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あの日から7年。
俺は、前に進めているのだろうか……
春爛漫。
空には朧雲が浮かび、太陽はポカポカとした木漏れ日のような日射しを向けてくる。風は暖かな空気を運び、厳しかった冬の終わりを喜んでいるようだ。
夏の暑さも冬の寒さも嫌いな俺もまた、その中間とも言えるこの季節を待ちわびていた。
スーツに身を包んだ俺は、満開の桜が咲き乱れる通いなれた通勤ルートを通り、いつものちっぽけな会社に向かう。
二十四歳になった俺は、会社勤めもすっかり板についた気がする。さすがに七年も勤めればそれなりに仕事を覚えるものだ。
考えてみれば、七年というのは実に長い。
生まれたばかりの赤ちゃんは小学生になり、小学生になった子供は中学生になり、中学生になった子供は高校を卒業している。
それほどの期間であるにも関わらず、俺にとってのこの七年は、実に一瞬のことだったように思える。
光陰矢の如し。そういう言葉はよく聞くが、実際には光陰光の如し。
一瞬にして経過したかのように思えるこの七年間は、まるでタイムスリップでもしたかのような感覚に陥る。
そんなことをボンヤリと考えながら、俺は会社へと足を運んだ。
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「おはようございまーす」
俺は毎度毎度の呪文のように朝の挨拶を行う。“開けゴマ”のような?
呪文を唱え終えた俺は席に座り、ノートパソコンを起ち上げる。
「楠原さん。おはようございます」
そう言って俺の席にコーヒーが置かれる。これもまた日常の光景である。
「サンキュ、夕香」
「いいえ。あ、前みたいにパソコンに零したらダメですよ」
夕香は指を立てながら注意する。というのも、先日俺はコーヒーをパソコンに零してしまい、危うくオシャカにしてしまうとこだった。
「晴司さんはオッチョコチョイだからね。きっと期待に応えてくれるよ。今にポタッとコーヒーを……」
軽い口調で話してきたのが、少しチャラそうに見える男性。
「宗助……なんちゅう期待してんだよ……」
「いやいや、そこでするのが晴司さんなんすよ」
「でも、本当しそうですよね、楠原さんって……」
「お前らな……」
この二人は、間もなく入社一年になる新人くんたちだ。俺の会社では、入社した者は、一年間は先輩に付いて働くことになっていて、この二人を担当したのが俺だ。
最初の方はタジタジだった二人も、今ではこの通り、可愛げもなく軽口をたたいてくる。
それでも、二人の評価は上々だった。仕事の飲み込みも早く、応用力もある。きっと、そのうち出世していくことだろう。そんな二人を指導してきた俺は、密かに誇らしく思ってきた。自分が一から教えた人物が周囲に認められるのは、ヒナが巣立つ時の親鳥の心境に似ている気がする。
そんな二人も、来週で入社一年を迎える。二人が、巣立つ時が来たのだ。
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仕事終わり、俺たち三人は近くの居酒屋に来ていた。
こうして三人でテーブルを囲み、ご飯をつつくのも何度目だろうか……
「お前らももうすぐ独り立ちだな……なんだか感慨深いよ」
「もう楠原さん……親父クサいですよ?」
「夕香、晴司さんは“年上”なんだから仕方ないだろ?」
「宗助、お前はその一言多いのがいつも余計だぞ? あんまり日頃からそんなことばかり言ってると、その内仕事でも言ってしまうぞ?」
「はいはい、その説教も聞き飽きたっすよ」
「……お前、俺の話聞いてないな?」
「まあまあ楠原さん。宗助も分かってますよ」
「夕香、あんまし宗助を甘やかすなよ。コイツはすぐ調子乗るんだからな」
(とは言っても、なんだかんだで最近の営業はコイツらに任せてるからなぁ)
実際コイツらの飲み込みの良さは脱帽ものだ。同期の奴らの中では上位クラスだろう。
……だからこそ、心配なこともある。
優秀な人物は、失敗をあまりしたことがない。それは、ある種の経験不足とも言える。成功よりも失敗の方が学習することが多いのは周知の事実である。
そういう意味では、この二人の経験不足は特に顕著かもしれない。
何をしても優秀というのは、諸刃の刃なのかもしれない。
……もっとも、その例外があることを、俺は知っている。
それが、某超人四名だ。
奴らは高校時代の知り合いで、ほぼ全てにおいて完璧を誇っていた。それぞれが欠点やら弱点と呼べるものを持ってはいたが、他の有り余る能力で、そんなマイナスステータスを帳消し以上にしていた。
そんな超人たちと過ごした時間は楽しくはあったが……その分、疲れることが多かった。
(ま、アイツらと比べるのは、さすがに酷だろうな)
ふと、夕香がどこか照れながら話してきた。
「……でも、楠原さんには本当に感謝しています。何も分からない私たちに、丁寧に教えてくれて……
こうして独り立ち出来るのも、楠原さんのおかげです。
本当にありがとうござました」
夕香は、深々と頭を下げた。
それを見た宗助も、笑みを浮かべ話す。
「確かに、楠原さんのおかげっすよ。俺がこうして一年間頑張れたのは、指導員が晴司さんだからだったような気がします。
ありがとうござました」
……少し、恥ずかしくなった。
でも、それを表に出すのはマズイ。何というか、先輩の威厳として。
「……お前ら、一応まだ独り立ちじゃないんだからな。あんまし気を抜くなよ?」
そんな俺を見た夕香は、小悪魔のような微笑みを見せた。
「あれ? 楠原さん、もしかして照れてません?」
「あ、ホントだ! 晴司さん照れてる~」
(うぐ……バレてる……)
それから、俺はいじられ続けた。
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「じゃあ晴司さん! 夕香!」
「おう! 気を付けて帰れよ宗助!!」
「宗助! 遅刻しないようにね!」
宗助は、一足先に帰って行った。俺と夕香は宗助に手を振り、見送った。
残された俺と夕香は、二人で歩いていた。周囲は暗く、星や月がよく見える。
そんな道を女性一人で帰らせるわけにはいかない、ということで、夕香を家まで送ることにした。
帰り道の道路は、植えられた桜の花が咲き誇り、そのピンク色の花びらが風に乗ってユラユラと夜を漂っていた。
暗い夜道に、鮮やかな桃色の色彩が散らばるその様子は、それ自体が一つの芸術品と言えるのかもしれない。
俺は、そんな夜桜を見つめながら歩いていた。
「……私、本当にもうすぐ独り立ちするんですよね」
夕香は少し俯いたまま話し始めた。
「今更何言ってんだ。……急にどうしたんだよ」
「いや……思い返したら、ちょっと寂しくなっちゃいまして……」
夕香は照れるようにはにかんでいた。でも、その目は言葉通り、寂しさに霞んでいるように見えた。
「……口うるさい俺がいなくなるんだ。もっと喜べよ」
「そんなことないです!!」
夕香は急に大声を出し、俺の前に小走りで回り込んだ。そして、熱を帯びた視線を送りながら続けた。
「私、楠原さんには本当に感謝してるんです!! 丁寧に教えてくれて、分からなくて困っていたら後ろから声をかけてくれて! そのおかげで、今は色んな人に仕事ぶりを褒められてます!
――楠原さんに指導してもらえて、私は本当に幸せです!!」
「褒め過ぎだよ。俺は基本を教えただけで、特別なことは何もしちゃいない。全部、夕香たちの努力の結果だよ。
……よく頑張ったな」
「あ……」
夕香は、視線を下に落とした。でも、落ち込んでいるわけではなさそうだった。
しばらく黙り込んだあと、夕香は少し躊躇うように小さく声を出した。
「……あの、楠原さん。仕事とは関係ないことなんですけど……」
「ん? どうした?」
「楠原さんって、その……付き合ってる人とか、いるんですか?」
「……いないよ」
「ほ、本当ですか!?」
夕香は、今度は声を上げて視線を俺に向けた。
「そんなことで嘘つかねえって」
「……そう、ですか」
夕香は胸を撫で下ろしていた。そして、眩しいくらいの笑顔を見せた。
「――私の家、すぐそこだから帰りますね!」
そう話した夕香は、桜が舞う夜道を駆け始めた。
「お、おい夕香!!」
「楠原さん!! また会社で!!」
俺の呼びかけに立ち止まることなく、夕香は手を振りながら帰って行った。
(……付き合ってる人、か)
俺は、誰とも付き合っていなかった。
月乃が旅立った日から約7年が経過した。
……俺は、結局未だに前に進んでいなかった。
そんな自分に嫌悪感を感じながら、ユラユラと桜の花が舞い散る道を歩き、自宅に帰った。