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とある喫茶店の平穏とは言えない日常  作者: 井平カイ
楠原晴司、二十四歳、春
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「よう」


 俺の声に気付いた月乃は、休憩室のベンチに座ったまま、窓の外に向けていた顔をこちらに向けた。


「ああ……晴司」


「こんなところでどうしたんですか? “柊部長”」


 月乃は手を口元にやり、クスクス笑った。


「何よそれ。私は今休憩中。いつも通りでいいわよ」


「そうかいそうかい。なら、そうさせてもらうよ、月乃」


 それを聞いた月乃は、いつも通りの微笑みを向けてきた。


「……窓の外を見ていたのか?」


「ええ……」


 俺は、月乃の隣に座り、月乃が見つめていた景色を見た。

 

 その景色には、たくさんのビルが列を作っていた。下を見れば、灰色の道を車と人が行き来する。緑は少なく、空は狭い。

 それでも上空は青く染まり、雲がなだらかに空を泳いでいた。


「凄い眺めだな……街が一望できる」


「そうね……」


「これが、お前が今見ている景色なのか?」


「そうよ……」


「どんな気分だ?」


「別に……」


「………」


 月乃は、何か物寂しげな視線で外を見ていた。



「どうしたんだ? 何かあるのか?」


「………」


「言いたくないなら無理して言う必要はないけどな。でも何かあるなら、少しでも話したほうが楽になるぞ?」



 月乃は、さらに少しの間黙り込んだ。でもその口はわずかに動いており、何かを口に出そうとするも、躊躇するように見えた。




「……私は、このままでいいのかなって」


「このままって?」


「日本に戻って、この会社に就職して、上に上に昇って……でも、これでいいのかなって」


「今の環境が不満なのか?」


「どうだろう……よく分からないわ」


「学生の時と違って、この会社ではお前の能力をみんなが認めているんだ。だからこそ、お前は通常じゃあり得ない地位にいる。お前の、努力の成果だ。

 ……それでも、不満なのか?」


「……そうね。不満とかではないわ。今の仕事だってやりがいはあるし、自分の能力を発揮できる場所だって思う。

 でも、何か物足りない気がする。どれだけ業績を伸ばしても、どれだけ難しい商談を成功させても、どこか心に穴が空いてる気がする。

 それがどうしてなのかなんて分からないわ。それでも、どこか虚しさが漂うのよ……」



「………」


 月乃の目は虚ろだった。そんな目で、自分の力で登り詰めた今の役職に不満はないと言った。


(それなら、その目の理由は何だ? 何がお前にそんな目をさせる?)


 

 ……今の俺には、その理由が分からない。それが、やけに悔しかった。



「……ほら」


 月乃にコーヒーを渡した。


「何これ……」


「見てわからないのか? コーヒーだよ」


「そうだけど、私、ブラックはちょっと……」


 俺が買ったのは、ブラックコーヒーだった。以前、千春さんにもらったものと同じもの。


「前にさ、千春さんが言ってたよ。その苦さが、大人になることだってさ」


「大人に……」


「俺もさ、未だにこれをすんなり飲めないんだよな。もしかしたら、俺はまだ、大人になりきれていないのかもしれない」


「………」


「毎日スーツを着て、会社勤めして、暑かったり寒かったりする中を歩き回って、居酒屋に行って……少しは大人になったと思ってたんだけどさ。

 これを飲む度に思うんだよ。俺もまだまだだなって。

 俺はな、大人になることってのは、自分一人で生活して、世間の荒波にもまれて、世の中の酸いも甘いも経験することだって思ってたんだよ。

 ……でも、あの時千春さんが言ってた“大人になる”ってのは、もしかしたらもっと別のことなのかもしれない。それは、俺が想像すらしていないことなのかもしれない。

 そう思うと、俺が未だにコーヒーに慣れないのも、何となく納得してしまうんだよ」


 俺はグイッとコーヒーを飲んだ。それを見た月乃も、目を閉じて、我慢をするように目をしかめながら、両手で持ったコーヒーをコクッと一口飲んだ。



「……苦いな」


「……そうね」



 確かに苦かったが、俺と月乃は自然と笑い合った。



「今は、無理して答えなんて探す必要なんてないんだと思う。俺とお前には、それぞれの環境、立場があって、今はお互いにそん中で自分の歩く道を探している最中なんだよ。きっと。

 答えは見つからないかもしれない。いつまでも気付かないかもしれない。

 それでも、俺たちは前に進んで行くんだ。立ち止まらずに、前を見続けるんだ。

 その道は、お前も俺も一人じゃないんだ。職場の仲間もいる。そして、俺にはお前が、お前には俺が、それぞれの悪友がいるんだ。

 ……月乃、前へ進め。凡人の俺の分まで、超人のお前は、前に進め」



「晴司……」


 

 月乃は、手の中にあるコーヒーを見つめた。そして深呼吸して、一気に飲み干す。

 その姿は、あの日の俺のようだった。



「……なかなか、美味しいじゃない」


 月乃は、少し涙目になっているように見えた。


「強がるなよ」



「……ふん」


 月乃は立ち上がり、空き缶をゴミ箱に入れた。



「それでは、明日を楽しみにしています。“楠原さん”」


「……了解です。“柊部長”」



 俺と月乃は、お互いに笑みを浮かべながら見つめ合った。そして、月乃は視線を外し、颯爽と歩き去った。



 俺もまた、残ったコーヒーを一気に飲み干し、下で待つ二人の元へ戻り、バーコードが待つ会社へと戻った。


 

  

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