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制服のまま、悟と外へ出る。日差しの強さに目を細め、片手で目元に影を作る。庭先のコンクリートから陽炎が揺らめき踊っているのが分かる。こんな炎天下を歩くのは、自殺行為。美海は、弟を探す気になれず、諦めようとしたが、その心中を知らない悟が「どこに行くわけ?送ろっか」と、鍵を付けっ放しにしていた自転車に跨り声を掛ける。
「いや、大丈夫。迎えに行くだけだし」
「迎えにっち、空港まで?なら乗れ」
「いいっち」
「なんで?歩いて行ったら三十分以上かかるがな」
「いや、こっちに向かってるっぽいから。その辺探せばいるはず」
「どこにいるのか分からんのだったら、チャリで探した方が早くない?」
「いいっちば」
頑なに断る美海に、悟は「ヤーの体重でも俺のチャリ、潰れらんけど」と、挑発すると、美海は「そんなの気にしとらんし!」と、少し声を荒げた。気にせず悟は「じゃあ、何なわけ?」と言葉を続けた。
「まさか、俺のこと好きなわけな?」
悟の人を揶揄う意地悪な笑み。それなのにどこか愛嬌があって憎めない。そんな悟が羨ましくもあり、憎らしくも思う。そういった相反する感情を抑え、悟が訊いた好きなわけ?を否定するべく、黙って自転車の後ろに跨った。
「もっと女の子らしく、上品に座りきれんわけ?」
座り方にケチをつける悟に苛ついて、足を軽く蹴り「進め」と命令すると「ハイハイ」と、悟はゆっくりペダルを回す。
「くっそ重っ!」
「そーゆーの、いいから。行けっちょ!」
背中を叩けば「じゃあ、しっかり捕まれよ」と言うので、美海は悟の両肩を掴み、二人を乗せた自転車は軽快に陽炎の中へと進む。
鹿児島県内にある離島とはいえ、美尼島は沖縄に近い。ドクターヘリが出動となれば鹿児島市内の病院では遠すぎるので、県境を越えて沖縄の病院へ運ばれるようになっているほどだ。とはいえ、今のところ誰もヘリコプターで運ばれるような事故や大病を患ってはいない。もしかすると、美海の知らないところで誰かが運ばれているのかもしれないが、ドクターヘリ以外にも上空は旅客機や米軍のヘリが飛んでおり、一目でどれがドクターヘリかなど、美海には選別する力もなければ興味もない。ただ、小学生の頃に教室の窓からヘリコプターが見えたので、悟に見てと指さして教えると、悟はしてもいない腕時計を気にしながら「まだ授業中なのに迎えに来るの早いや」と言い、教卓に座っている先生までも笑わせて、真面目にプリントをしなさいと、一緒に叱られた思い出はある。
家の造りも沖縄と似ていて平屋を石垣の塀で囲っていたり、シーサーや石敢當、水字貝が各家庭で魔除けに施したり、庭には真っ赤なハイビスカスが咲き乱れていたりと、とても類似している。
「…なんか、懐かしいや」
いつも見慣れた集落に変わった様子は見受けられず「何が?」と美海は聞き返す。
「夫婦漫才」
予想外の言葉に美海は「は?」と驚き、説明を促した。
「俺ら、フルーツコンビっち、言われとったがな」
「それは、あんたがみんなに言わせとったんじゃがね」
美海の通っていた中学は、隣の小学校を卒業した生徒が過半数を占めており、同じ小学校を卒業したのは悟だけだった。もともと人見知りをする美海は、うまく馴染めず「ノリが悪い」「冷めてる」と噂され、全員の制服が夏服に変わる頃には、腐ったみかん・冷凍ミカンと揶揄された。そんな時だった。
「お前、ミカンっち言われてるわけ?なら、俺、リンゴじゃや」
すでに人気者となっていた悟が笑顔で美海を揶揄った。昼休みだったか放課後の時間だったか美海の記憶は曖昧だが、クラスの大半が教室にいて、そのみんなが何故リンゴなのかと興味深々になり、誰かが訊けば、悟はフルネームの林悟を音読みしたらリンゴだからと言ったので、その日から、悟のあだ名はリンゴになってしまった。
何かあってもなくても悟は、よく美海に話し掛け、その会話が面白いと評判になったこともある。そのおかげでクラスで一人になることは滅多になかった。
悟が自分との会話を懐かしく思うのは美海も同意だが、漫才に夫婦は付けなくてもいいだろうと、そこだけが引っ掛かった。いまどき男女コンビの芸人なんて珍しくないという主張をしたかったが、それをわざわざ炎天下で口論する必要はないなと諦めた。
大きなガジュマルの木の下を通過中、美海は、その木の枝同士が擦れる音に反応して見上げたが、何もいない。突風が吹いたわけでも、鳥が羽ばたいたわけでもない。けれど確かに音がした。黙る美海に悟が「どうかした?」と前を向いたまま訊いたが、美海は「…ううん」と否定して、居なかったことにした。
きちんと見たわけでない。けれど何かがいた。そんな気がする。もしすると、ケンムンと呼ばれるこの島の妖怪だったのかもしれなかったが、見えない人に言っても、結局は半信半疑で信じてもらうことはできない。悟はともかく、普通の人は、みんなそういう反応で、人によっては美海を不思議ちゃんと言って笑ったりした。いつしか美海は本当の自分を隠すようになり、それに慣れていた。
普通になりたい、普通でありたい。神様になんか、誰がなるもんか。
海岸沿いの大通りに出ると木陰がなく、直射日光を浴び続ける。けれど、潮風のおかげで体感はさほど暑くない。
後ろから豚を三匹乗せた軽トラックのおじさんが、ゆっくり並走し「お前たち、デートな?」と笑って冷やかす。近所に住む、養豚所のおじさんだ。違う!と言う美海の言葉は、悟の「まぁや!」と言う大声に消され、おじさんに「二人乗りはいかんど!」とさらに笑って注意をされた。
「おっちゃん、妬くなっちょ!豚も可愛いがな」
「なら、交換する?」
「こっちの豚、凶暴だけどイイ?」
その言葉に、美海が悟の背中を叩けば、おじさんは「今日はやめとこうや」と大げさに怖がる芝居をし、スピードを上げて、容易く坂道を登って走り去った。美海たちもあと少しで坂道にさしかかる。しかも長く、二人乗りの自転車では到底無理だ。美海は気を利かせて降りようとしたが、悟は「乗っとけ」と、気合を入れ。前のめりの体制でペダルの回転を速める。
「大丈夫…?」
「おう!」
返事はいいが、いざ坂を上るとスピードは落ち、バランスも不安定になる。
「…やっぱ、降りようか?」
「大丈夫っちょ」
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。確実に登ってはいるが、降りて歩いた方が時間的に有効に思えた。それでも悟のいうとおりに美海は不安を抱きながら、後ろで大人しく待機する。
しばらくしてやっと坂の上に着くと、悟は地面に足をつけ「よっしゃリベンジ達成!」と、汗だくで吠える。
「リベンジ…?」
「お前、覚えとらん?小学生の時、一緒に転んだがな」
言われて「あ」と、思い出す。
「だから私、坂を登ってる間、嫌な感じがしたんだ!膝とか怪我して、二度と悟の後ろに乗らんっち思っとったのに!」
「忘れとったわけ?お前、昔から記憶力弱いよや」
「そんなことないし。覚えとかんばいかんことは、ちゃんと覚えてるし」
悟は例えば?と訊き、今度は坂道を下る。
「えっと…」
「はい、時間切れ。お前、歴史とか暗記系もダメだったもんや〜」
「そんなことないし」
「大政奉還の年は?」
「えっ?」
「はい時間切れ!正解は一八六七年、覚え方は、いやむなしい大政奉還でした」
「時間切るの早すぎる!」
そんな言い合いをしているうちに、悟の通う高校の校門前に辿り着いた。美海はここに弟がいるわけがないと、悟の背中を「ちょっと」と、軽く叩く。
「待ったい!休憩、休憩!水飲ませ」
悟は自転車から降りると、体育館横の水飲み場へ掛けて行く。すると校庭で遊んでいた男子たちが「リンゴ」と叫び、悟に向かってサッカーボールが放たれる。その球体は空にきれいな弧を描いて悟に届くが「ごめん!遊べん」と蹴り返す。また今度や、と軽く手を振り水飲み場へ到着する。しかし今度は体育館の中からバレーボールが飛んできて、蛇口をひねる暇なく、レシーブを返し、そのまま体育館の中にいる誰かと話し始めた。
悟はどこへ行っても人気者なのだと、嬉しいやら寂しいやら、複雑な気持ちになる。
そんな思いで悟を見つめていると、後ろから来た女子高生に「ミカン、こんなところで何してんの」と、声を掛けられた。振り向くと、同じ中学に通っていた明里が、悟と同じ高校の女子制服で立っている。
「学校に何か用?」
明里の視線が自分から自転車に移り、ほんの一瞬暗い顔をして眉間に皺を寄せたので、美海は「ううん」と平常心を装って否定し、自転車を降りた。
美海は明里が苦手だ。久しぶりに会い、それは過去ではなく、今現在進行形で苦手なのだと、改めて実感する。
明里とは中学一年から三年間同じクラスメイトで、美海を冷凍ミカンと呼び始めた張本人である。明里は女子の中心にいつもいて、勉強も運動も人よりでき、何よりスタイルも良くてオシャレ。全員同じ制服を着ていても明里だけ煌びやかに見えたし、実際、明里は常にモテていた。教室移動の時には先輩からも注目を浴びていたし、放課後、階段の踊り場で男子に告白されているところを偶然見たこともある。
そんな彼女が悟に恋心を示したのはいつからだったろう。はっきりと確信したのは美海が三年生になってからだが、もしかすると、もっと前から明里は悟に目をつけていたのかもしれない。しかしそうとは知らず、気づけば美海は明里に「私たち親友だもんね」と勝手に親友にされ、教室移動やグループ活動は悟と聖司と一緒に行動していた。一人よりはマシだし、何より悟もいるので安心して行動していたが、明里とは性格が合わないなと、二年生になる前には自覚していた。そして三年の夏休み明け、あまりにも昔の悟のことを知りたがるので面倒に思い、ある日「直接本人に聞いたら?」と言ってしまった。夏休み明けのテスト勉強のため寝不足だったなんて、相手も同じ受験生なのだから言い訳にはならない。美海と明里の関係に亀裂が入り、それ以来、悟の前でしか会話をしない仲になってしまった。体育の時間、女子だけになると自然と孤立し、何であんな冷たい言い方をしてしまったのだろうと最初は反省したが、明里から離れてクラスの女子を観察しているうちに、一人の方が明里に気を使わなうて楽だと思うようになった。
別に喧嘩をした訳ではない。自然と疎遠になっていた。今も明里が美海に話しかけるのは、中学以来で懐かしいという感情は一切なく、悟の自転車に跨っていたのが気にくわないからだろう。そう察した美海は、明里に「ごめんだけど、悟に帰ったって伝えてくれん?」と頼む。
「うん、分かった」
「じゃぁ」
やはり威圧的な明里は苦手。美海は足早に校門前の消えかけた横断歩道を渡り、学校の向かいにある公園の中へと消える。
明里に会うなんて、今日はついてない。
悟が学校に寄らなければ会わなかったのに。
いや、そもそも弟が島に来なければ、外に出ることもなかったのに、と思う。
公園を通り抜けると、車一台通るのがやっとのコンクリートで作られた路上に出る。道路の向こうは山麓で川が流れており、子供が落ちないようガードレールが沿っている。一台も通らないその道の真ん中を、美海はあてもなく歩いた。
そういえば昔も人探しをしたなと、なるべく木陰を歩きながら思い出す。確か小学生の頃、悟が行方不明になり、美海は必死に探した。あの時は、集中して探した。不安で泣きそうになりながらも、必死に探した。けれど今回は必死に探す必要性を美海は感じていない。探している相手は、姉と弟という関係で自分と繋がっていると、十分承知している。しかし、十年近く会っていない上に連絡もろくに取っていなかったのだから、美海にとって赤の他人と同じ。大切な人が行方不明になって探すのとはわけが違う。勝手に島に来たのだから、遭難したって自業自得だろうと考えていた。とはいえ、島にはハブが生息している。連れて帰らなければ、野宿で弟が噛まれるかもしれない。そう思うと、面倒だが、探さなければいけないという使命感に駆られた。その辺を彷徨っているという祖母の言葉を信じて。
太陽は雲に隠れることなく島を照らし、風が美海を追い越す。
先ほどまで煩かった蝉の声は段々聞こえなくなり、鳥も獣の気配を感じなくなった。
ただ歩いているだけで額に滲んだ汗が、雫となって顎から落ち、路上に落ちて水痕になる。
美海の息遣いが美海の中で反響する。
視野がどんどん狭くなる。
視界は霧がかかったかのように白くなる。
それでも先をみようと、瞬きせずに歩き続ければ、一面に広がるサトウキビ畑の映像が美海の眼球に突出した。驚いた美海は、目を覆ってその場にしゃがみ込み、しばらく待った。
はたから見れば立ち眩み。熱中症を起こしてもおかしくはない天気、気温は三十七度を超えている。
ゆっくり目から手を放し、あたりを見回した。しかし、サトウキビ畑なんてどこにもなく、民家と畑が混在している。蝉だってうるさいし、電柱にはスズメが止まって鳴いている。
ごくたまに、美海は目の前に存在しない景色が見えるという経験があった。悟を探していた時も、同じ体験をした。これを何という現象なのか美海には分からないが、きっと、照家の血の力なのだと考えている。
この力は便利ではある。けれど、自分の意思で使うことの出来ない美海は、少し怖いなとも思う。近くに誰か同じような力を持っていて色々と訊けたらいいのだが、誰もいない。親戚に聞こうものなら、やっぱりこの子には神様の素質があると言って、誤解されかねない。そんなことになれば、神様として一生を過ごすことになり、二度と島ではないどこかでの生活はできなくなる。それは、困る。美海はまだ、母親との生活を捨て切れていなかった。
美海は意識がはっきりすると、行き先をサトウキビ畑と決め、辺りを見回す。すると遠くにサトウキビ畑を発見し、道路から分かれている畑道からその場所へ近づいた。特別に整備された道ではないが、畑仕事をする人が頻繁に使う道なので、学校指定のローファーで歩いても、さほど苦にはならない。
歩きながら美海は、しばらく会っていない弟について考える。身長は?体格は?どんな顔だったっけ?髪の長さは?色は黒のままだろうか?
眩暈で映し出された同じ光景のサトウキビ畑に到着したものの、誰もいない。
自分の力も当てにならないな、とため息をつく。その次の瞬間、突風がサトウキビ畑を揺らして、美海を襲った。びっくりして顔を腕で防御したが、その風は一度きり。とくに何も起こらなかった。美海は長い髪を整えると、なんとなく、恐る恐るサトウキビ畑の中へと進んだ。歩きづらかったが、弟は、この先にいる気がした。勘といってしまえばそうなのだが、自分の勘は割と当たると自負している。
突き進むと、畑を出て獣道。
さすがにここにはいないだろうと左右を確認する。すると、同世代の男の子がリュックを背負って立っていた。美海もびっくりして固まったが、相手も、まさか畑から女子高生が出てくるとは思っていなかったようで、美海を凝視したまま固まっている。そんな沈黙の中をアカショウビンの鳴き声が二回、二人の間を通った。人見知りをする美海だが、いつまでもお互い黙ったままの状態も気まずいので「…みーくん?」と、訊いた。相手が声を掛けられ身を構えるのが分かり、馴れ馴れしかったと反省した美海は言い直した。
「野村美空くんですか?私、照美海です」
自分でも緊張しているのが分かったが、気づかれないよう丁寧に喋った。しかし、それが裏目に出て、素っ気ない態度になっていると後悔した。こんな時、悟なら笑顔で打ち解けるのだろうと思っていると「…あぁ、照の…」と、相手も素っ気なく、軽く会釈をした。どうやら、美海の態度を気にしていないらしい。美海も気にせず「家、こっちです」と、悟と来た海側の道を戻ると遠回りなので、自転車では通り辛い緩やかな坂の獣道をそのまま歩く。
木漏れ日の中を、美海が先を歩き、その後を美空が歩く。とくに話題も無いので「…何でこんなところにいたんですか?」と訊いてみたが、返事はない。歩みを止めずに振り返って見遣ると、ただでさえ長い前髪で隠れた顔を俯かせて「さぁ?」と言った。話す気がないのかと受け取った美海は、自分もコミュニケーション能力が高い方ではないが、こいつは重症だなと内心思った。
獣道を出ると、太陽がコンクリートを十分に熱した道に着き、その上をまた歩く。車の往来どころか通行人もいない。沿道に植えられた向日葵の花も、この灼熱地獄では、ボロボロの身となって悲鳴をあげているように見える。影無き道を汗だくになりながら、気兼ねなく道の真ん中を歩く。その道はまっすぐどこまでも続いている。もちろんそんなわけはないのだが、炎天下を帽子も被らずに歩いているので体力的にも精神的にも美海は参っていた。
早く家に帰って冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みしたい。そんな欲が脳を占めていたのですぐには気付かなかったが、陽炎の向こうから白いワンピースを来た人がゆっくり歩いてくるのが分かった。しかし、それが誰なのかはっきりとは分からない距離。この辺りに白いワンピースを着て、日中に一人で散歩をする女性がいただろうか。しかもこんな炎天下、日傘も差さずに。
互いに少しずつ近づき、美海はあることに気づいて立ち止まる。白いワンピースを来たその人には、あるはずの顔がない。切断されたのだろうか、首から上がない。白いワンピースだと思っていたが、よく見ると、胸あたりを血痕が彩っている。
ああ、見てはいけないものを見た。近寄りたくない。関わりたくない。
けれど道は一本道。後ろを歩く弟に何て言って後退しようかと振り向けば、着いてきていたはずの弟は、思ったより後ろで立ち止まっている。視線は前髪のせいではっきりしないが、明らかに美海の後ろを見ていた。
まさか、もしかして。
ほんの少しの期待と、首なし人間に遭遇した怖さから急いで近寄り「あんた、見えんの?」と、訊く。美空は何も言わず頷いた。それなら話は早いと美海は「なら、遠回りしよう」と、足早に来た道を戻った。遠回りになるが、人ではない存在とすれ違うよりは気が楽なので、海側の道を目指す。美空も、黙ったまま美海の後を歩いた。
サトウキビ畑を抜けて、なるべく最短ルートで家に戻る道中、どうでもいいと思っていた弟に、半分とはいえ、やはり血の繋がった姉と弟なのだと、少しだけ親近感と興味を抱いた。
家に着く頃には空が赤く染まっていた。鍵をかける習慣のない家の玄関の扉を横にスライドし、開口一番に「ばあちゃん、いる?」と、声を出す。
「みーくん、連れてきたよ」
ローファーを脱ぎ、美空に台所はこっちだと案内する。冷蔵庫から麦茶を取り出し、シンクの上に洗って置いてあるコップを、テーブルの上に2つ並べ、同じ量を注ぐ。
「置いとくから、飲んで」
美空は軽く会釈をしたが、注がれたコップを手にしようとはしなかった。
神経質で潔癖症。
せっかく注いだのだから、一口くらい飲めばいいのにと、乾いているであろう喉を潤さない美空に、麦茶を飲みながら横目で眉をひそめたが、ばれないように「ばあちゃん、いないの?」と、台所から茶の間へ移動した。祖母は、長方形の立派な座卓に添えられた座布団の上に正座し、うちわをゆっくり仰いでいる。
「いるがね」
美海は、突っ立っている美空を手招きして「ばあちゃん、見える?」と、あえてどこにいるか教えずに訊く。
本当に美空は見えているのだろうか。
半信半疑で様子をみると、美空はきちんと祖母が座る座布団を見て会釈したので、やはり美空も見えないはずのものが見えているのだと分かった。




