少年の息の止め方
人として生きる以上、生命が絶える瞬間は必ず訪れるという甘受しなければいけない運命を、少年がいつ頃から認識したのかを、恐らく彼は知らない。
少年は息を止める方法を幼い頃から知識として備えていた。
それは物心つく前の赤ん坊の頃から「そう」だったのかもしれないし、「それ」が彼にとっての物心だったのかもしれないが、仮にどちらも誤りだったとしても――先天的なものであれ後天的なものであれ、『息を止めると死ぬ』という認識を、幼少期から所持していた少年は他とは異なっていた。
昨今、『若者の犯罪率が――』とニュースや情報番組で真しやかに囁かれているのは、何も今に始まったことではなく、少年が生まれるよりもずっと前の――テレビが製造・販売され、大衆にも一般的になった頃からなのだろうと思う。
規制云々、自粛云々、自主規制云々と、かつてのような自由奔放な創作活動は不可能なようで、およそ今後も徐々に厳格な体制を強いられるはずなのだが、では一体どうしてそのようなことになってしまったのかと言うと、先ず始めに挙げられるのはメディアやネットが一般的になり過ぎたということなのだろう。
そして第二に、それが及ぼす悪影響が甚大なものであると判断した結果なのだろう。
悪影響。
血みどろの過激なドラマや横暴で暴力的なアニメ、平然と身体を痛めつけるバラエティ番組だけでなく、裏社会を描いた漫画や性犯罪を至極当然にやってのけるもの、暴力団体を主としたものから現実を飲み込むほどのリアルに潜む異常まで、それらが与える影響は計り知れないものだろう。
しかし、その少年に限って言えば、彼はそれらをものともしなかった。
むしろ、彼はそれらを人並み以上に愛好し、恋焦がれのように憧れていた。
もしも少年が犯罪を犯すなら、それは悪影響のせいではなく、単純に根から、幼い頃からそういう癖があったからということになるのだろう。
若者の犯罪率が増加の一途を辿る理由が、何も『悪影響』のせいだけとは限らない。
つまりはそういうことだ。
日常に潜んだ異常と現実味のある非日常が何よりも好きで、だからこそ少年は『息の止め方』を誰よりも深く認識していた。
同時に彼は、生命の重さがどれほどのものなのかを理解していた。
だから、彼が過激なドラマや暴力的なアニメ、残虐冷酷な漫画や狂気を滲ませたゲームを好んでいたのは、その変癖の延長でしかなかった。
そう明確に言ってしまうと、その少年の異常性が垣間見えてしまい、自ずと恐怖を伝播させてしまうかもしれないが、彼のためにも一つ訂正しておくとしよう。
少年は異常の中の日常に心底憧憬を抱いていた。
誰もが嫉妬するほどの大恋愛でもいいし、くすりと笑いを誘うユーモラスな戯話でもいい、たわいもない会話でもよかった――少年の心を射る『何か』があるから、彼はそんな異常を愛好していた。
そして何より、少年は救われる話を好む。
息を止めた誰かを救ってあげて欲しいと望み、誰も息を止めることないようにと願った。
暴力の中の太平を。
過激の中の自愛を。
残虐の中の慈悲を。
狂気の中の歓喜を。
優しさを、閑さを、温かさを、慈しさを、愛しさを、可愛さを、幼さを、願いを、望みを、想いを――少年は異常の中に際立つそれを、何よりも替えがたいものとして求めた。
異常だけが綴られるストーリーは、少年にとって何も面白くない、つまらなさと失望と溜息だけを残滓するものだった。
胸につかえた残余感が積もるばかりのそれを彼が好まないのも、そういう理由からである。
しかし、少年は自分の変癖が含んだ矛盾を自覚していた。
異常を好むということは。
異常の中の日常を好むということは。
それは必然的に、誰かが息を止めなければ異常が生まれないということだった。
異常からの救済を願う一方で異常を望むということは、『誰かが息を止めなければならない』ということだった。
優しさを求める少年の心情とは裏腹に、自己が抱える矛盾とそれが孕んだ圧倒的に暴力的な人格を、彼は有していた。
それはまるで世間体を取り繕った仮面の内側に隠したもう一人の醜悪な自分のようで、その汚穢と卑劣さは病的で、息が止まるまで完治することのない病気である。
少年にとっての救いがあるとするならば――少年が辛うじて人間を保っている理由があるとするならば、人の温かさと優しさをどこかで願っているということなのだろう。
トラウマ、という医学用語が何故か前向きな要素を含んだような物言いをされていることに対して、少年は呆れ果てているけれど、あえてその言葉を用いるならば、彼の人格を形成した要因としては『トラウマ』のせいなのかもしれない。
もしかすれば、彼の狂気を宿したドス黒い内側に含まれた成分はそれなのかもしれない。
しかし、前述をのっけから覆すようで悪いが、少年が幼少期から「そう」であったことは確かなので、それは彼のでっちあげた嘘である。
とか何とか言ってしまうから――『トラウマ』をこんな形で用いるからこそ、その意味とは相対的な前向きでポジティブなベクトルを含意してしまうに違いない。
ある意味文化的な風潮を助長してしまう表現になってしまったが、仮にも少年を形成するものがトラウマだけではないということを公言しておくとしよう。
少年は殺人事件を描いた。
それはそれは恐ろしく狂気の沙汰で、常識と常軌を逸脱した、現実にありえてはいけないものばかりだった。
彼の描いた作品の中で何十人、何百人もが息を止めた。
しかし、少年は粗暴な自己を自覚しつつ、それでも描き続けた。
異常を求めて。
非日常を求めて。
凄惨を求めて。
少年が異常性を求める上で、極々身近なそれが『息の止め方』だったのだろう。
この世に生を受けた以上、逃れることのできない運命は、彼にとって最もありふれた異常だった。
そして何より、それを劇的に語ることこそ少年が望む異常でもあったのだ。
最期に彩りを添えたり、劇的でなくとも『激的』であったりするのも、少年は知っていたのだ。
誰しもがそうではないと――大物だろうと小物だろうと、最期は案外あっさりと訪れるのもだと知っていたのだ。
だからこそ、彼は最期をセンセーショナルに、ドラマチックに描きたかった。
そして何よりバイオレンスに、ブラックに――ヒステリーに描く必要があった。
そんな異常の中で待つ幸福を、彼は味わいたかったのだろう。
ある種の逆説的なそれを、少年は体感したかったに違いない。
不幸を幸福に。
貧困を富裕に。
戦争を平和に。
何より、異常を日常に。
少年が秘めた自家撞着を狂乱状態と言われればそうなのだろう。
人格が歪んでいるのかもしれないし、どこかで道を誤ったのかもしれない――人として何かを過ったのかもしれない。
けれど、『息を止める方法』を知っている彼は、『息を止めない方法』を知るためにも異常性を孕んだまま、異常を描き続けることだろう。
自己矛盾しないためにも。
自己統一するためにも。
同一であり続けるために、今日もまた、厚い顔皮の内側に蠢く醜悪と醜態を晒して、異常な世界を描こう。
そして。
その根底にある少年自身の、『本当の自分』を実感するために。
『息の止め方』ではなく、『息の仕方』を探すために。
《あとがき》
前短編である《歪んだ世界の歪》を執筆した経緯を言ってしまうと、《黒猫センチメートル。》を書いた私の歪んだ人格に起因します。
つまり、その歪みこそがそれに繋がったと言えます。
そして、今回の短編では《外れた世界》の作品に繋がっております。
作者がどんな心情心理で殺人事件などという恐ろしい題材を使用しているのか、それを明かした内容でした。
「私は殺人事件を描いてますが、本当は心優しい人間なんですよー!」などと嘯くつもりは毛頭ありません。
しかし、本編でも語っている通り、作者は殺人愛好家ではありません。
異常を好む作者だ、という印象を与える内容ですが、あくまでも求めているのはその中の『優しさ』のようなものです。
まぁ、これは《歪んだ世界の歪》でも語っていることですが。
と言うか、本編中の『少年』が作者であるとは断言できません。
また違う誰かなのかもしれないし、謎の少年を描いた創作物語なのかもしれません。
それは誰にもわからないことです。
それでは、最後までお付き合いありがとうございました。
次回短編の内容は『少年は神様になりたかった話』です。
(いつ投稿することになるかわかりませんけどね)