25
聖司から悟が無事に意識を取り戻したとメールが来たのは、悟の見舞いへ行った翌日の正午過ぎ。メールの着信音で起きた美海は、眠気眼でそのメールを読んで、目が覚めた。
祈りが通じた!
美海はそのままガラケーを大切に握りしめ、よく知りもしない神様にしばらく感謝をすると、ゆっくり目を開け「…行かなきゃ」と覚悟を決める。
カーテンをし忘れた窓から入る日差しは、いつもと同じなはずなのに、もう見納めなのかと思うと愛しく思う。その光が当たる床に近寄り、手を差し伸べる。手の甲に当たる光。手の平は床からの熱を感じる。その手で網戸を開けて「手の平を太陽に、透かしてみれば」と、歌いながら同じ動作をする。
「真っ赤に流れる、ぼくの血潮」
ミミズだって、オケラだって、アメンボだって。みんなみんな生きているんだ、友達なんだ。
美空が聞いていたら、きっと音痴と罵るに違いなかった。その場に寝転び、そこまで酷くはないはずだと、島唄の『行きゅんにゃ加那』を口ずさむ。
行きゅんにゃ加那
吾きゃ事忘れて行きゅんにゃ加那
打っ発ちゃ打っ発ちゃが、行き苦しや
ソラ行き苦しや
愛しい人が島から離れて行ってしまうという内容で、詳しくは知らない。けれど、島の住民なら誰もが知る歌。
美海はずっと、自分は島から離れる人を、自分から離れてしまう人を、ただただ見送る側の人間だと思っていた。大学へ進学するまでは、島を去る側の人間になれるとは思ってもみなかった。隣の家から聞こえだした紬を織る音も、もう聞けなくなるのだと思うと、切なくなる。
「悟くらいは、息苦しく思ってくれるかい…?」
思わず口に出た言葉で我に返り、両頬を手で叩いて立ち上がる。
「死に支度せんば!」
机の引き出しの裏に貼り付けている茶封筒を取り出し、中身を確認する。福沢諭吉四人、樋口一葉一人、野口英世四人。もしもに備えての四万九千円。
美海はこの世に別れを告げる前に、我慢していたことを楽しもうと、それら全部を財布に入れ、制服に着替えた。
夏休みに入ったため、学校へ行くバスの定期は期限が切れていた。いつも大きなお金はおばさんが管理をしていて、学費などの費用もおばさんが手続きをしてくれている。新学期が始まる前にバス代を貰わなければと思っていたが、それはもう、今となってはどうでもいいことだった。
バスに乗って四十分ほどで市内の大きな商店街に着く。大きいといってもシャッターで閉まっている店が多く、寂しさがある。けれど、美海の集落と比べたら本屋はあるし、服屋も雑貨屋もある。試着したり、甘いアイスを買って食べ歩いたり。お昼は定食屋に入って千二百円もするカツ丼を頼んだ。大学受験前に縁起を担いで食べようと我慢していたが、その必要はなくなった。もう、値段もカロリーも気にしなくていい。そう思うと思いきり食べることができたのだが、あまりの勢いに近くで食べていた鳶職と思われるお兄さんやサラリーマンのおじさんに驚かれたので、さすがに食べ方は気にしなければと、今更とは思いつつ、気を取り直して上品に食べ直した。
定食屋を出て街ブラを続行していると、クラスのあまり喋ったことのない女子達と遭遇した。カラオケに誘われたが、美空の「かわいそうな犬やな」という言葉が頭を過り、用事があるからと断った。クラスメイトたちと別れた後、しばらくして「どうせ死ぬんだから、恥をかいたってよかったんじゃ?」と気付き、帰りのバスで勿体無いことしたかなと、橙に光る空を見ながら思った。
乗客のいないバスを降りると「何処行ってん?」と、バス停で表情の無い美空が待ち構えていた。いつも無表情だが口調にトゲがあるのでバスに戻りたい気持ちになったが、バスは美海の気持ちなど汲まずに次の停留所へと向かう。
「何処行ってんって、訊いてんねん」
「街。アイス食べてきた」
「はっ?わざわざ?街で?」
ここでも食えるやろと、前髪で隠れた目が鋭くなる美空に「ソフトクリームだし、ミックスの」と付け加える。
「アイスもソフトも変わらへん!何しに行ってん!」
「カツ丼も食べた!」
「食べてばっかりやないか!」
「べつにいいがね!もう、死ぬんだし!」
死ぬ。
その言葉は美空の次の言葉を殺して沈黙になった。
二人の間を風が走り、落ち葉が舞う。その落ち葉は、遠く、遠く、山へと消える。
「そんな簡単に死ぬとか言って…。分かって言うてんねんな?」
「…分かってるよ」
「分かってへん!ゲームとちゃう。二度と戻られへんねんで!」
「分かってるっちば!説教せんで!」
すると、後ろからクラクションの音。振り返ると、黒の軽自動車に乗った睦美がいた。運転席には美海の知らない若い男の人が乗っていたので、睦美の彼氏だとすぐに分かる。
「どうしたの?叫んでたみたいだけど」
状況を把握していない睦美は美海を見て尋ねる。美海は美空を見たが、美空は知らん顔して車に背を向け、その場から少し距離を置いた。挨拶をする気はないらしい。説教をするなと言った手前、幼い頃にお世話になった睦美姉に挨拶しろとは言い難く、睦美に「ううん、何でもない」と返事をする。
「ただの兄弟喧嘩」
「えっ?」
「アレ、美空。弟」
「どこ?」
「あの突っ立ってるヤツ。人見知りっちゅうか、大阪で引きこもってたから、あんま人と関わるの苦手っちょ、ごめんね」
「え、ううん」
二人の会話に、なんだか居辛くなった美空は、振り返ることなく、何も言わずに美海の家へと歩き出す。
「あっ、美空!ごめん睦美姉、私、後追うね」
運転席の彼氏に軽く会釈して美空の後を追い、集落の細い路地へ曲がる美空に駆け寄った。
「挨拶くらいせんと、感じ悪いよ」
結局注意してしまったが、美空は反応せずに歩き続ける。
なんて生意気な弟なんだろう。
夕陽が水色と黒のグラデーションの空から姿を消して、まだらに浮かぶ雲が焼けている。辺りは山の陰でより一層薄暗い。もし影がくっきりと伸びて踏めそうな距離にあれば、思い切り踏みにじるのにと、美海は不貞腐れた。すると「おいブス」と美空が振り返り、心臓が跳ねる。
「ホンマに死ぬんか」
美海は、自分の心を読み取られたわけと安心する一方で、美空の機嫌の悪さにどう対応しようかと悩む。けれど一つ、確かめたいことがあった。
「もしかして、私がいなくて心配した?」
「は?死ね!」
「言われんでも、明日そうするし」
再び気まずい空気が流れようとしたが、ライトを付けたママチャリが美海の後ろからベルを鳴らし、遮った。乗っているのは近所のおばさん。知り合いから魚をお裾分けしてもらったのか、生臭い匂いと共に、二人の横を通り過ぎて行く。その際に、横目で見られているなと美海は視線を感じたが、視線を合わさず俯き続けた。
「知り合いちゃうの。挨拶せな、感じ悪いんちゃうん?」
美空が訊くので、顔くらいは知っている仲だと答える。
「酔っ払いの娘だから、時々変な目で見られるわけ。慣れてるけど」
そんな窮屈な世界も、明日で終わる。そう思うと、美海の心は軽くなる。明日で終わり、明日で自由。死を目前しているとは思えないほど、美海の心は晴れやかだった。けれど「見られる分、ええんちゃう?」と、人と関わるのが嫌で、引きこもり生活をしていた人の発言とは思えない美空の一言に、水を差さされる。
「誰にも気にされへんのも、そこそこ死にたなるで」
そういえば美空は、周りに馴染めなかったと言っていたと思い出すした美海は「大阪の暮らしは、合わんかった?」と尋ねた。
「んー、どうやろ…」
美空は、はっきりと自分を語ろうとはしない。そのため美海は、どこまで踏み込んでいいのか分からなかった。けれど、もう死んでしまえばこのムカつくけれど悪いヤツではない弟を、更に知ることはできない。それは何となく嫌で「教えてよ」と伝える。
「死に土産に、教えて。誰にも言わんし」
「前も言うたやん。親、再婚したって」
「それは聞いたけど、そういうのじゃなくて。何て言うか、こういうことがあって嬉しかったとか、悲しかったとか、ムカついたとか、あるがね?そういうの、教えてよ」
「…そんなん、言われても。困る」
「何で」
「何でって…言われても…」
「誕生日とか、クリスマスとか。お母さんなら、色々してくれたんじゃない?」
母親に育てられた記憶のない美海は、美空を本当に羨ましいと思っていた。毎日温かい料理を食べることができて、暖かい布団で並んで寝て。朝は目覚まし時計ではなく、朝ごはんを作るお母さんに怒鳴られて起きる。そんな普通の、幸せな生活が聞けるのだと思っていた。
それなのに美空の口から出た言葉は「我慢せぇ、言われた」と、地面に重たく落ちるような声だった。
「誕生日も、クリスマスも、正月もない。授業参観は一度も来たことない。家庭訪問も、すぐ忘れる。クラス替えで友達できへんくても、いじめられてるわけちゃうねんから、我慢せぇ言われた」
小学校の話やけどな、と付け加えて、美空は鼻で笑った。
「我慢、したの…?」
「しゃーないやん。泣くし、喚くし。俺が一つ辛いこと言うたら、お母んは十、辛いんやって、張り合ってくる。もう、そんなん疲れた。生まへんかったら自由やったのにって、酔っ払って帰ってきたこともある」
「酔っ払って…?」
「呑み屋で働いてた時期あってん。だから小遣いは良かったで。好きなもん買って食えてたし、余った金は貯金できて。島に行くチケットも買えたし。知らへんおじさんが家ん中を出入りすんのはきつかったけど」
ああ、美空も独りぼっちだったのか。
話の途中でそう思うと、美海の目から涙が溢れ出す。
「何で泣くねん!」
美空は自分の話を中断し「ハンカチ持ってへんて言うたで、昨日」と、泣きやむように促した。
辛かったはずなのに、我慢して我慢して我慢して。美空はそうして感情が鈍くなって、だから周りと溶け込めないのではと、美海の方が辛くなった。
自分を想って泣く美海の姿に、同情なんかいらないと最初こそ不快に思った美空だが、それが同情ではなく共感なのだと雰囲気で伝わると、その涙に心が洗われた。とはいえ、一向に泣きやむ様子のない美海に困り果てた美空は、悩んだ末、ため息混じりに「飛ぼうか」と提案する。
「もし本当に死ぬつもりあるんやったら、一緒に崖から落ちたるで」
美空から提案してきたので、それもいいかもしれないと思った。




