25話
引千切あこや……
高校三年間、担任だった高野橋先生の運命を変えられたのかもしれない彼女。
こんな身近にいたとは思わなかった。
「り、稟堂……、ドア、叩くぞ?」
「いちいち言わなくても良いよ。と、とにかく叩いてみて」
意を決して、ドアをドンドンと叩いてみる。
しかし、反応がない。
「あれ……?」
もう一度叩いてみる。反応が一切ない。
「どうして? ここの住人でしょ? 二〇一号室って」
「どうしたの?」
隣の部屋の住人が不審に思って話しかけてきた。
「あ、あの、二〇一号室の人に話を聞きに来たのですが」
「二〇一号室? あたしの部屋だけど」
「え?」
どうやら勘違いをしていたようだ。
「そこ、二〇二号室だよ。それに、引千切さんはもういないよ」
「え? いないって、どういうことですか?」
「詳しくは分からないけどね。ああ、さくらちゃんが言っていたのは君のことか。あたし、葉夏上ちまき。君たちは?」
「僕は、弓削 玲泉です。彼女は、稟堂 輪廻です」
僕がそう言うと、稟堂は小さく会釈した。
「玲泉くんと輪廻ちゃんね。よろしく。いきなり本題に入るけど、あたしのバイト先に来るんだってね?」
「は、はい。厚かましいですがよろしくお願いします」
僕も会釈をする。
「そんなかしこまらなくても良いよ。それに、まだ店長にも言っていないしさ。ま、店長に言わなくても別に良いんだけど」
「どうしてですか?」
僕の問いかけに、葉夏上さんは目を丸くする。
「あははは……あの人、本当に何も言っていないんだなあ。ま、そんな深く考えなくて良いよ。とにかく、深夜に働くことになるけど、大丈夫?」
「それは分かっています。ええっと、その、失礼ですが、時給は?」
「千円だよ」
時給は千円か。今まで見てきたバイトの中で一番高い。やはり、ここしかないか。
「ちょっと待っていてください」
稟堂と会議をする。
「なあ。ここで良いと思うか?」
「レイセンはどこでも良いって言ってたじゃない。時給も高額だし、ここで良いと思うよ」
やけにあっさりとしている。働き口が決まるからだろうか。
くるりと踵を返し、稟堂から葉夏上さんの方へ向く。
「じゃあ、ここにします。よろしくお願いします」
「了解。それじゃあ、夜、バイト行くときにまた話しかけるから、二人の履歴書書いておいてね。あたし、夜勤明けで眠いから、おやすみ~」
葉夏上さんはバタンと扉を閉めた。
「稟堂、やったな! ついに僕、働けるぞ!」
「そうだね! これで飢え死にすることはないよ!」
胸を弾ませて、階段を一段飛ばしで下りていく。
「それはそうとして、引千切さんがこんなに身近にいたとは思わなかったね」
「そうだな。まさか偶然借りたアパートの二階に住んでいた人が探していた人だなんて思わなかったな」
そこで僕はある仮説にたどり着く。
駅前から適当に跳んで、このアパートの前にやってきた。まるで、何かに引き寄せられるように。
稟堂は運命を変えられる。つまり、運命を変えることが人間同士、引かれあう何かがあるのかもしれない。
それにしても、引千切さんはどこに行ったのだろうか。葉夏上さんも詳しくは分かっていなかった。
ここはやはり管理人である久良持さんに聞くべきかもしれない。
久良持さんに引千切さんのことを聞きに行くことにした。
銭湯へ行ってみると、久良持さんはもういなかった。
「久良持さん、いないね」
「部屋に戻っているのかもしれない。一〇二号室に行ってみよう」
そして、一〇二号室の部屋へやってきた。
「久良持さん、いますか?」
ドアを叩いてみるが、反応がない。
「久良持さん、出かけているのかな?」
「ああ、そうかもしれないな。まあ、いつでも聞けるだろうから良いや。とりあえず、コフタロンに戻って履歴書書こう」
「履歴書書こうって、私も書くの!?」
稟堂が随分と当たり前なことで驚いている。
「そりゃ、葉夏上さん、僕たちの持って来いって言ってたからさ。……もしかして、稟堂は働く気がなかったのか?」
稟堂の方を見ると、ドキッと聞こえた。
「そ、そんなわけ……」
「ドキって言ったよな……」
僕と稟堂はコフタロンへ一度戻る。
部屋の中は、変わっていない。
「ね、ねえ、本当に私も働くの?」
「二人で働けば給料も二倍になるからな」
稟堂は下を向いていた。やはり働く気がなかったらしい。
「あのさ、稟堂は僕一人の給料で食っていけると思っているのか?」
「行けるよ!」
完全肯定しやがった。
だが、今まで時給七百円とかで働いていたから、千円なら何とか行けそうな気がする。
いやいやいや。稟堂に惑わされるな。稟堂も一緒に働けば、先ほども言ったように二倍の給料になる。
まだ多少の贅沢は出来るようになる。
あっ。何をしているんだ。稟堂を簡単に働かせる方法があるじゃないか。
「……肉まん」
「えっ?」
「働けば、肉まんが食えるぞ。廃棄でもらえるぞ」
これで稟堂は食いつくはずだ。
「レイセン、この前廃棄ではもらえないって言ってたよね」
しまった。墓穴を掘っていた。こいつ、肉まんに関しては記憶力が発揮されるな。
「葉夏上さんに相談してみろよ。きっともらえるぞ」
「……本当に?」
食いついてきた。もうひと押しで、稟堂も働かせられるぞ
「ああ、きっともらえるよ。稟堂の肉まんの愛を語れば、きっと葉夏上さんも恐れ戦くよ」
「じゃ、じゃあ……働こうかな」
「そうそう。働いた後に食う肉まんは、きっと最高に美味しいぞ」
稟堂の腹から音が聞こえる。
「ちがっ! これは!!」
顔を真っ赤にして否定してくる。
「ははは、履歴書書き終わったら、証明写真撮りに行くついでに肉まん買いに行こう。バイト決まった記念ってことでさ」
上手く稟堂を言い包めることに成功した。
ある程度の欄を埋めた後、稟堂と一緒に証明写真を撮りに行く。
写真を撮る前に稟堂は
「こんなので七百円もするなら、肉まん七個かった方が良い」
と駄々をこねていたが、これからはタダで肉まんを食べられるとなだめると、あっさりと写真を撮っていた。
肉まんをエサにすれば、簡単に動いてくれるのはありがたいが、少しだけ不安になる。
この会話が悪いやつらに聞かれていて、稟堂を肉まんで釣って、どこかへ連れ去ったりはしないだろうか。
……いや、考え過ぎだろう。
写真撮影が終わった後は、肉まんを買いに近くのコンビニへと足を運び、本当に幸せそうな顔をして肉まんを頬張っていた。
食べ終わると、コフタロンに戻り、履歴書に証明写真を貼った後、夜中まで眠ることにした。
「レイセン、起きて」
誰かがそう話しかけてくる。稟堂だ。
「起きてよ。バイト、初日から遅れちゃうよ」
バイト……? 僕はまだバイトは決まっていない……。
「レイセンってば!」
「はっ」
目を覚ますと、周りは暗くなっていた。時計を見ると、二十一時前だった。
ベットで寝ている稟堂を見て、夢だったことを実感する。
でも、どうして夢の中で稟堂は起こしてきたのだろうか。
そう言う夢を見ることだってあるか。
夢とは逆のシチュエーションで、僕は稟堂を起こす。
「稟堂、起きろ」
きっと彼女は今、誰かが話しかけている。レイセンだ。と思っているだろう。
「起きろよ。バイト、初日から遅れるぞ」
彼女は、バイト……? 私はまだバイトは決まっていない……。と思っている。
「稟堂ってば!」
ここで彼女は目を覚ますはずだ。
起きなかった。
その後、稟堂に馬乗りし、肩を激しく揺らして無理やり起こした。
「何でこんな酷い起こし方するの……?」
「優しく起こしても起きないからだよ」
稟堂はベットの上で大きく伸びをしながら欠伸をしている。
履歴書を持って僕と稟堂は一〇一号室へ跳んだ。
ドアを開けて、二階へ向かうために一度外へ出る。
その際、隣人である久良持さんの部屋の横を通るが、久良持さんの部屋は暗くなっていた。時間も時間なので、もう眠っているのかもしれない。
二階の部屋へ行くためには、一度外に出て、一階住人の玄関口を正面と見た際に、右側面にある階段を上って二階へ上がらなければならないのである。
二階へ上がると、奥の二〇一号室の扉から光が漏れている。
引千切さんがいた二〇二号室は暗闇のままだった。
「葉夏上さん、こんばんは」
二〇一号室の前で名前を呼んでみると、奥からドタドタと聞こえた後、扉が開いた。
「やっ、もう来たのか。ああ、そう言えば時間言ってなかったもんね。ごめんごめん」
「何時からなのですか?」
「今二十三時だから、あと一時間くらいあるかな。日によってバラバラなんだ。立ち話もなんだ。中には……いや、レイセンくんは男の子だからちょっと困るな」
ここの住人は、男子禁制なのじゃないだろうか。
三月と言えど、真冬の寒さが残る屋外で暖かいコーヒーを飲みながら、人生二度目となるアルバイトまでの時間を過ごすことになった。
僕と稟堂の出会いを、葉夏上さんに話した。
「へえ、輪廻ちゃんとレイセンくんはそんな運命の出会いを果たしていたのか」
「そう言うことですね」
否定するのも面倒なので肯定しておいた。
「レイセンっ!」
稟堂も顔を真っ赤にしているが、その稟堂を見て葉夏上さんは笑った。
「はははは、輪廻ちゃんも照れることないよ」
「てっ、照れてなんかいませんっ!!」
赤面しながらその発言をしても、説得力に欠ける。
「おっ、もうこんな時間か。それじゃあ、バイト行こっか」
葉夏上さんに連れられて、僕と稟堂はアルバイト先へ向かった。
つづく
久良持アパートの住人は全員いつか出す予定でしたが、ここまで早く出すことになるとは思いませんでした。
実は、葉夏上は出す予定ではなかったのですが、出させてもらいました。
完全に行き当たりばったりになってきています。
ふと書いていて思いましたが、このままだと玲泉や輪廻は完全なる夜型人間になってしまいますね。
なるべく通常の、人間らしい生活を送らせたかったのですが、ちょっと無理そうです。
この話で翌日にする予定でしたが、次回から翌日にします。




