スタンド・バイ・ミー
待つ、ということが苦でなくなったのは、いつのころからだろう。
子供のころは、とにかく待つことが嫌いだった。信号機が青に変わるのを待つのも、列に並んで順番を待つのも、大好きな月刊の少女漫画雑誌の発売日を待つのも、友達が来るのを待つのも。せっかちだったし、自分が一番でないと気が済まなかった。待っている間、ずっとそわそわ、イライラして、気持ちが全く落ち着かなかった。誰かに先を越されたり、約束の時間を破られたり、発売日に買いに行けるはずが行けなかったりすると、私は癇癪を起こし、地団駄を踏み、ヒステリックなまでにわめいたりしていた。それは大人になるにつれ、少しずつ矯正されていった。期待することをやめればよいのだと、自然に気がつき、諦めがついたのだった。今はむしろ、待つのが得意と言ってもいいかもしれない。
ふと我に返ると慎一の気配があった。玄関のドアが閉まる音がしたのだと気づくのに、数秒かかった。顔を上げるとちょうど慎一がリビングに入ってくるところだった。
「……おかえり」
食卓にノートパソコンを広げたまま、少しうとうとしていたようだ。長い髪をかき上げる。
「ただいま、美咲。仕事?」
「うん、ちょっと頼まれごと」
職場の職員の名刺を作っていた。ただの会計事務員として雇われてはいるが、そこそこグラフィックソフトが触れることがわかると、名刺やちょっとした広告を作るのを頼まれるようになった。とはいえメインの事務処理もあるものだから、こうやって自宅に仕事を持って帰ることもたびたびあった。仕事は嫌いでなかった。趣味らしい趣味も特にない。人よりも少し上手いくらいだけど、子供の頃から絵を描くことだけは得意だったので、それが人の役に立つのなら悪い気持ちはしなかった。
一日ぶりに見る慎一は長袖から半袖のシャツになっていた。日も伸びて、先週から梅雨らしく長雨が降っていた。袖からすらりとのびる両腕は、はっとするくらい白く、かといって病的なわけではない。かっちりと程よく引き締まっている。つい、そちらに目が行き、私は指を伸ばし慎一の手に触れる。大きい手のひら、すっと長い指。
「眠たいんだろう」
「どうして」
「手が熱い」
慎一は包み込むように私の手を握る。
子どもみたいだよなと慎一はくつくつと笑い、子どもじゃありませんと私はむくれてみせ、ぶっきらぼうに手を放す。とっくの昔に成人を迎えたのに、と思う。社会人として働きにも出て、成人を迎えて数年と数ヶ月、充分大人らしくなったと、自分では思っているのだけど。
慎一にどう見えているか、少し気になる。ちゃんと大人の女に見えているだろうか。数年と数ヶ月なんて、慎一にしてみればほとんど一瞬の出来事らしい。早く大人になりたい、歳をとりたいと切に思うが、所詮歳の差は縮まらない。
さっきまで私の部屋のベッドの上でくつろいでいた黒猫のペーがふさふさのしっぽを立てて慎一にすり寄る。慎一は部屋の隅っこに置いてあるスリッパを片足にすくいあげるように履いて、フローリングに行儀悪くゴロンと仰向けに寝そべったペーのお腹をスリッパで軽く踏んづけてやる。最初は気持ちよさそうにゴロンゴロンと転げまわるが、しばらくすると目つきが真剣になってきて、慎一の足にがばっと飛びかかり爪を立てたり、ぴょんと身をかわしたりを繰り返し始める。慎一はいかにも楽しそうに、じゃれつくペーをからかう。ペーはアパートの駐車場に捨てられていたのを慎一が拾ったらしい。ご飯やトイレの世話なんかはほとんど私がやっているというのに私にはそっけなく、慎一にはやたら愛想を振りまく。
「どうした? 体調悪い?」
遊んでもらって満足げなペーを足で押しやりながら、慎一は私の顔を覗き込んできた。
今日の昼くらいから、少し、体の具合が悪かった。鼻の裏側くらいが重たく、呼吸が浅い。頭がぼんやりする。喉の粘膜が痛痒く、きっとザクロのように赤く熟れてぶつぶつが出来ている気がする。
額に慎一の唇が触れる。伸ばしたひげがくすぐったい。
「熱あるね」
私の頬を両手のひらに包んで慎一は言う。
「夏に風邪なんて」
慎一はにやりとした。「ちゃんと布団被って寝ないから」
「慎だって髪乾かさずに寝るじゃない」
「僕は風邪を引かないからいいんだ」
「引いたら二週間こじらせるくせに」
自分を大事にしないことにかけては天下一の慎一、熱が出て苦しくても薬でごまかして仕事をする。休めばいいのに、無理をするから結局こじらせて治りが遅い。そんな人に体調管理のことを言われても反感しか覚えないが、優しい慎一の態度には、まあ、くすぐったい気持ちがしないでもない。
慎一と出会ってから五年と半年も経つ。その間に私は高校を卒業して就職し、成人を迎え、順調に働いている。目まぐるしい月日だった。その間の慎一はというと、少し老けた気はするけれど、ほとんど出会った時のままの姿で、何だか狐につままれたような気分だ。
高校の卒業式にも成人式にも、慎一は帰りの迎えに来てくれた。誰かに「お父さん?」と聞かれるたび、私は微笑んだ。そう思われるのがまず普通だし、そのように訊かれるのも、割と気に入っていた。元々父が居ないので、父親、というものには憧れがある気がする。それは悪い気がせず、むしろ血を超えた深いつながりを得たようで、満足を感じるのだった。
だけど、例えば服を選ぶとき。慎一と一緒に行くと、慎一は女もののショップにも抵抗なくついてくる。私でさえ、店員に話しかけられるとちょっと緊張するのに、慎一は普段通り少し皮肉をきかせた喋りをして、適当に店員をあしらい、あまりにも手慣れた感じでさりげなく服を手に取り、私にあてがって、何やらぶつぶつ言いながらじっと見てくる。
「美咲は美人だからシンプルなもののほうがいいんだ。地味って言われそうなくらい」
「せっかく足がきれいなんだからたまにはスカートはいたら?」
「惜しむらくは出るとこ出てないからタイトな服は体が貧相に見えることだな」
「うるさいな」私はむっとする。
「嘘は言ってないよ」
「デリカシーがないって言ってんの」
「僕は好きだけどね、君の体」
「やだ、やめて」
「あ、今、卑猥なふうに受け取っただろう。困った子だね」
ばか、とつぶやきながら、少しせつなくなる。こんなふうに、過去のひとにも服を選んでやっていたのだろうか、もしくは、服の選び方を教えてもらったのかもしれない。想像は膨らむばかりだ。自分の知らない慎一の過ごした長い月日に嫉妬する。
***
多分、あんまりこういう家庭はないんじゃないか、と思うのだけれど、私は、あるときから家の鍵を持たせてもらえなくなった。小学校中学年のころだったと思う。だから私は、家に鍵がかかっているときは家に入れなかった。
人からはちょっと奇妙に思われるかもしれない。現に今は、変な家庭だったなあと思う。だけど当時の私にとってそれは受け入れなければならない当たり前のことだった。唯一の家族である母に、幼いながらに抗議をしたことは何度かあったが、当たり前のように一蹴されてきた。そうなると、子供はそれが普通と思い込むものだし、思わざるを得ない。
五年と半年前、私は高校生だった。下校の時間をとうに過ぎてから学校から帰り、ドアノブをひねった。鍵は開いていなかった。インターホンを鳴らすが反応もなく、たぶん母は出かけているのだろうと、私はいつものように町を行く当てもなくふらついた。私も母も携帯を持っていなかったから、連絡の取りようもなかった。こういうことは月に一回くらいだったのだが、少しずつ頻度が増えて、今では週に一、二回は必ずそうだった。
信号機が青に変わるのを待ちながら、ふと、このままいなくなってしまえばどうか、と思いついた。それはまるで現実感がなかったけれど、名案のように思えた。私は財布の中身を確認した。お小遣いをもらったばかりだったので、まだ三千円と少し残っていた。
このくらいあれば、何日かはどうにかなるんじゃないか? と思えた。一週間後の定期考査のこともどうでもよくなった。セーラー服のまま、とにかく私は歩いた。
日が暮れ、辺りはとうに真っ暗になっていた。後悔がじわじわと胸に湧いてくるのを感じながら、半ば意地のように歩き続けた。長い間ローファーで歩いたので、つま先が痛くなってきて、足は鉛のように重たく感じた。明るいところを求めて歩き続けると、そこは飲み屋街だった。地味なセーラー服のくせに、場違いな格好だからか、人の注目を集めている気がした。無意識に早足になって、足がもつれそうだった。怯えるように一心不乱に足を動かす。赤信号なんて関係無かった。車道に駆け出そうとした瞬間、何かが遮った。男の腕だと気づいた時には、私は男の胸の中に抱きとめられていた。大袈裟なブレーキ音を残して、バイクが走り去っていくのが、男の肩越しに見えた。
「危ないよ」
体温と息遣い、上から降ってきた明瞭な声。黒のジャケットにえんじのストライプのネクタイ。
するりと体が離れた。私は慌てて頭を下げた。何か言わなくてはと思ったが、声が出なかった。
「高校生?」
私はもう一度頭を下げた。恥ずかしくて、顔を上げることが出来なくて、男の革靴のトンガリを見つめた。
「家、どこ? 近所? タクシー捕まえるよ。それとも誰かと待ち合わせ?」
私は首を激しく横に降って、大丈夫ですと言った。声が震えたがなんとか聞こえるように言えた。男が呼び止めるのを無視して、走って逃げた。羞恥と、罪悪感と、動揺と、ないまぜになって息が切れ、血管のどこかがパンクしそうだった。
振り返って男の姿がないことを確認して、ほっと息をついた。私は再び歩き出す。カラカラにのどが渇いている。
時計すら持ってなかった。今、何時なのか、気になりだすと、確認せずにはいられなくなってくる。しばらくあたりをうろうろして、目についたコンビニに入ることにした。
壁に吊った時計を見た。十一時半。かなりの時間、歩いていたものだと、少し驚く。プライベートブランドの安いお茶と百円のおにぎりを手に取りレジに持っていく。視線を感じて横を見ると、スーツの男が立っていた。既視感、なんだか見覚えがあると思ったら、えんじのネクタイ、革のトンガリ靴。さっきの男の人だと気がついた。向こうもここで再び会うとは予想外だったようで、びっくりした顔をしていた。
気まずくて目をそらした私を、ちょっと、と手招きする。私が手に持っていたおにぎりとお茶を掴んでレジに置き、これも一緒で、と店員に言う。会計を済ませ店を出てコンビニの脇で立ち止まる。男――慎一はレジ袋から自分の買ったものを取り出し鞄にしまい、おにぎりとお茶の入った袋を私に差し出した。有無を言わせないような硬い表情に、私はありがとうございます、と頭を下げ受け取るしかなかった。
「帰らないの?」
「大丈夫です」
「これで朝起きて君がニュースに出てたら嫌だよ僕は」
慎一は片方の眉を上げて、少し語調を強めた。私は仕方なくつぶやく。
「帰れないんです」
「帰れない?」
「鍵、持ってなくて」
「失くしたの?」
「違うんです」
何故だろう、泣きそうになっていた。溢れ出しそうになる感情をなんとかこらえようとするが、ぎりぎりのとこでだめそうだった。情けない。だから言いたくなかった。だけど――聞いてほしかったのかもしれない。
二十四時間営業のファミレスで、私は慎一と向かい合って座っていた。好きなものを頼んでいい、とは言われたものの、どうしていいかわからないまま、目の前に置かれたメニューを最初から最後まで繰り返しめくっていた。「おなかすいてる?」「何が好き? 洋風?和風?」と慎一は聞いてくれたが、私はとにかく困惑して固まっていた。大人にこんなふうに気を遣ってもらったのは初めてだったのだ。
「わかった、こうしよう。僕は、ステーキを食べたいけど、ハンバーグも食べたい。二人前じゃ多いから、半分こさせてほしい。いいかな?」
私はうなずき、小さくありがとうございますと言うのが精一杯だった。
食事を前にすると、思わずお腹が鳴った。「やっぱりすいてたんだ」慎一が笑うので恥ずかしかった。ステーキもハンバーグも、慎一が食べやすい大きさに切ってくれた。ナイフとフォークがこんなに優雅に役をするのを、私は初めて見た。慎一の手は陶器のように白くて血管が透けて見える。ひとくち食べると、唾が湧いてきて、私は黙々と食べた。
慎一が腕時計を見た。目が悪いのか、手首をかなり目に近づけて眉を寄せた。
「さすがにもう、帰ってるだろ、親御さん」
急に現実に引き戻された。開かないドアノブの前に立つ、あの惨めな気持ちが胸に蘇ると、気が塞いだ。
「帰りたくない」つい、言ってしまう。「もうやだこんな生活……」
このままここに根が生えて、動けなくなってしまえばいいのに。それかいっそのこと、空気に溶けて消えてなくなってしまいたい。そうすればいろんなことを考えたり悩んだりしなくて済むのに。はっとする。慎一が困ったような表情を浮かべている。赤の他人の前で言うべきことじゃない。
「ごめんなさい」私は慌てて笑顔を繕う。「大丈夫なんで、気にしないでください」でも、たぶんあまり意味をなしていないだろうことは、自分でもわかった。
「大丈夫って……どうするつもりなの?」
「どうしよう」
野宿を考えていたが、思っていたよりも夜の外は寒い。まだ秋口ではあるが、じっとしていたらこんな格好では凍えそうだ。ネットカフェやビジネスホテルか、とも思ったけれど、制服を着ている以上門前払いだろう。下を向いて考えを巡らせていると、慎一が気まずそうに口を開いた。
「もし君が嫌じゃなかったら……、いや」
言おうか言うまいか迷っているようだった。私は首をかしげる。慎一は、誤解してほしくないけどとりあえず一つの提案として聞いてほしい、と念を押す。
「僕のとこ、来ないか」
「この部屋は隠れ家だから、誰も入れたことないんだ」
慎一はアパートの三階の一番奥の部屋の扉を開けて、入るように促した。二人が靴を脱いで部屋に上がると物音がした。一匹の黒猫が奥の部屋の暗がりから現れ、慎一の足に体を擦り付けた。
「ごめん、忘れてたよ。おまえがいたね」
ペーは慎一に撫でられながらしっぽをピンと立ててじっと私をみていた。私を警戒しているようだった。よくよく見ると白い靴下を履いているみたいに足先だけ真っ白だった。私は白靴下を履いた黒猫と、色白の肌の黒いスーツの男を見下ろす。
慎一は部屋の中を一通り案内してくれた。と言っても2Kの部屋、ものも最小限の家電と家具しか置いていなかったので説明はすぐ済んだ。一番手前がキッチンと三点ユニット。真ん中の部屋がリビングで奥が寝室。
「僕は帰るから、泊まっていきなさい。あるものは好きに使っていいからね」
いいんですか? と私は尋ねる。いいんだ、僕にはうちがあるからね。言っただろう、ここは隠れ家なんだ。
「ペーにはいつも留守番させてて、悪いと思ってたんだ。相手してくれると助かるよ」
ペーのトイレやご飯の説明を受ける。あとこれ、と慎一はパソコンデスクの引き出しから鍵を取り出し、私に差し出した。
「合鍵。頼むよ」
慎一が去って、私は毛布を拝借してソファに横になった。最初は警戒して近づいて来なかったぺーだが、私が毛布にくるまって電気を消してしばらくすると、足元に重みを感じた。暗がりにペーであろう黒いかたまりが毛布の上で丸まっているのが見えた。
慣れないソファの硬さ、枕のにおい。安堵と罪悪感とで体が重い。
瞼の裏には、慎一のえんじ色のストライプのネクタイが映った。それが感覚の記憶まで呼び覚ます。慎一のかっちりした胸、発する熱と、息遣い、「危ないよ」はっきりしていて、でもどこか優しさのある声。一つずつ思い出していくうちに思考が途切れていき、やがていつの間にか深い眠りに沈んでいった。
次の朝私は慎一のアパートからそのまま学校へ行った。自分の家に帰ると、鍵が開いていた。叱られるか嫌味を言われるか――と構えていたが、結局母は何も言わなかった。とにかく母はいつも気がそぞろで、私に対して無関心だった。十二時、私はボストンバッグに着替えや洗面道具を詰め、学生鞄に教科書類を放り込み、家を抜け出した。
ローファーを履いてアパートの廊下に出ると、底冷えした乾いた闇が凪いでいた。寒かったけれど、不思議と寂しさや怖さはなかった。私は足音を立てないよう静かに、軽やかに小走りした。風のように自由になれた気がした。両手に手提げ、背中にリュックをかるっていて、そこそこ重たくはあったが、そんなことはちっとも気にならないくらい、気持ちが静かに高ぶっていた。平日の深夜、人通りは少なかった。コンビニやファミレスなど、煌々と明かりのついた場所にまばらに人影を見た。蛍光灯に群がる虫のようだと思った。私は闇に向かってさらに走った。ウィンドブレーカの下で、首にぶら下げた鍵が踊っていた。
慎一の隠れ家が見えてきた時、はたと高揚感が薄れていくのを感じた。あんなに軽やかだった足が再び重力に絡め取られ、荷物の重さが蘇った。私は一体何をしているのだろうか。昨日の出来事が、幻だったのではないかという気持ちが膨れ上がった。私はウィンドブレーカの胸元を開いた。昨日、慎一にもらった鍵。間違いない。何度も握って、感触を確かめたのだ。だけど、いつ、返して欲しいと言われるだろうか。一日経って、慎一も冷静に考えて、やっぱり帰りなさいと言うかもしれない。
『ペーの相手をしてくれると助かるよ』
その言葉が、救いだった。言い訳にできた。そうだ、ペーの世話をしに来たのだ、私は。そういうことにしよう。
灰色の階段を上がって、慎一の部屋の扉の前に立った。膝が震えた。露出して冷たくなった手に鍵を持ち、鍵穴に挿してひねった。解錠の音がやけに大きく響いた。私はドアノブを回した。
***
このアパートの鍵を持たされた時の妙な安堵を、私はたびたび思い出す。いつでも来ていいと、慎一は言ってくれた。そのかわりペーの世話と掃除や洗濯をしてほしいと。それは今思えば、半ば私に言い訳を与えるための口実で、半ば本当に誰かにいてほしかったのだと思う。当時の私にとってはそれがよかった。ただやっかいになっているよりかは、少しでも役に立ちたかった。ここにいてもいい理由が欲しかった。
「ねえ、あの時、なんで声かけてくれたの」
「ん?」
「初めて会った時」
「君、ひどい顔してたから。今にも死にそうだった。車道に飛び出そうとしてたのも、わざとだったんじゃないかって思うくらい」
もしかして私は、死のうとしていたのだろうか。
死に場所を求めて、さまよっていたのか。
「話しかけて、正解だったよ。じゃないと、もしかしたら僕も君も生きることを諦めていたかもしれない」
***
部屋の中は真っ暗だった。革靴が脱ぎ散らかされているのを自分の靴のついでにそろえた。ローファーと革靴が並ぶと、なんだか少し気恥ずかしくなった。
玄関のドアが開く音が聞こえたのか、上下のスウェットを着た慎一が奥の寝室から顔を出した。
「ああ、君か」慎一は眠たそうに目をこすった。「ごめん、ちょっと寝かしてくれ」
と、そのままベッドに倒れこむ。満身創痍といったようにふらふらだ。
「家じゃ眠れないんだ」
「どうして」
「わからないけど、全然ダメなんだ」
だから、隠れ家が必要なのだろうか。すまないがペーに水道水を飲ませてやってほしい、こいつ流水じゃないと嫌がるんだ、あと僕は三時には勝手に起きて出るから、とよれた紙飛行機が墜落するように力なく手を振り、それから寝入ったのか動かなくなった。
私はキッチンの蛇口をひねった。するとペーが飛び上がってきて、ペロペロと水を舐めた。その間私はペーのトイレをきれいにしてやり、餌の皿を洗い、新しい物を入れてやった。ペーはカリカリを少し食べると、満足したのか慎一のいる寝室の暗闇に消えた。私はリビングのソファに腰掛けた。彼が出かけるとい言った三時まで起きておくつもりだったが、いつの間にかそのまま寝てしまったようで、気が付くとあたりは薄明るく、肩に毛布がかけられており、足元にペーが丸くなっていた。時計を見やると六時過ぎで、慎一はいなくなっていた。私は身支度を整え、冷蔵庫にあったハムを一枚つまみ上げそのまま口に入れた。マグカップにオレンジジュースを注ぎ飲み干し、カップを洗った。するとペーがまた水を飲みに来た。戸締まりを確認し(といってもベランダの鍵だけだけど)狭い玄関でローファーを履く。電気の消し忘れがないか再び振り返った。ペーがしっぽを自分の体に巻きつけてこちらを見ていた。行ってきます、と小さくつぶやき、部屋を出た。
いつか追い出されるのではないか、いつ追い出されるか、最初は不安だった。その度「ペーの相手をしてくれると助かるよ」という慎一の言葉を頭のなかで再生させた。それに、たとえ一時の借り物であったとしても、母のいるアパートだって借り物だ。どこにいようと関係ない。どこにも居場所なんてない。最初からそう思っていれば、苦しむことはないのだ、と思い込むことにした。だけど、いつまで経っても慎一はもう来ないで欲しい、鍵を返して欲しいと言わなかった。気遣いはあるが、基本的に放ったらかしだった。憩いの場を共有する、という感覚が説明として正しいかもしれない。「来てたの。おなか空いたなあ、なんか食べるもの、あったっけ」「コンビニで新発売のお菓子買ってきたけど、ちょっと食べてみる?」「疲れた。寝る。ペーをよろしく」
慎一の帰ってくる時間はまちまちで、残業の多い仕事のようだった。そして必ず、深夜、もしくは早朝に出て行った。帰ってこない日もあった。そんなに早い時間にどうして出かけて行くのか、家ではどんな生活をしているのか。慎一から積極的に話すことはなかったので、なんとなく触れずにいた。それに、もし触れてしまったら、慎一は泡沫夢幻に消えていなくなりそうな気がしていた。慎一も、最初は事情を聞いてきたが、その後はめったにその話題に触れなかった。ここは慎一の隠れ家であり、私の隠れ家でもあった。貝が海の底で殻に閉じこもって眠るように、私達もひっそりと自分の中に閉じこもった。何も解決はしない。好転しない。だけど、お互い精一杯のところで、生きていた。
学校帰りに本屋に寄って、料理の本を立ち読みした。自分でもなんとかできそうな料理を口の中で何度もつぶやいて、本屋を出てすぐノートを広げ覚えた材料や分量を書き込んだ。
食事を作ってみたい、材料を買わせて欲しい、これを作りたい、材料がこれだけいる、という内容の手紙を書いてリビングの食卓の上に置き、ソファに横になった。朝目覚めると、置き手紙の上に一万円札が乗っていた。
早速学校帰り、自分で作った料理のメモと商品とを見比べながら買い物をした。実はまともに料理をしたことがない。したことがあるのは出来合いのお惣菜をレンジで温めたり、鍋で作るタイプの即席麺やうどんやパスタを湯がいたりする程度だ。一から買い揃えると意外とたくさんお金がかかった。少しは経済的で健康的かと思ったが、案外そうではないのかも、失敗したな、とその時は思った。
残金を見て少し落ち込みながら、重たいレジ袋を両手に下げてとぼとぼと慎一のアパートに帰った。気を取り直して、制服からTシャツとジーパンに着替えて、早速包丁を握った。まずじゃがいもと人参の皮を剥くのだが、料理の本に乗っていた通りの持ち方をしても、厚く剥き過ぎたり、剥いていた皮がちぎれたりする。無理せずピーラーを買うべきだった。悪戦苦闘して剥き上がった野菜はぼこぼこ不格好で一回り以上小さくなってしまい、どうにも哀れだった。さらに一口大に切る、とメモにあったが、どれもこれも大きさがまちまちで、しかも分厚く剥いてしまったものだから、こぢんまりと心もとない。まあしょうがないとすべての材料を鍋に放り込む。調味料を分量通り入れ、コトコトと煮込む。何度か吹きこぼしてコンロの火が消えそうになったが、料理の方はなんとかそれっぽくなった。しばらくしてご飯を炊き忘れたことに気が付き、慌てて米を洗って炊いた。
早く慎一が帰ってこないだろうか。そわそわ、うきうきしている自分にはっと気がついて、馬鹿馬鹿しいな、と苦笑いする。期待するから、苦しいのに。勝手に傷ついている自分こそ、この世で一番滑稽で惨めだ。消えていなくなってしまえばいい。
だけど慎一は早く帰ってきてくれた。
「お、いい匂いがするね。何もない家でごめんな。あんまり自炊することなくてね。うまくいった?」
「座ってて」私は急に恥ずかしくなって、いそいそと鍋を温めなおし深皿についで、ご飯を茶碗によそった。
「肉じゃが?」
こくりとうなずく。よくよく見るとじゃがいもが煮崩れている。私は慌てて言う。
「あの、初めて作ったから、もしかしたらおいしくないかもしれないけど」
「まだ食べてもないのに色々言わなくても」と慎一は苦笑する。
私は祈るように慎一の反応を待った。慎一は両手を合わせいただきます、と言い、じゃがいものかけらを口にした。
「おいしいよ」
「ほんとに?」
「初めて作ったんでしょ? すごいな、上手だよ。ありがとう」
今思えば肉じゃがと白ご飯だけの、寂しい食卓ではあった。だけど慎一は私の拙い料理を心からほめてくれた。私は調子づいて少しずつ料理を覚えていった。しばらくすると何を作って欲しいだとか、リクエストもしてくれるようになり、もっとこういう味付けがいいとか、こうしたらいいんじゃないか、などと言ってくれるようになって励みになった。
それから慎一の帰りを待つことが私の幸福になっていった。
幸せが色めきだすにつれて、慎一が今どこで何をしているのか、気になるようになった。
学校帰りには、毎日母のアパートの玄関の前に立った。開いていなければそのまま去り、開いていれば一応寄って宿題をしていった。食べるものがあれば食べたし、なければ慎一のところで作って食べた。母と会話をすることはほぼなかった。PTAのプリントにも母は一切関心を示さなかったので、見せる前に捨てた。学費や保険といった金銭的な部分は自分ではどうにもならないから食卓の上に置き、少し言葉を交わした。私がこのアパートに帰らなかったり夜中に抜けだしたりしていることに対しても母は何も言わなかった。大人になった今考えると、言えなかったのではないか、という気もしないでもない。
「私、一緒に生活したい人いるんだけど。アパート引き払ってもいいかな」
私は顔を上げて母のほうを見た。今まで鍵を持たせなかったのは――と察しがついた。そういうことではないかと今までも勘ぐってはいた。だから、合鍵がほしいと無理に言えなかった。けれど、実際に告げられると、輪郭がくっきりし、現実の重みを感じてくらりとしてしまう。私は平静を装う。
「高校卒業するまで学費は出すから、あとは自分でどうにかしてくれる」
母は一度も私の目を見なかった。私も見なかった。それでいいのだ。虐待のある家庭だってあるのは、ニュースなんかで報道されるから、知っている。母は私に関心を持ってくれなかったわけだけど、暴力を振るったり暴言を吐いたりしたことは一度もない。学校にも行かせてくれたし、過不足ない生活もさせてくれた。それで十分ではないか?
私はうなずく。少し動揺はしたものの、それは現状が変化することに対するものであって、不思議と、怒りも悲しみも感じなかった。血も涙もないとは、こういうことなんだろうか。テレビの中の家族の団らんとは、あまりにもかけ離れすぎていて、例えばここで泣きながら反発するとか、本音をぶつけあって理解しあって抱き合うとか、雨降って地固まる、といったようなハッピーエンドは想像できない。とここまで考えて発想の貧困さに我ながらおかしくなる。妙な笑いが込みあげるのを我慢して、いつまでに出て行ったらいい? と聞く。急ぐ必要はないけど、と母は条件を述べ始めた。気まずさとぎこちなさは終始あったが、私達は感情的になることなく淡々と話し合った。久しぶりにまともに話した気がする。たぶん母もそう思ったのではないか。
「離れて暮らしたほうがうまくいくことだってあるさ」
一連の話をすると、慎一はそう言った。その後、慎一は何か言いかけようとして、やめた。視線がどこかを泳いだ。
私は二つのアパートでの生活をしばらく続けた。少しずつ荷物を片付け、慎一のアパートに運び込んだ。それから慎一はほぼ毎日顔を見せた。そして私は高校を卒業し、就職した。私は仕事から帰り家事をこなしご飯を作り、ペーと一緒に慎一の「帰り」を待った。
***
後ろから慎一に抱きとめられ、慎一の胸に体をゆだねる。硬さと柔らかさ、慎一のにおい。きれいにプレスのかけられたシャツの、甘さのない清潔なにおい。滲む感情が、どうかシャツのしみになりませんように。
指先を絡めあい寄り添っていないと怖い、世間の波に押し流されてしまいそうな気がするから。
慎一は言葉の重みも軽さも知っている。くだらない嘘、やさしい嘘は言っても、曖昧にごまかしたり、軽はずみなものの言い方をしたりすることは絶対にない。
それが苦しい時もあった。子供らしい純白の正義感が慎一を切り裂こうとした。だけど、それが彼の誠意なのだということも、時間をかけて理解した。簡単に割り切れることなんて、数少ない。割り切りというのは、心意を隠しているか、考えるのを拒否しているか、どちらかのことが多い。慎一はどんな時でも正直だった。優しさも弱さもずるさも含めて、正直で、苦悩していた。そんな慎一ににくさや切なさを感じながら、そのうち、想うことをやめられなくなった。そこから先にはありがちなロマンスがあって、今、私たちは蔓のように複雑に絡み合っている。
「ひげ、そろそろ剃ったら」
「君、ほっぺに机の跡ついてるぜ。よだれの跡も。ほら、こんなところで寝ないで横になりなさい」
着替えて寝る準備をしている間、どこかへ出かけて来たかと思ったら、買い物に行っていたらしい。ベッドに横になった私に、スーパーのレジ袋から真っ赤なりんごを取り出して見せた。
「剥いてあげるよ」
ペティナイフでするすると器用に剥く。慎一はびっくりするほど手先が器用だ。料理はしないが、紅茶やコーヒーを上手に淹れてくれるし、ちょっとしたお菓子は手作りできる。りんごうさぎだってお手のものだ。その昔、友人と喫茶店をやっていて一通りは勉強したと言っていた。フルーツパフェの盛り付けの美しさが自慢で、そのお店の名物になっていたのだとか。
白い手の甲に真っ赤なりんごの皮が垂れる。指先の完璧かつ優雅な動き、ペティナイフの輝き、リンゴの皮の鮮烈な赤のコントラストに目を奪われる。
その指先が私の髪を梳き、私のために紅茶を淹れ、私の頬に触れる、そう思うとうっとりしてしまう。
「ねえ、幸せだね」
慎一は困ったように笑う。そして、
「あんまり幸せだとね」とぼそりと呟き、「あんまり仲良くしてるとね、神様が嫉妬してどちらかを引っ張って行ってしまうんだ」
赤い皮が、慎一の膝に落ちた。
「幸せに浮かれているうちに、何かのシグナルを見過ごしてしまって、取り返しのつかないことが起こりそうだ」
「怖いの?」
「そうだな」
きれいに剥かれ切り分けられたりんごを、私の口の中に押し込む。しゃくりと噛むと高い熱で乾いた口の中が瑞々しい果汁で満たされる。甘く酸っぱく、どこかほろ苦い味。
咀嚼し、飲み込み、口を開く。すると慎一が絶妙なタイミングでりんごを口に押し込む。いくら食べても、なかなか喉の渇きは癒えず、私は雛のようにりんごのかけらを欲しがった。ひやりとざらつく果肉、噛むたびあふれる蜜、ただ一方的に与えられるだけの存在、である愉悦。慎一の前では、手放しでいられた。慎一のにおいがすれば、どこまでも深く息をすることができた。まるで赤ん坊のように、やわらかい部分をさらけ出すことができた。
食べ終わると、慎一は白湯と薬を持ってきてくれた。私はそれらを飲んで布団をかぶる。
「早く良くなれ」
おまじないの言葉。慎一の手が額に触れ、ひんやりと気持ちいい。私は目をつぶる。
先の見えない関係。だから何だっていうのだろう。
ここは二人の隠れ家だ。ここでひっそりと隠れていれば、神様だって見つけられないはずだ。だから、大丈夫。
こんな時に、これだけ離れていてよかったのかもしれないと思う。私にとってこれからは途方もなく長い。その目が眩むほどの途方のなさが、まばゆい絶望が、きらめくあきらめが、私を楽観的にし、余裕を生む。誰かを待つ時間が、こんなに甘美的だったことがあったろうか? これから先にあるのだろうか。
「じゃあ、行ってくるから」
「うん、気をつけて」
「おやすみ」
慎一の唇が額に触れる。
「おやすみ」
私は耳を澄ます。玄関の扉が閉まって、革靴の音が遠のいて、慎一の気配が消えるまで。