苺のナイフ
7年前、東北地方のとある刃物店で、一枚の鋼板から一本の果物ナイフが生み出された。持ち手と鞘に苺のレリーフが彫られている以外はこれといった特徴のないナイフ。
この何の変哲もない果物ナイフこそが、私である。
つまり私の誕生は7年前だということになる。
生まれたばかりの私には、私を形造った焔の情熱が宿っていた。やがてそれは刀身の表面で輝く冷光となり、親の手によってコクタンの持ち手と鞘が与えられた。
最後に、親の気まぐれが持ち手と鞘に苺のレリーフを刻んだ。鋼の刀身である私は、その様子を一瞬たりとも逃すことなく注視していた。
そして最後の一画が刻まれて、親が完成を宣言したその瞬間に、私の意識は持ち手と鞘を自分の一部として迎え入れたのである。
かくして、私は一本の果物ナイフとなった。
その後私は店内の奥めいた所に、一緒に生み出された果物ナイフたちと共に並べられた。
1週間後に葡萄のレリーフの果物ナイフが、髭を生やした男に買われていった。その2週間後には舐瓜のレリーフのもの、さらにその一ヶ月後には無花果のレリーフのものがそれぞれ買われていった。
これはまあ、しようがあるまい。彼らは複雑な見た目をしているため、親が最も苦心して刻んだものたちだ。私たち残った者とはデザインの格が違ったのだ。
しかしそれからというもの、私たちを欲する人はなかなか現れなかった。たまに私たちを眺める人はいても、手に取ろうとする人はいなかった。
私たちの鞘はだんだんと埃を被ってうす汚れ、人に見向きもされなくなり、そのまま二年の時が過ぎた。
私が生まれてから二年一ヶ月と三週間後の夏の日、一人の初老の女性が親の店に訪れた。
「果物ナイフはどちらにありますか?」
女性の声に、私は少し期待し、すぐに大きく落胆した。親が指し示したのは私たちの棚の隣、誇らしげに輝く生まれたばかりのナイフたちだった。
女性は私の側で二本のナイフを手に取って眺めた後、ため息をついてまた戻した。小声で数字を呟いていることから察するに、値段が気に入らないようである。
そして彼女は、古びた──値が張るようには見えない私たちに目を向けたのだ。
「苺のレリーフ…」
呟く声が聞こえた直後、彼女の手がぬっと伸びてきて、埃まみれの私を拾い上げた。
彼女はまじまじと私を見つめた。
やがて彼女の手が二年分の埃を払い、二年分の軋みとともに刀身が鞘から引き抜かれた。
久しぶりに触れた空気は新鮮だった。
駆け巡る開放感と昂揚感。表面は埃の中でくすんでいたものの、我が刀身の輝きは、二年前と少しも変わらずに、持つ人の目を照らしたのだ。
こうして私はその初老の女性に仕えることとなった。一端のナイフとしては非常に喜ばしいことだ。最も不名誉なことは誰にも仕えることがないまま、ただ錆び朽ちてゆき一生を終えること。もし主が私を選ばなければ、私はナイフとしての存在意義を示せないままこの世を去ったかもしれぬ。今でも時々考える。残された私の兄弟たちは、無事主を見つけることができたのだろうか、と。
時は流れ流れ、いつの間にか7回目の春を迎えてしまった。
私は今、プラスチックの葉っぱに抱かれ、造り物の苺に寄り添うように横たわっている。
大きなトレーが私の側に置かれ、ガチャリと大きな音をたてた。トレーの上にあるものは、溢れんばかりの苺で飾り付けられた、沢山のショートケーキである。
見るものは全てガラス越し。熱心に中を覗く人の目も、遠くに見える桜の木も、全て濁って見えるのだ。
ピシャッという音が響くと、人々の喧騒までもが遠くにいってしまう。
私の主は苺専門のケーキ屋のチーフだった。主が私を選んだのは、その装飾として適当だと感じたからだろう。
何も物を切ることだけが、ナイフの存在意義ではない。主が私を装飾に用いてくれたということは、私はナイフでありながら芸術の体現として認められたということだ。
だから、主の行動に対する異存はない。
異存はないが、もう飽きた。
私には新たな生活が必要だ。
私はこの身に二度も降り積もった埃を散らしたい。我が情熱の冷光が、いまだこの身に宿っているのかを確かめたい。最後に一度礼を言って、私はここを去る。
*
ガシャン!
足元で大きな音がした。
見ると、飾り物の果物ナイフが床に落ちている。
しまった、手でも当たったのか?お客さんの何人かが驚いた顔でこちらを見ている。営業スマイルで会釈をしながら慌てて拾いあげると、大量の埃が宙を舞った。俺はつい小さく舌打ちをしてしまった。戻そうにも戻せない。ナイフがどう飾られていたのか覚えていないからだ。
まずい、レジでお客さんが待っている。先にレジに行こう。このナイフは後で元に戻せばいい。
俺はナイフをポケットに突っ込んで、レジを打ちに急いだ。
*
真っ暗なポケットの中で、しばらく揺られていた。
揺れが止まった。
「やべ、持って帰っちまった。」
男の声が聞こえる。
誰かが私を掴む。
誰かが私を持ち上げ、光を浴びせ、彼の目の前に掲げる。
誰かが私の持ち手を掴み、鞘も掴み、ゆっくりと引っ張る。
そして私の身体中を、
7年来の風が吹き抜けた。
「…お、いいナイフじゃん」