18話
「久良持さん!」
久良持 さくらとマジックで書かれた札が貼られている扉をバンバンと叩く。ドタドタと足音が聞こえた後、久良持さんが半開きの扉から、目だけ出して見てくる。
「ん? おうおう、お早いお帰りですこと」
「何ですかあれは! ものすごい汚いじゃないですか!」
少し声を強めにして久良持さんに話す。
「そんなに汚かった? 家賃二千円なんだからそこは見逃してよ? ね?」
「いくら二千円でも、あれはないですよ!」
段々自分自身でも気付かない内に感情的になっていた。
「まあまあ、落ち着いてよレイセンくん」
「落ち着けるわけないじゃないですか!」
ついカッとなり、ついに怒鳴ってしまう。
顔が半分以上出ていなくて、右側の五分の一ほどしか見えてない久良持さんに誠意など微塵も感じない。やはり、ここで借りたのは失敗だっただろうか。
そう思った直後。
「あっ、そうだ。じゃあ。罪滅ぼしに一緒に掃除してあげるよ」
「掃除?」
「私の部屋に、掃除道具あるから一緒に掃除しようよ。ああ、これは良い。楽しそう!」
話の主導権を完全に持って行かれた。話そうにも勝手に話を進めるため、何も話せない。
「君たちの愛の巣を綺麗にするのも悪くなさそうだからね! じゃあ、早速行こうか!」
「ま、待ってください!」
勝手に話を進めて、勝手に行動するとても行動力のある人だ。
稟堂もあまりの行動力と対話力に唖然としていた。
掃除道具一式を持ってきた久良持さんが一〇一号室前に到着し、扉を開けた。
「ありゃりゃ……こりゃ文句言われても仕方ないなあ」
久良持さんが、僕らの部屋を見て最初に言った言葉だった。
「玄関もよく分からないけど濡れてるし、これは、相当すごいよ」
「あ、それはさっき」
「レイセンっ!」
赤面している稟堂が僕を睨んでいる。
「さっき?」
「……ぼ、僕が、あまりの汚さに驚いて、涙が出てしまったのです」
唐突に思いついたすぐにバレそうな嘘を吐く。
「へえ。レイセンくん意外と涙もろいんだね」
信じてもらえるとは思わなくて、躊躇したが、稟堂のためだ。
「さて、どこから攻めようか……」
「裸足になると汚れるので、土足で掃除して良いですよ。綺麗になったら脱ぎましょう」
「よし! じゃあまずは窓を開けよう! 手前の窓と左側の窓を開けるんだ!」
しかし、誰も開けに行く気配がない。
「行け! レイセンくん!」
「ええ! 僕? 仕方ないなあ……」
土足で自分の家に足を踏み込む。粘着力のありそうな謎の物体が靴底にへばり付く。
土足で、居間であったはずの場所に踏み込むと、粘着力があるわけでもなく、むしろかなり滑る。思い切り足を踏み外し、重心が大きくずれてしりもちをつきそうになる。
「危ない!」
稟堂が叫ぶと、稟堂と久良持さんが支えてくれた。
「間一髪だったね。レイセン」
「あ、ああ……」
彼女ら二人が、僕を支えてくれなかったら、今頃この謎の物体に体を預けていたことだろう。
「さあ、怯まないで、窓を開けるんだ! レイセンくん!」
「い、言わなくても、開けますよ」
ゆっくりと一番近くにある窓へと近づき、鍵を下ろす。
しかし、窓が開かない。
「あれ? 開かない?」
「もしかして、長いこと開けてなかったから壁と一体化しちゃったのかな?」
「ああ、そうかもねえ。輪廻ちゃん鋭いところ突くね」
女性二人は玄関部分でありえない話をしているが、僕はいつ滑ってもおかしくない状況に置かれている。半泣きで彼女たちに助けを求める。
「そんなことありえないから! 二人とも手伝ってよ!」
「手伝いたいけど、誰か転んだら、終わりなわけだし……」
僕の問いかけに、稟堂は言い訳をする。
「レイセンくん! そこの窓がダメなら、もう一つの窓を開けてみて!」
久良持さんが叫ぶので、壁伝いに左側にある窓へと進む。
もう一つの窓の鍵を開けて、思い切り力を込めて窓を開けると、あっさりと空いてしまい、大きくバランスが崩れてしまう。
「わ、わ……わわわ」
ここで倒れたら、この謎の物体に体を侵食されてしまう。
そんなことは絶対に嫌だ。
それならどうする? 踏ん張るしかない。
「レイセン!」
だが、遅かった。
僕は、思い切り尻もちをついてしまった。
「ありゃりゃ……派手にやっちゃったねえ」
「は、派手にやっちゃたねで済まないですよ! どうしてくれるんですか!」
涙を流して、何もしない女性二人に訴える。
「まあまあ、男ならこれくらいで泣いちゃダメだよ。それくらいの汚れなら、あとは更に汚れるか、綺麗になるかの二択なんだからさ」
実は、このヌルヌルの正体は、カビが繁殖し、キノコの成長を促進させ、その胞子が、この部屋の気候条件に合わせるために、新たな進化を遂げたものだった。
つまり、部屋中にビッシリと広がっているヌルヌルの正体は、特別の状況下で成長した特別な超極小キノコの体液なのだ。もちろん、学界では発表されていないので、報告をしていれば、それなりのお金も貰えたであろう。
しかし、僕たちは、それに気付いていない。
「よーし! とにかく窓は開いた! 次はブラッシングするよ!」
そう言うと、久良持さんは部屋中に水をばら撒いた。
「冷たっ! 僕がいるんですよ! 見えてますか!?」
「レイセンくん! ブラシを受け取れ! 掃除の時間だ!」
全く聞こえていないようだった。
水を撒いた後、すぐにブラシを投げてきた。
「ええい! もう自棄だ! 徹底的に綺麗にするぞ!」
僕と久良持さんは自暴自棄になって掃除をした。
自分たちが汚くなる代わりに、部屋が綺麗になって行く。
途中で、何度か久良持さんと目が合うと、毎回、笑顔で答えてくれていた。
「レイセンくん! 見てこれ!」
床の汚れがなくなり始めた頃に久良持さんが僕を呼ぶ。
「何ですか?」
「これ、気付いてた? キノコだよ!」
部屋の隅にエノキのような細いキノコが生えていた。
「へえ、キノコが生えて……って! キノコ生えるくらいこの部屋、誰もいなかったんですか?!」
「いやあ、ここに暮らして結構経つけど、私もこの部屋には、初めて入ったよ。まさかこんなところ借りる人いると思わなかったし、掃除も全くしなかったからさ。あははは」
久良持さんは汗を拭いながら笑っている。こうしてみると、久良持さんは母性が溢れていないと言うわけでもない。
「笑ってる場合じゃないですよ。キノコが生えるってことは、相当汚いってことですよ」
「まあまあ、これも生命の神秘だよ。レイセンくんも、しっかり勉強しなよ」
「……はい」
勉強……か。本当は、僕も大学に行っていたんだろうな。
そう言えば、稟堂も言ってたっけ。お父さんに着いて行っていたら、僕は、幼なじみと一緒に、同じ高校へ行って、僕の行こうとしていた大学よりも上の大学へ行っていたって。
「ん? もしかして、悪いこと言っちゃったかな?」
「あ、いえ。別にそう言うわけじゃ……ない、です」
つい、嘘を吐いてしまう。
しかし、僕の顔に出ていたのか、嘘はすぐに見破られた。
「そうも見えないけどね。何か辛いことあったら、包み隠さないで言った方が良いよ。まだ会って数時間しか経っていないけど、私で良かったらさ、相談にも乗ってあげるよ」
久良持さんの優しさは嬉しい。
でも、甘えるわけにはいかないんだ。
「いえ、本当に大丈夫です。心配かけて、すいません」
「んーん。気にしなくても良いよ。言いたいことや、言いたくないことなんて、人それぞれだもんね。さ! もう少し頑張ろうか!」
「はい!」
僕と久良持さんは懸命に掃除をした。
そして、日も傾いてきた頃に、あの汚かった部屋が、見違えるほど綺麗になった。
「……綺麗になりましたね」
「いやー。これ、もしかすると私の部屋より綺麗なんじゃないのかな」
「久良持さんの部屋、そんなに汚いんですか?」
冗談交じりで聞いてみる。
「レイセンくんは男だから絶対に見せることはできないね。輪廻ちゃんは別だけど」
「男女差別じゃないんですか。あれ? そう言えば、稟堂は?」
掃除に夢中で、全く気付かなかったが、稟堂がいなくなっていた。
「輪廻ちゃんは、この辺の地理を覚えるとか言って散歩に行ったよ」
「あいつ、僕たちに掃除させておいて自分は散歩だなんて、良い身分だな」
「良いじゃないか。それにしても、こんなに服とか体が汚れるとは思わなかったなぁ」
久良持さんの方を見てみると、腕をまくっているので、細い腕が露わになっている。着ていたセーターもかなり汚れていた。
「久良持さん、大丈夫ですか? かなり汚れてますけど」
「これくらい平気だよ! あ、そうだ。どうせならこれから銭湯行こうよ! 時間も時間だから一番風呂入れるよ!」
「で、でも僕、着替えとかお金が」
「お金なんかいらないよ! 服は私の貸してあげるから!」
ここの住人だからお風呂などもここを使って良いのだろうか。しかし、流石に申し訳ない気もする。
「でも、そんなの悪いですよ」
「……レイセンくん。人の好意は素直に受け取らないと、女の子に嫌われちゃうよ?」
「い、いや、別に断ってるわけじゃないんですが……」
顔を赤らめて下を向いていると、久良持さんは僕の手を掴み、自分の部屋である隣の一〇二号室前へ移動する。
「よし! じゃあ、銭湯へレッツゴー!」
久良持さんは、すぐに部屋に入り、着替えを持ってきた。
数分後、半ば無理やり、銭湯という名の風呂場へ連れて行かされた。
つづく
編集+誤字訂正しました。 4/17




