24
空にはまだ、赤い月が浮かんでいた。波音が流れる海沿は、月の明かり以外、道を照らす街灯も、通る車のライトもない。そんな不気味な夜道を、美海は一人、脳内で何度も再生される明里の「帰れ!」という罵声を聞きながら、歩き続けた。
自分にはやはり居場所がないのだと、肌が震える。美海は悲しいのか悔しいのか、涙をこらえ、泣かないように下唇を噛み、声が漏れないように努めた。悟がピンチの時くらい、側にいたっていいじゃないかと思ったが、側にいたからといって、悟のために何かができるわけでは無かった。
今の自分にできること。何か一つでもいいからできることはないかと、滲んだ世界を拭いながら、ゆっくり進む。すると不思議なことに、段々と視野が狭くなり、足取りもぐらつく。徐々に眩暈に襲われた美海は、立ち止まっても地面が波打って動いているような気がして、その場に座り込んで目を覆い、しばらくじっと、地面が止まるのを待った。
目を閉じた暗闇。暗闇のまま緑色が混ざったり赤色が乱入したりと、色がランダムにマーブル模様で姿を変え、しばらくして、視界は黒と白の縦のストライプに落ち着いた。そして、それが葬式によく使われる布だと思った瞬間に、美海はその布に引き寄せられる。するとそこでは葬式が行われていた。小さな、小さなお葬式。教室ほどの部屋に並べられた椅子には、知らない大人たちが暗い表情をしていた。誰の葬式か分からなかったが、椅子は空席が目立つ。隅から観察していた美海は、親族側に立っている大人たちの、遺影を持って泣く女の隣に、見覚えのある男を見つけた。
「お父さんっ!」
声を上げ、目を開く。
すると式場は消え、赤い月の下にいた。見回しても、揺れが止まった道路、道路沿いの蘇鉄、赤く照らされた海のさざ波。本来あるべき風景であり、父親の姿はどこにも無かった。
夢でも見たのだろうか。それともあれは、未来か。
美海は、父親がきちんとした正装でお葬式に出たのは、祖母の葬式しか覚えがなかった。それ以外は誰の葬式であろうと、私服姿で香典だけ受付に渡してその場を去る人だった。けれど先ほど見た幻覚は誰かの葬式で、父親は親族側に立っていた。その隣に立っていた女性は、美海のしらない人。
「お母…さん…?」
一つの仮説が美海の脳裏を過ぎった。あの葬式は、自分の葬式だったのでは。だとすれば、きちんと身なりを整えた父親の姿にも納得できたし、隣に知らない女性がいても納得ができた。
自分はこれから、死ぬ…?
赤い月を見上げても、答えてはくれない。流れ星が一つ、二つと流れるだけ。
どうしてあんな幻覚を見たのだろうと思い返して、気づいた。
「悟のために、できること…私が、代わりに死ぬこと…?」
きっとそうだと立ち上がり、家には帰らずう雨加茂神社を目指した。
雨加茂神社は、美海の住んでいる集落の山奥にある。一度山頂まで登り、そこから別の山道を下り、その途中に、ひっそりと存在していた。時間はかかったが、山頂まではきちんと舗装された道で容易く登れた。しかし、問題はここからだった。夜になると、雨加茂神社の道のりは、幽霊が見えるという噂があった。普段、見えない人が言うのだから、自分は確実に見えてしまうだろうと覚悟を決めるため、美海は深く、深く、深呼吸をする。
「…何してん?」
急に声を掛けられたので、悲鳴をあげて振り返ると、迷惑そうな表情の弟が立っていた。
「大きな声、出すなや」
「だって。なんでいるわけ」
「何でって、家におらへんし。外に出たら見かけたから。ついて来た」
言葉こそ足りないが、どうやら美海を心配して探し、後をつけて来たらしい。
「お前こそ、こんな夜中に山登って、何してんの?」
「さ、悟が…」
「え、ゴリが…?」
「死ぬかもしれん」
我慢していた涙をしゃくり上げながら、悟が溺れて今も意識がないので、悟が目を覚ますよう、神様にお願いをしに行くのだと説明した。
「泣くな、泣くな。泣いてもしゃーないで」
「うん…っ」
「行くって決めたんやろ?行くで」
「え?」
美空は来た道とは別の、雨加茂神社へと続く山道の前まで歩み「はよ」と急かす。しかし、渋る美海に「ここまで来て、行かへんの」と訊く。
「たしか、男女で行ったらダメよ」
「何で?」
「何でっち…」
すぐにその理由を思い出せず、ただ、悟と一緒に行ってはダメだと強く思った記憶があった。
「あっ、思い出した。恋人とか好きな人と行ったら、別れてダメになるっち噂」
「アホか!恋人ちゃう、兄弟や!先行くで」
「待って」
先を進む美空の後を、美海は慌てて追いかけた。
島に来た最初の頃は、喋らず、目も合わせてくれなかった美空。今もきちんと顔を合わせて話すわけではないが、赤い月夜の山道を先に歩く後姿は勇ましく見えた。後ろから鳥か獣か分からない雄叫びが聞こえても、頭上枝の上で何かが跳ねている気配を感じても、草を分けて近づいてくるような葉の擦れる音が聞こえても、気にせず美空の背中を追い、木漏れる赤い光を頼りに、木の根に躓かないよう気をつけて山を下る。
「ねぇ、アンタ道分かってるわけ?」
「神社やろ?散歩で何回か来た」
美尼島は観光地だが、車が無ければマングローブや紬の泥染め体験や展示会場などへは簡単に行けず、暇を持て余した美空は山を散策していたのかと、そこで初めて知った。
付かず離れずの一定の距離。少し美海が遅れそうになると、美空は振り返って立ち止まる。それを何度か繰り返して、目的地の雨加茂神社に着いた。晴れた日中に訪れても草が生い茂り、石段も苔が生えて薄気味悪いと評判のその場所は、赤い月に照らされて異様な雰囲気が漂っていた。鳥居をくぐるのも躊躇う美海に「行ってこいや」と美空は声援を送る。
「アンタは入らんの?」
「俺は…見張っとく」
「何を?」
「…ハブとか?」
結局怖いんだなと内心呆れたが、今までの美空の性格を考えると「何で俺も行かなあかんねん」と突き放されてもおかしくないのに、自らここまで付き合ってくれたのだから、これ以上は頼れないと思い改めた。
美海は「ハブ捕まえたら三千円になるから捕まえてね」と告げると、美空は「三千円とか、割に合わへんやろ」と毒を吐く。三千円でも貰えるものなら有難いと思っていたが、一般的には割が合わないのかと、お金の話で財布を持っていないことに気づく。
「美空、お金持ってる?」
「え?」
「五円」
「持ってへん」
「十円でも百円でもいいけど…」
「サイフ持って来てへん」
「どうしよう」
「代わりのもん置いとけ」
「代わり?」
「パンツとか」
「アホ!」
先ほどまで緊張していた美海だが、美空と喋ると少し気がほぐれ「じゃ、待っとってね」と、一歩踏み出した。
こじんまりした雨加茂神社は、三段しかない階段を上がると、軽自動車ニ台分がギリギリで収納できる距離の先に賽銭箱が置かれてある。あまり管理が行き届いておらず、枯れ落ちた葉が散らかる参道の上の端をゆっくり進む。進めば進むほど空気は重たく感じ、ほぐれたはずの緊張は戻ってくる。鳥も獣もこの神社に近づかないのか近づけないのか、それとも美海の耳に届かないのか。辺りは一定の静けさを保っている。
賽銭箱の前に着き、一礼をして古びた鈴を鳴らす。縄が想像以上に重く、鈴の音が響かないので、少し強めに振ると、その音に驚いた夜鳥が飛び去る音がした。驚いて辺りを見渡すが、特に変わった様子はない。気を取り直し、お金を持っていない美海は、賽銭箱に何も入れることなく二礼二拍手して手を合わせ、念を込めて祈る。
悟が無事に目を覚ましますように。悟が無事に生活できますように。悟が無事に幸せになりますように。悟の代わりに私がそちらへ行くので、お願いします。
どのくらいの時間が経ったか分からなかったが、美海には短く、美空には随分長く感じた。暗い山の中、空が深い群青色に変わり、頭上の葉が、黒からそれぞれの色味を少しずつ取り戻す。
「美海、もうええやろ。その辺にしとけ」
美空は鳥居を潜らず、その場から大きな声で声をかける。届いているのかいないのか、美空がもう一度美海の名前を呼ぶと、美海は一礼して戻ってきた。
「遅い…って、何泣いてんねん」
「分からんけど、出てくる」
「汚い女やな。拭け拭け」
「拭くの、ない」
「俺も持ってへん」
「あんた、モテらんよ」
「女子力ない奴に言われても、説得力ない」
はよ帰ろと、美空は下ってきた道を上る。
「パンツ置いてきたん?」
「置かん」
「何置いてきてん?」
前を進む美空の背中に「命」と言うと、振り返った美空は驚いていた。
「…何て?」
「悟が助かったら、代わりに死ぬって約束した」
唖然としていた美空だが「ほんまアホやな!」と吐き捨てた。




