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マスターが亡くなって数日が経った。
葬儀に行ったが、今度は父親も母親も何も言わなかった。ただ静かに会釈だけをしていた。
でも、御両親は視線を合わせなかった。まだ蟠りは解けそうもなかった。
それでも、毎年宗助の墓参りに行こうと思う。いつになるか分からないが、いつかは御両親にきっちり謝罪をしたい。それはマスターが言っていたこととは少し違うかもしれない。でも、これは俺のケジメなんだ。
夏の終わりが見え始めた頃。まだ外の日射しはかなりキツイ。外のベンチに座る俺の脳内は、照り付ける太陽の熱で沸騰するかのようにクラクラとし始めた。ここで倒れたら、誰かが通報して助けてくれることを祈ろう。
さて、なぜ夏の暑さが嫌いな俺が公園のベンチに座っているかというと、とある人物と待ち合わせをしていたからだ。
ずっと一度会っておこうと思っていたが、中々暇がなかったのだが……定休日の本日、ようやく時間が空いたので、午前中だけこの公園で話すことになった。
「――楠原さん、お待たせしました」
ベンチに座る俺の横に、その人物が現れた。
「別に待ってないよ。……久しぶり、夕香」
「久しぶりです」
夕香は、少し痩せていた。
宗助の亡骸を見つけた夕香は精神的に参ってしまい、結局会社を辞めてしまったそうだ。それについては、俺からは何も言えない。夕香の人生は夕香のものだし、会社にいれば色々思い出すこともあるだろう。いても辛いことでしかないのなら、いっそ辞めてしまって別の人生を選ぶことも大切だと思う。
「少し、スリムになったな」
「楠原さん、言葉の選択が可笑しいです」
夕香は、少し微笑みながら言ってきた。少しだけ、元気を取り戻したようだ。
「夕香は、これからどうするんだ?」
夕香は微笑みを維持したまま、俺の目を見て話す。
「私は、実家に戻ります。ここから遠いところなんですけど、地元に帰って、また一から始めます。
……ですので、楠原さんと会えるのは、今日が最後になると思います」
そう話す夕香は、どこか清々しい表情をしていた。夕香の中でも、何かが吹っ切れたように思える。
そう言えば、夕香とはそういう奴だった。心配になることがありながらも、何だかんだで結局自分で解決してしまう。追い込まれても、そこから自分を立ち上がらせることが出来る。そういう、強い女性だった。
そういう意味では、夕香もまた超人なのだろう。
夕香がこういう顔をするときは、俺は何も言うことがない。だから俺は、お決まりのセリフを口にするだけだ。
「そうか! 頑張れよ!」
これぞ、ベタと言える言葉だろう。村人A的なセリフだろう。俺には、それがちょうどいいんだ。
そんなことを考えていると、今度は夕香が俺に質問をしてきた。
「楠原さんは、確かお店を経営してるんですよね?」
「あれ? 何で知ってるんだ?」
「知らないんですか? 楠原さんの喫茶店、巷では結構有名なんですよ?」
「へえ……」
(全然知らなかった……)
俺の知らない間に、どうもあの店は口コミで情報を広げてもらっているようだ。まあ、確かに黎の飯は美味いけどな……
「実は、私一度だけ覗いたことがあるんですよ?」
「え!? そうなのか!?」
「まあ、そこから見ただけなんですけどね」
(本日二度目の、全然知らなかった……)
「……従業員さんの女の人、綺麗な人でしたね」
(黎のことか?)
「まあ……そうだけどな……。しかし夕香、見た目に騙されてはいけない。あいつはな、人間凶器なんだよ。触るな危険なんだよ。色々と勢いで行動するし、俺のことを新マスターとして敬ってないし……とんでもない奴だよ」
すると夕香は声を出して笑った。何がそんなに面白いのか分からないが、とにかく笑っていた。
「楠原さん、愚痴ばっかり言ってますね」
「まあ、アイツに対して思うことはたくさんあるからな」
「そっか……そうなんですね……」
夕香は、急に黙り込んだ。顔は笑顔のままだったが、どこか寂しそうな笑顔にも見えた。
かと思いきや、急に顔を上げた夕香は、唐突に言いだした。
「――楠原さん。実は私、楠原さんのこと好きなんですよ?」
「……いきなりだな……」
「はい。……でも、諦めます。私なんかじゃ、その人には敵いませんから。楠原さんを、そこまで自然な状態にすることなんて出来ませんから……」
「自然な状態?」
「楠原さんは鈍いから分からないかもしれませんけどね……。でも、楠原さんも、そろそろ自分を見つめてみるべきだと思いますよ」
「……分かってるよ」
……正直、全く意味が分からない。
夕香が何を言いたいのか、考えてみても分からないのだが……それを言うと、またバカにされるような気がしたので、少しだけ強がってみた。
「……本当、鈍いんですね。自分にも、他の人にも」
……バレていたようだ。呆れ顔で話す夕香を見て、頭をワシワシをかいて誤魔化す。
そんな俺を見た夕香はクスリと笑い、ベンチを立った。
「じゃあ、私そろそろ行きますね。引っ越しの準備をしないといけませんので」
「あ、ああ……」
それに続いて俺も立ち上がる。
「では、楠原さん。これまで、ありがとうございました」
「こっちこそ、色々迷惑かけたな」
「いえ……それでは」
そう言って、夕香は離れはじめた。
夕香の姿がだんだんと小さくなってくる。そんな夕香の背中を見て、俺は思い出したかのように声をかけた。
「こっちに来たら、店に来てくれよ! サービスするから!!」
夕香は一度だけ振り返り、小さく頭を下げた。そして、そのまま立ち去って行った。
夕香がいなくなった公園で、俺はしばらく立ったまま思考を巡らせていた。
……結局のところ、俺と俺が教えた二人、言うなれば“楠原班”は全員会社からいなくなってしまったことになる。
夕香も宗助も優秀だったし、あの頃三人でいた時には、まさかこんなことになるなんて夢にも思わなかった。俺はいつまでも平社員、夕香と宗助は俺を置いて出世をし、いつしか俺が使われる立場になる……そんなことを考えていた。
それが、たった一度のミスで、全てが狂ってしまった。俺が良かれと思いしたことは、結果として、二人を追い詰めてしまった。その事実は、忘れてはいけない。二人の人生を狂わせてしまったことを、俺はずっと背負い続けていかなければならないんだ。
それが、俺の贖罪だ。
人生を生きる上では、そういったことは割と多いことだと思う。失敗し、反省し、何かを背負う。そうやって、次々と業を背負っていく。それでも進むことで、きっと何かが変わるのだろう。……いや、変わらなければならないんだ。じゃないと、何のために前に進んでいるかが分からない。
躓いても、転んでも、それでも這い上がって、前を向いて、自分の心を奮い立たせ、その道の先にある希望だとか未来だとかに手を伸ばし続けていく。その途中には、きっと楽しいことだってある。嬉しいことだってある。感動することだってある。それを楽しみにしながら、毎日を過ごしていく。
それが、人が生きることだと思う。
(……何を柄でもないことを考えてるんだ、俺は)
自分に対し笑えてしまった。そして、俺もまた公園を後にした。
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その日の夕方、俺は黎と店にいた。
黎の仕込みの作業ということもあったが、この日俺はあることを決めていた。
店名の変更である。
「……よし! これで行こう!!」
看板を新調し、俺の手で描いてみた。本当は業者にでも頼めばよかったのだが、何となく、俺が自分でしたかった。
出来上がった看板を見て、黎が不思議な顔をして呟く。
「“喫茶店『空模様』”? 何だこの店名……」
「色々考えたんだが、これにした」
「どういう意味なんだ?」
「よくぞ聞いてくれた!」
俺は胸を張って黎の方を見る。
「ここには、色んなお客さんが来るだろ? それぞれが色んなことを思いながら、経験しながら、この店に来るんだ。みんな同じような生活をしているように見えるが、実際は全く違う。毎日似た空はあるけど、同じ空はないのと同じだ。それから取った」
「何というか……センスを感じないんだけど……」
黎は納得できないような顔をしていた。
「いいんだよ。俺はこれにしたんだ」
半分やけくそに言い放つ。俺のセンスがないことなんて百も承知だ。だから、いちいち言わなくてよろしい。俺がへこむ。
「……まあ、別にいいけどな。それより、仕込みの手伝いをしてくれよ。明日から新メニューだ!」
黎は裾を捲りながら店に入っていく。
「おお! また明日からも頑張るか!!」
俺もまた、一度体を伸ばして店に入る。
明日から店はまた開く。俺の店。先代マスターから受け継いだ店。
その店は、少しだけ変わったサービスをしている。そしてそのサービスは、何の変哲もない街角の喫茶店を、平穏とは言えない日常へと変えることになるのだが……
それが本格的に始まるのは、もう少し後の話だ。
とにかく、喫茶店『空模様』は、明日も賑わいを見せることになるのだろう。