空の玩具
空の玩具
さて、どうすれば宜しいものかと、わたくしは今日も心悩ますのです。
道々、路傍に曼珠沙華が咲き乱れる秋の日が続きます。
曼珠沙華。梵語(サンスクリット語)でマンジューシャカとも申す、妖しの魔魅であるこの花に、異界の招きを覚えるのはわたくしばかりではございますまい。
「やあ、茶柱が立ったよ。鈴子さん」
わたくしが給仕した湯呑みを覗き込み、無邪気な歓声を上げるのは、我が空玩具探偵事務所の所長でおられます。
畳に置かれたスパイダー・コーヒー・テーブルの向こう。
朽葉色に注ぐ陽を背より受け、純白のシャツに漆黒のズボンを穿いた所長・向神清夜は玲瓏なかんばせを和ませるのです。通った鼻筋をくしゃりと寄せて。
名の示す通り蜘蛛の足のような支えを持つ西洋のテーブルに、湯呑みと茶柱。
何ともちぐはぐでございますこと。
けれどそれが、我が空玩具探偵事務所の持ち味とも申せましょう。
事務所兼、所長の自宅でもある此処に長く在るわたくしはようく存じております。
具に思い出そうとすれば、わたくしが秘書として勤め始めて以来、怠る日も無く綴っている日記を見返せば瞭然。
時には色鉛筆を用い、所長の犯した悪戯を、四コマ漫画にして遊ぶくらいの茶目っ気がわたくしにもあるのです。
マニュキアのラメを紙に着彩するときらきら光って、それは綺麗なのですよ?
女ならではの手慰みとお笑いください。
あら、他愛ない申告をしていると、また所長の悪い癖が。
「所長。浮いておいでです」
「おっと、と」
畳の十センチばかり上に浮遊していた所長が、藺草に腰を据え直す。
「いけないいけない、気を抜くと僕は、これだから」
艶のある絹糸のような黒髪を梳き、微笑んでいる。
余り懲りておられません。
生まれながらに携えておられた特殊な能力で、両親より鬼子と忌まれたのも、彼にはどこ吹く風。
ふうわふうわ事務所内を飛び回るのをわたくしが窘めるのはもう、茶飯事でございます。
困った事。子供のような性分でいらっしゃるのですから。
お仕事にもそんなに役立つものではありませんし。
他の使用法に益を見出し、溺れたりして。
その割りには室内に、警察からの表彰状が並んだりしているのは、所長の存外な優秀さを示しているとも言えます。だからこそこの家の維持管理も叶うのです。
今日は依頼も無いままに日が傾き、鴉が夜を運んで参りました。
路傍の曼珠沙華は今も闇の中、息衝いているのでしょうか。
人を招いているのでしょうか?
所長に頂いたネグリジェを着て、わたくしはベッドに横たわっております。
所長は切子硝子の水差しに入った葡萄酒を揺らしながら、宙に浮いています。
ふうわり。
いつもと同じ、優しい笑みが白皙に浮かんでいるのです。
そうしてその笑みのまま、どっぽどっぽどっぽと、わたくしに葡萄酒を注ぎます。
「冷えてきたから、風邪をひかないようにしなくてはね。鈴子さん」
巫山戯て。ネグリジェの絹地に沁みた葡萄酒だけでなく、わたくしの髪や、唇や、肌まで吸う必要が何処におあり?
けれど思わず声を洩らしてしまいます。
その声を、鈴のようだと言って愛おしんでくださる。
この、例えようも無い悦楽を。
どうすれば宜しいのでしょうか。
異界に引き摺り込まれてしまう。
夜毎、わたくしに注がれる葡萄酒と、宙に浮く魔魅に酔わされ虜となってもう久しいのです。
この魔魅とわたくしには葡萄酒めいた色の繋がりがございます。
美しい彼はわたくしのにいさま。
わたくしたちは背徳の美酒に狂った同志。
今宵も空の玩具となります。