5
「よう」
俺の声に気付いた月乃は、休憩室のベンチに座ったまま、窓の外に向けていた顔をこちらに向けた。
「ああ……晴司」
「こんなところでどうしたんですか? “柊部長”」
月乃は手を口元にやり、クスクス笑った。
「何よそれ。私は今休憩中。いつも通りでいいわよ」
「そうかいそうかい。なら、そうさせてもらうよ、月乃」
それを聞いた月乃は、いつも通りの微笑みを向けてきた。
「……窓の外を見ていたのか?」
「ええ……」
俺は、月乃の隣に座り、月乃が見つめていた景色を見た。
その景色には、たくさんのビルが列を作っていた。下を見れば、灰色の道を車と人が行き来する。緑は少なく、空は狭い。
それでも上空は青く染まり、雲がなだらかに空を泳いでいた。
「凄い眺めだな……街が一望できる」
「そうね……」
「これが、お前が今見ている景色なのか?」
「そうよ……」
「どんな気分だ?」
「別に……」
「………」
月乃は、何か物寂しげな視線で外を見ていた。
「どうしたんだ? 何かあるのか?」
「………」
「言いたくないなら無理して言う必要はないけどな。でも何かあるなら、少しでも話したほうが楽になるぞ?」
月乃は、さらに少しの間黙り込んだ。でもその口はわずかに動いており、何かを口に出そうとするも、躊躇するように見えた。
「……私は、このままでいいのかなって」
「このままって?」
「日本に戻って、この会社に就職して、上に上に昇って……でも、これでいいのかなって」
「今の環境が不満なのか?」
「どうだろう……よく分からないわ」
「学生の時と違って、この会社ではお前の能力をみんなが認めているんだ。だからこそ、お前は通常じゃあり得ない地位にいる。お前の、努力の成果だ。
……それでも、不満なのか?」
「……そうね。不満とかではないわ。今の仕事だってやりがいはあるし、自分の能力を発揮できる場所だって思う。
でも、何か物足りない気がする。どれだけ業績を伸ばしても、どれだけ難しい商談を成功させても、どこか心に穴が空いてる気がする。
それがどうしてなのかなんて分からないわ。それでも、どこか虚しさが漂うのよ……」
「………」
月乃の目は虚ろだった。そんな目で、自分の力で登り詰めた今の役職に不満はないと言った。
(それなら、その目の理由は何だ? 何がお前にそんな目をさせる?)
……今の俺には、その理由が分からない。それが、やけに悔しかった。
「……ほら」
月乃にコーヒーを渡した。
「何これ……」
「見てわからないのか? コーヒーだよ」
「そうだけど、私、ブラックはちょっと……」
俺が買ったのは、ブラックコーヒーだった。以前、千春さんにもらったものと同じもの。
「前にさ、千春さんが言ってたよ。その苦さが、大人になることだってさ」
「大人に……」
「俺もさ、未だにこれをすんなり飲めないんだよな。もしかしたら、俺はまだ、大人になりきれていないのかもしれない」
「………」
「毎日スーツを着て、会社勤めして、暑かったり寒かったりする中を歩き回って、居酒屋に行って……少しは大人になったと思ってたんだけどさ。
これを飲む度に思うんだよ。俺もまだまだだなって。
俺はな、大人になることってのは、自分一人で生活して、世間の荒波にもまれて、世の中の酸いも甘いも経験することだって思ってたんだよ。
……でも、あの時千春さんが言ってた“大人になる”ってのは、もしかしたらもっと別のことなのかもしれない。それは、俺が想像すらしていないことなのかもしれない。
そう思うと、俺が未だにコーヒーに慣れないのも、何となく納得してしまうんだよ」
俺はグイッとコーヒーを飲んだ。それを見た月乃も、目を閉じて、我慢をするように目をしかめながら、両手で持ったコーヒーをコクッと一口飲んだ。
「……苦いな」
「……そうね」
確かに苦かったが、俺と月乃は自然と笑い合った。
「今は、無理して答えなんて探す必要なんてないんだと思う。俺とお前には、それぞれの環境、立場があって、今はお互いにそん中で自分の歩く道を探している最中なんだよ。きっと。
答えは見つからないかもしれない。いつまでも気付かないかもしれない。
それでも、俺たちは前に進んで行くんだ。立ち止まらずに、前を見続けるんだ。
その道は、お前も俺も一人じゃないんだ。職場の仲間もいる。そして、俺にはお前が、お前には俺が、それぞれの悪友がいるんだ。
……月乃、前へ進め。凡人の俺の分まで、超人のお前は、前に進め」
「晴司……」
月乃は、手の中にあるコーヒーを見つめた。そして深呼吸して、一気に飲み干す。
その姿は、あの日の俺のようだった。
「……なかなか、美味しいじゃない」
月乃は、少し涙目になっているように見えた。
「強がるなよ」
「……ふん」
月乃は立ち上がり、空き缶をゴミ箱に入れた。
「それでは、明日を楽しみにしています。“楠原さん”」
「……了解です。“柊部長”」
俺と月乃は、お互いに笑みを浮かべながら見つめ合った。そして、月乃は視線を外し、颯爽と歩き去った。
俺もまた、残ったコーヒーを一気に飲み干し、下で待つ二人の元へ戻り、バーコードが待つ会社へと戻った。