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 けれど、夕方になっても夜になっても、悟は美海の家に訪れない。今日も舟漕ぎの練習をしているはずで、その場所に、あの怒り狂った明里が乗り込んで行ったはずだ。明里が悟に何も言わなかったとは考えにくく、何も起こらなければそれに越したことはないが、少し気になってガラケーを手に取り、悟のSNSをチェックする。悟の呟きは、今朝のおはようという言葉から更新されていない。悟はマメに呟く奴ではないので、悟をフォローしている聖司や明里が、悟について何か呟いていないかチェックする。すると、明里が意味深な呟きをしている。

『リンゴが死んじゃったらどうしよう』

 何を不吉なことをと思ったが、明里の呟きに『リンゴがそんな簡単に死ぬわけない!』『今、病院?』と、次々にコメントがついている。

 悟が、病院?

 事故に巻き込まれて怪我でもしたのだろうかと、美海はガラケーを握りしめたまま、悟の家へと駆けだす。悟の家に着いて早々、玄関先で息を切らして「すみません!」と叫ぶと、サーフィンをしていそうな焼けた肌の知らない男が、驚きながらも「おばちゃんならいないよ。息子さんが海で溺れて病院に運ばれたみたいで」と、詳しく教えてくれた。

 病院、海で溺れた?

 とにかく病院へ行かなければと振り返ると、悟の父親とぶつかった。

「あげっ、美海ちゃんじゃがね。悟が心配で来たわけ?」

「おじさん、悟大丈夫?海で溺れたっち、本当?」

「聖司の話だと、舵取りしとったらいきなり海に落ちて、そのまま沈んで上がってこんかったっち。あ、貴史くん。留守番ありがとや。ごめんだけど、もう少し、いいかい?着替えとか持ってまた病院行かんば」

 貴史と呼ばれたその男は常連客らしく、もちろんいいっすよ!と、悟の父親を気遣いながら快く承諾した。

「おじさん、私も行っていい?」

「構わんけど、まだ意識戻っとらんよ」

「お願い!」

「じゃ、車に乗っとって。着替えとか色々準備して行くから」

 言われた通り、観光客を空港に送迎するために使っているワゴン車の後ろに乗り込んだ。辺りは静かな夜で、美海は自分の鼓動の早さに「うるさい、黙れ」と胸を叩いたあと、両手を握り、神様に願うかのように俯いた。

 しばらくしてその車は、海沿いを、早いスピードで走る。その日に限ってなぜか赤色に染まった月は、普段より大きく見え、車の後をついてくるかのように美海の不安を煽る。開いた窓からはスピードで切られた風が音を立てて車内に入り、それもまた美海の不安を煽った。寒くもないのに、身震いが治らない。

 悟が死んじゃったら、どうしよう。

 悟が死んじゃったら、どうしよう。

 泳ぎの上手な悟が海で溺れるなんて、信じられなかった。けれど、美海は誰もが溺れてもおかしくない原因を知っている。黒い、人ではないものが、あの海には確かにいた。言っても誰も信じてくれないだろうと、言わなかった。自分にしか見えず、言っても無駄だと諦めた。

 小さい頃、あの木にケンムンが見えたと言ったことがある。公園で一緒に遊んでいた美空は、風で木が揺れただけだと、美海に冗談を言うなと注意したが、悟は「どこ?美海には見えるの?すごい!」と信じてくれた。

 どうして忘れてしまっていたのだろうと、潮の薫る風を受けながら、震える体を抱きしめて後悔した。

 悟はどんな言葉でも信じてくれたのに。側にいてくれたのに。自分のことを大切に思ってくれていたのに。悟にだけでも、あの海には変な生き物がいると伝えていたら。もしかすると、こんな事態にはならなかったかもしれない。

 美海は、どうして悟に言わなかったのだろうと、赤く照らされた海をみながら考える。思い至るのは、悟も全く見えない人間だったから、わざわざ言わなくてもいいという判断をしたから。今まで美海にしか見えないそれらは、美海にしかイタズラを仕掛けてこなかった。急に現れたり、急に音を立てたり、それこそ髪を引っ張られたり。それでも命の危険」は無かったし、美海以外に害は及ばなかった。それなのにどうしてだろうと、美海は何度も何度も自分に問いかけ、一つだけ心当たりを見つけた。きっと、自分が悟と体を重ねたからではないか、と。

 美海たちの住む集落から一番近くて大きな病院は、都会にも劣らないほど立派で、駐車場も職員用とは別に、四十台止められる。がら空きの駐車場を出ると、悟の父親と一緒に夜間出入り口から入り、エレベーターに乗り込んで三階に着く。病室の前には聖司と明里がいて、家族以外、面会謝絶で入れないと言う。悟の父親は来てくれてありがとうと感謝を述べ、夜も遅いからあとで家まで送ると伝えると、病室へ入っていった。悟の父親が入る数秒だけ開かれた病室は、カーテンでベッドが見えず、悟の様子は確認できなかった。

 残念に思っていると「何しに来たわけ」と、明里の低い声が薄暗い廊下を這う。その声に緊張し、ゆっくり明里を見ると「何しに来たわけ、アバズレ!」と、明里が大声で罵った。おい、と制する聖司の声を無視して「帰れ!」と明里は泣き叫び、出口のある廊下を指差して促した。

 帰れ、帰れ、帰れ!

 どうしたの、と慌てて病室から出て来たのは悟の母親で、明里の背中を摩り、美海を見る。

 どうしたのと訊かれても、美海には説明できない。明里に言われた通り、軽く一礼してその場から去った。


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