながら、悟が誰と仲良くなろうと、自分には関係ないのだと言い聞かせた。自分とこれ以上仲良くなると、悟が不幸になってしまう、と。
「それだけ…っちば?」
「だから、用事。昨日のことだったら謝る。ごめん」
悟は「いや、べつに謝らんでいいけど」と立ち上がる。外の快晴と違い玄関は、曇天のような、そのうち雨がふるのではと人を不安に感じさせる空気が流れたので、悟は「いい加減、スマホ買ってもらえば?連絡取れんから不便なんば」と、話題を変え、明るい声で言った。
悟の手にはCMで見たことのあるスマホがあった。欲しいと何度も思ったし、今も思ってはいる。けれど。
「…無理な話、せんでくれん?」
美海は固い表情のまま、ため息をついた。
「なんで?スマホ持ってない高校生っち、お前くらいじゃない?」
「そんなこと言ったっち…。お父さん、働いとらんのに…」
曇天が、一変して豪雪地帯になり、悟だけが氷漬けになる。美海の言葉にさすがの悟も、返す言葉を失った。
一応、美海の父親は友達のツテで、ごくたまに、バイトをしているらしかった。しかし、それはあくまで自分の交遊費を稼いでいるのであって、家のためではなかった。美海も親戚も、近所の人も、美海の父親がまともに働くことなんてないのだろうと思っている。
固まった空気の中、悟が探して見つけた言葉は「そういえば、最近、お前の父ちゃん見らんや、元気?」という、社交的挨拶文句。美海は暗い顔のまま「多分」と返した。
「多分?」
「夜はいないし。街まで酒飲みに行ってるから、滅多に会わん」
「え、じゃあ、ずっと一人な?」
「いや。昨日からみーくんが泊まってる」
みーくん、と聞いて悟は美海の弟の存在を思い出し、高いテンションで「どんな奴な?」と食い付く。てっきり家に上がっていたので顔を合わせたと思っていた美海は「会っとらんの?」と訊き返す。
「お前の部屋には、おらんかったけど」
「だから、勝手に入んなっちょ。っちゅうか、みーくんは、ばぁちゃんが使っとった部屋を使ってるから、そこにいるはずよ」
「マジな?人の気配無かったけど」
ばぁちゃんの部屋に、いない?
昨日、夕ご飯の準備ができたので襖越しに声を掛けたが、返事がなく、今朝も部屋から出ずにひきこもっていたはずと、美海は不思議に思ったが「じゃぁ…その辺、散歩してるかもしれん」と推測。悟もそれに納得し「で、どんな感じ?」と美空について訊いてきた。
「どんなって…まぁ、ちょっと暗そう」
「暗そうっち…みーくんが?」
「大阪でひきこもってるっち言ったがね」
「いや、昨日聞いたけど…。俺、小っさい頃のみーくんしか知らんし。昔は一緒によく遊んだし、暗くなかったがな。ケンカも何回かしたし…」
十年も経てばある程度、人は変わる。けれど、二人がケンカした記憶のない美海は「あんたとみーくん、ケンカしたことあるわけ?」と訊いた。
昔は、美海も美空も悟もどんぐりの背比べで、照家の柱に鉛筆で線を引き、誰が一番大きいかと、暇になればその度に競った。それが今では測るまでもなく、一番大きいのは悟だ。今の悟は褐色肌で筋肉質。身長も百八十センチ近くある。一方の美空はといえば、女装をしても違和感なく街を歩けるほど華奢で肌は色白く、身長も百五十六センチの美海より少し高い程度。仮に今、悟と美空がケンカをしたら、悟の圧勝に違いない。そんな二人が昔、どんなケンカをしたのか、美海は興味を持ったので、再び同じ質問をしたが、悟ははっきりと答えない。
「そりゃ…まぁ」
「ねぇ、どんなケンカ?原因、何?」
美海の大きな瞳が悟を映す。その熱い視線に顔が火照った悟は、逃れるように「何だったかい?」と、頭を掻きながら顔を逸らした。
美海は「覚えとらんわけ?」と、顔を覗いて逃さない。美海のその一言に、そういえば昨日、美海に散々記憶力がないと冷やかしたなと状況を理解した悟は「あ、思い出した!」と、声を張り上げた。そして美海に「原因、お前!」と、島では通称パチケと呼ばれるデコピンをする。
「痛い!あんたのパチケ、シャレにならんのだけどっ!」
おでこを抑えて叫ぶ美海に、悟は「これでも手加減したんど」と、いたずらに笑う。
「もうっ、さっさ出てけっ!」
怒った美海は悟を追い出そうと背中を押したが、全く歯が立たない。
「今日は遊べるだろ?」
「遊ばん!」
「何で。聖司が今日でテスト終わりっち、呟いとったど」
スマホをチラつかせる悟を見て、他校の情報も悟には容易く手に入るのだと、スマホを持たない美海には、悔しくも羨ましくも思った。
「みーくんと一緒に、うち来る?」
「いや、今日は睦美姉に、髪切ってもらうから」
「髪?」
嘘ではない。
睦美姉とは、昔からの知り合いで、年齢は十歳も離れているが友達であり、母親のような、美海にとっては唯一気心の知れた存在だ。今は家族と一緒に街で暮らしているが、昔はこの集落で睦美の祖父母と暮らしており、頻繁に遊べていたのだが、街に家を建てたといって、しばらく疎遠になっていた。けれど五年ほど前に、この集落から車で十分ほどの病院で看護師として勤務するようになってから、度々祖父母の家を訪れるようになったので、美海も定期的に会っている。
「今、何時?」
美海は悟に時間を訊けば、悟はスマホを見て二時過ぎと教える。
「やばっ、二時半に待ち合わせ」
美海は慌ててローファーを脱ぎ散らかして自室へ走る。その後ろ姿に、悟は「美海、切りすぎんなよ!」と声を投げた。
「俺、長いのが好き!」
「アンタの好みとか知らんっ」
「じゃーやー」
悟が帰り、美海は着替えながら、ふと考える。
じゃあ、なんて、いつまで続くのだろう。
夏休みが終われば、体育祭などの学校行事でお互い忙しくなり、また、自然と会わなくなると、予測する。そうなるように仕向けている節が美海にはあるが、内心は曇天が占め、深いため息を吐いた。
中学校指定の短パンにTシャツを着て、ビーチサンダルで睦美のいる家に向かう。
音で紬を織っているなと分かる隣の家の前を通り、車に轢かれて立体を失ったカニの死骸を避けて、歩くこと七分、コンクリートブロックに囲われた平家の敷地に到着。水字貝が飾られている玄関の引き戸は開け放たれており、そこから「こんにちは」と奥まで聞こえるように挨拶をする。しかし返事はない。睦美の祖父は、年々耳が遠くなって可哀想だと睦美から聞いており、玄関から勝手に入るわけにもいかず、縁側に回る。そこには畳の居間で扇風機のそよ風を受けながら昼寝をしている睦美の祖父がいた。すると襖から「美海、今来たの?」と、風呂上がりの睦美が、タオルで髪を拭きながら現れた。
「ごはん食べた?」
「ううん、まだ」
「なら、台所の勝手口、開いてるから来て。食べ終わったら髪切るから」
言われたとおりに台所の勝手口へ行くと、貝がたくさん入ったバケツから、潮の香りが漂っていた。
「睦美姉、海行ったの?」
「まさか。ばーちゃんよ。さっき帰って来たんば、また拾いに行くっち言って、誘われたけど、こっちは早番で疲れてるからね。行ききらん。ばーちゃんの元気、分けてもらいたいくらい」
「看護師っち、やっぱ大変?」
睦美は少し考えて「慣れたらそうでもないかな」と、お昼の準備をしながら答えた。準備といっても冷蔵庫の中にあるおかずを電子レンジで温め、ごはんと味噌汁を二人分用意しただけ。
「切り干し大根、食べれる?」
「私、何でも食べる」
「いかにも田舎のばーちゃん家の食卓って感じよね。っち、私作ってないのに文句言ったらダメよや」
「じーちゃんは?食べないの?」
「じーちゃんは十二時に食べたっち。規則正しい生活してるから」
睦美は、コップに麦茶を注ぐよう指示すると、美海はコップの場所を尋ねることなく二人分用意し、テーブルの上に置いた。ゴーヤチャンプルもヒジキも魚の煮物も、美海の家では滅多に食べられない。たまに親戚のおばさんがおかずを持ってやってくるが、手軽な菓子パンや弁当の見切り品を食べるのが多かった。
「美味しいね」
美海がそう言うと「そう?」と、スマホを弄りながら睦美は素っ気なく答えた。
「ねぇ、髪の長さどうする?バッサリ切っちゃう?」
スマホの画面を突き出されたので見ると、肩くらいまでの長さの女の子が美海に微笑んでいる。明るくて、可愛い。こんな感じの女の子になりたいと思ったが、悟の言葉が脳裏に過る。
「…ううん、やっぱ、長さはそんなに変えたくないかな」
「そお?」
「うん」
「そういえばさ、昨日、悟とどこ行ったわけ。デート?」
「えっ!?」
睦美に見透かされたと感じた美海は、今までに出したことのない声で驚き、その声に「驚かんでもいいがね」と睦美までも驚いてしまった。
「ごめん。でも、デートとか、そんなんじゃないから」
「別に隠さんでも…」
「違うっちば!」
赤くなる美海の顔を、睦美は微笑ましく思った。




