6話
高野橋先生と僕は、県庁近くの小さなラーメン屋にやってきた。
本当に小さい。十人くらいで満員になりそうだった。
「着いたぞ。ここが最高に美味いんだよな」
「えっと、先生? ここ、本当にラーメン屋ですか?」
「良く見ろよ。らあめんと書いてあるだろ?」
確かに書いてある。書いてあるが、いくらなんでもこれは狭すぎじゃないか?
しかも営業時間をすぎている。今、午後二時で、閉店時間は午後一時になってる。
「あの、先生。言い辛いのですが、営業時間すぎていませんか?」
「ああ、これか。良いんだよ別に」
「えっ? 絶対に良くないですよね?」
「良いから良いから! 入れ入れ」
押し込められる形で、僕は無理やり入店させられた。
お店の中は、僕の想像していた通り、十人くらいしか入りそうにない。
「店長。いつもの二つ頼む」
先生はそう言って、上着を脱いだ。
「いやー、ここで誰かと来るのは久々だな」
「誰かとって、誰かと来ていたのですか?」
「昔はな。もう何年も前の話だけど、先生も浪人していたんだ」
こんなところで意外な事実を知らされた。
「先生もな、昔はお前みたいに受験に失敗して、滑り止めも落ちて、もうお終いだと思ったよ。周りの人間が合格していくのが、たまらなく憎かった。何であいつが受かって俺は落ちるんだって、何度も思ったよ。スーツの話とかされたら、本気で殴ってやろうかと思ったよ」
先生は笑いながら言っているが、一応元生徒指導の頂点だったのだから、それを言っちゃ洒落にならない。
「だから、お前が大学に落ちた時、まるで昔の俺を見ているような気分だったよ。こんな言い方するのは悪いが、お前の家と違って、先生の家はまだ余裕があったから、何とか浪人させてもらえたし、予備校も通わせてもらった」
「もしかして、それを言いたいだけですか?」
僕はちょっとイラッと来たので思わず口に出してしまった。
「悪かった。でも、その予備校の帰りとか、結構ここに来ていてな」
先生の目が少しあさっての方向を見ている。過去を思い出しているのだろうか。
「その時に出会ったんだよ。ある女の子に。あの子のおかげで俺は大学に入学できたと言っても良いからな」
少しドキッとした。もしかして、稟堂みたいな運命云々の子じゃないだろうか。
もし仮にそうだったら、僕は先生に稟堂のことを話してしまうかもしれない。いや、それは多分ないと思うが、口を滑らす危険もある。注意して聞こう。
「先生の志望大学と同じだったんだ。偶然ここのラーメン屋で出会ってな。初めは全然しゃべらなかったんだけど、段々通う内にあっちも俺を意識し始めて、気付けば、俺たちは、しゃべりあう仲になっていたよ」
「あっちも意識してって、先生それどういう意味ですか?」
「何を勘違いしてるんだ? 恋愛の意味じゃなくて、俺のことを分かっていったって意味だぞ? 顔見知りみたい感じだな」
本日二度目の勘違い。
「とにかく、その子と段々、仲良くなってな。一緒に入学しようぜってなったんだよ。でもな」
もしかして、暗い話なのだろうか。事故にあったとか、そう言う話だったらどうしよう。その場合は僕が先生を慰めなきゃいけない。口下手だからあまり上手いこと言えそうにない。
「そいつの両親が俺たちの、いや、俺の行こうとしていた大学に反対してな。結局、県外の良い大学に行っちまったよ」
「そうだったんですか」
少し安心した。安心してはいけないのに。
やはりそういう点で、僕はまだ子どもなのだろう。
「悪いな弓削。こんな暗い話しちまって。お前も頑張れよ。お前は予備校行けないもんな。もし分からない問題とかあったら、俺のところ連絡しろよ。学校終わったらでも、すぐに行くからな」
「先生は、どうして僕にそこまでしてくれるのですか?」
「さっきも言っただろ? お前と俺は似ているんだよ。同じ失敗した者同士だからな」
先生が言い終えた直後、ラーメンが来た。
「お! 来たか! ここのラーメン美味いぞ! 絶対、虜になるぞ」
そこまで言うなら美味しいのだろう。麺を一口すすってみる。
美味い。確かに美味い。麺を噛んだ後、舌に広がる濃厚なスープの味わい。これは味噌だ。盛り付けになっている野菜も新鮮で、塩胡椒の加減が最高に良い。
今まで食べたラーメンで、一番美味しいかもしれない。それとも、先生が僕と同じ思いをしていると知って、気が楽になったからだろうか。僕は、少し複雑な思いでこのラーメンを食べた。
学校に戻って、かばんを取ってきたら、家まで送ると高野橋先生は言うが、僕は断った。理由は聞かれなかった。
先生は寄り道をすると言って僕を夕日の見える海辺に連れて行ってくれた。
夕日を見ながら先生は言う。
「弓削。本当は卒業式に言おうと思ったが、今、言わせてくれ」
少しだけ間を空けてから、先生は言った。
「頑張れよ」
どんな言葉が来るのかと思っていたが、想像以上にシンプルな言葉が来た。
「こんな言葉で悪いな。国語の教師なのにポキャブラリーが乏しいなんて思ってるかもしれないな。覚えているか? 俺が話したこと」
「いきなりそんなこと言われても。先生とは高校一年からの付き合いなわけですし」
「そうだったな。俺の言った最近の若者のポキャブラリーの乏しさって話だ。覚えているか?」
うっすらとだが覚えている。あれは高校二年の現代文の時間だった。
「最近の若者は常にヤバいで済ませる。これはよろしくないことだ」
「え? それヤバくね?」
当時、横の席だった織衣 海斗は冗談交じりに言う。
「織衣。ふざけるな。先生は真剣に言っているんだ」
「……はい。すいません」
クラスからは笑い声が聞こえた。
「何がよろしくないかと言うとだな。美味しいものを食べてもヤバい。まずいものを食べてもヤバい、とにかくどんな状況でもヤバいと使う。ヤバいと言う言葉は、便利だな。でもな。使い続けてみろ。この中には大学に行く者、専門へ行く者、就職する者といるだろう。一番まずいのは就職する者だ。取引先でヤバいなんて言ってみろ。怒られるで済まないぞ。少しでも良いんだ。ヤバいなんて言わないで美味しいとか不味いと言ってみろ。人として生まれてこんなことを言えると言うことは、とても良いことなんだぞ。若い間に自分の脳のポキャブラリーを蓄えておけ。後悔はしない。それだけは言える」
と言った内容だったかな。とにかくヤバいという言葉について話された。
「ヤバいと言う単語の話ですかね」
「覚えていたか。あの時、ポキャブラリーが乏しくならないようにしろって言ったよな」
「言っていましたね」
僕はつまらなさそうに返事をする。何かを忘れている気がするからだ。その何かが思い出せず、つまらなさそうな返事になってしまった。
「あの時、偉そうに言って悪かったな。別に、お前個人に向けて言ったわけじゃないが、やっぱり、いざ、こう言う場になると、何も言えなくなってな」
「気にしないでください。専門的な単語で言われても理解できないと思いますし」
「そうか。そうだな」
先生と僕は、しばらく黙ったままだった。先に口を日開いたのは、先生だった。
「弓削。お前は、他に行きたい大学はあるのか?」
「僕は、県外に出られるなら、県外に行きたかったです。東京、名古屋、京都、大阪のような都会の大学へ。でも、家庭状況を考えると、地元国立の大学が一番安定していたので」
考えごとをしながら先生に自分の深層で思っていたことをポロっと暴露した。だが、今言ったところで何かが変わるわけではない。言っても構わないだろう。
「そうか。やっぱりお前は偉いな」
「何がですか」
「お前は、俺の、自慢の生徒だよ」
いきなりこっ恥ずかしいことを言ってくる。さすがの僕も、考えごとを一度中断して、先生に冷たい態度を取ってしまう。
「答えになってないですよ」
「まあ、深い意味はないから、そんなに気にするな。日も沈みかけてきたな。そろそろ帰るか」
「……はい」
僕と先生は黄色のユニークデザインの車に乗り、学校へと向かった。
結局、この引っかかる何かは思い出せなかった。
つづく
誤字訂正+追記しました。
3月27日