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とある昼下がり。
桜はすっかり散ってしまっていた。それでも、道路の隅々にはまだ桃色の花びらがたくさん残っていて、歩くたびに風で巻き上げられた花びらが、あの満開の桜吹雪を彷彿させるかのように空間を舞っている。
春風と呼ぶには少し暑い風が辺りを包み、少し走れば汗が全身を濡らしそうだった。
「……こうして、二人でいるのって、どれくらいぶりだろうね」
「そうですね……高校以来じゃ?」
「そんなになるのかな……」
俺と陽子先輩は、町中にあるカフェのテラスで、二人コーヒーを飲んでいた。
まだこの苦味に慣れない俺だったが、普通にブラックを飲む先輩の前で砂糖を入れることを躊躇い、結果、俺は苦汁と化した黒い液体を、作り笑顔で誤魔化しつつ口に流し続けていた。
「でも、驚いたな。晴司くんがコンビニで働いてるなんて」
「少し前の俺だって見たら驚きますよ」
「……でも、理由聞いたら納得。晴司くんって、本当に変わってないんだな……」
先輩は懐かしいものを思い出すかのように話していた。時折笑みを浮かべる先輩は、高校の時の俺のバカな行動でも思い出しているのだろうか。
「……俺も驚きましたよ。先輩がなりたかった仕事を聞いた時とか」
「ハハハ……何か、恥ずかしいね」
先輩は頭をかきながら照れ笑いをする。
そんな俺らに、近づく人物がいた。
その人物たちは高校くらいの女の子たちで、陽子先輩に気付き、話しかけてきた。
「あ! こんなところで何してるんですか!?」
「ああ……キミたち……」
「あれ? そこにいる人って……もしかして……!!」
「……ああ。中学の時の後輩だよ」
「もしかして……初恋の人とか!?」
「ああ、そうだよ」
「キャアアア!!」
歓声を上げる女の子たち。いつの時代も、変わらないものだと実感する。
「では、お邪魔しても悪いので、このあたりで……」
「ああ。気を付けてね」
「はい! “松下先生”!!」
陽子先輩に手を振る高校生。
陽子先輩は、高校の先生になっていた。科目は体育だとか。まあ、文武両道な先輩なら、どんな科目を教えても完璧だろうが、体を動かすのが好きらしく、体育教師になったとか。
陽子先輩は生徒からも慕われているようだった。性格を考えれば当然だが、女子生徒からはお姉さんとして尊敬され、男子生徒からはマドンナとして好意を寄せられているらしい。
面倒見もいい先輩を見れば、天職なのかもしれないと思ってしまう。
それと……
「……そうそう、“彼”が、キミに会いたいって言ってたよ」
「俺に?」
「うん。初恋の人を、見てみたいってさ」
「……なんていうか、変わった人ですね。普通会いたがらないもんですけど……」
「ハハハ。よく言われるよ」
……陽子先輩は、今、付き合ってる人がいる。
そして、もうすぐ結婚するそうだ。
相手は、同じ学校の先生だとか。
最初に聞いた時は驚いた。
実に自分勝手だとは思うが、どこか寂しさも感じている。自分を想ってくれていた人が、他の人と結婚する。その事実が、俺には何か微妙な気持ちを湧き起こしていた。
もしろん、今まで先輩の想いに答えてこなかった俺には何も言えないことは理解している。むしろ、七年という月日を浪費させてしまった俺にとっては、本当に嬉しいことだとも思う。
……それでも、どこか引っかかる気持ちがあるのも、また事実だ。それは理屈じゃない、何かの本能としてあるのかもしれない。
だとしても、今の俺に出来るのは、祝福の言葉を贈ることだけだった。
「先輩、結婚おめでとうございます」
「どうしたのよ、今更……」
「いや、これは一つの礼儀として……」
「分かってるよ。分かってる……」
そう言う陽子先輩は、少し表情に影を落としていた。
「……実はね、私、まだ晴司くんのことが好きなんだ。もちろん、彼もそのことを知ってる」
「え?」
「それを言ったとき、彼、何て言ったと思う?
“キミの初恋は初恋のまま、美しく残し続けてほしい。だけど、僕にもキミを幸せにする自信がある。初恋の人への想いも、今の君の想いも、全部ひっくるめて、僕が包む。だから、結婚してほしい”
……だってさ。まるで、“どっかの誰かさん”みたいなクサいセリフだと思わない?」
先輩はクスクス笑いながら俺を見てきた。
(いくらなんでも、俺はそこまでクサくは……ないよな?)
「そんな彼の気持ちに、私は甘えたくなったんだ。結婚すれば、もしかしたら晴司くんへの気持ちもなくなるかもしれない。
でも、それはそれでいいのかもしれないって思い始めたんだ」
「……そうですか」
「私はここでリタイアだね。後は、あの三人に任せるよ。
……晴司くんが誰と一緒になっても、私は満足だから。だから、晴司くんもしっかり考えてね。
うかうかしていたら、私みたいに誰かに取られちゃうよ?」
「……はい」
そんな俺を見た先輩はクスリと笑い、立ち上がった。そして、いつかの月乃の様に、俺に手を差し出した。
「……晴司くん、今まで本当にありがとう。色々私をドキドキさせてくれてありがとう。
私は、もうすぐ結婚するけど、晴司くんのことを好きなのは、本当だから。
……だから、ありがとう」
「……こちらこそ、先輩に好きになってもらえたのは、一生自慢できます。
本当に、ありがとうございました」
俺は、先輩の手をしっかり握り、固い握手をした。
「……じゃあ、ね」
先輩は手をほどき、歩き去った。
残った俺は、まだコーヒーが残るカップに、砂糖を入れて飲み干した。
……それでも、まだ苦く感じた。
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次のコンビニ勤務、いきなり俺は窮地に立っていた。
「……どういうこと? 星美……」
「今の言葉、聞き捨てならないな」
月乃と黎が、レジに立つ星美を睨み付けていた。
しかし、星美は全く動じない。
「何度でも言いますよ。私は、先輩が好きですから。今一緒の職場にいるのはこの私。一番近くにいるのもこの私。月乃先輩も黎先輩も、さっさと諦めてください」
星美は、この七年間ですっかり気が強くなってしまっていたようだ。高校の時からでは考えられないほど、挑発的に、高圧的に月乃達に宣戦布告していた。
「……星美、しばらく会わないうちに、ずいぶんと強気になったじゃない……」
「アタシらのことも、すっかり忘れたのか?」
「忘れていませんよ。でも、私ももう大人なんです。自分の意思は、自分の口で言います。遠慮なんてしませんし、言いたいことも言わせてもらいます。私と先輩たちは、もう対等なんですよ」
「言ってくれるじゃない……」
火花散る店内。圧倒されるスタッフ。何事かとどよめく他の客。置いてきぼりの当事者俺。
(あの時感じた不安は、これだったか……)
俺は、今の自分に迫る危機をヒシヒシと感じていた。この感覚も久々だ。
久々過ぎて、涙が出そうだ……
プルルルル……プルルルル……
突然、俺のケータイが鳴り響いた。
(ん? 誰だ?)
着信は、知らないケータイからだった。
「……星美、ちょっと電話出てくる」
「……分かりました。ごゆっくり……
その間に、決着つけますから……」
「やれるもんならやってみろよ……」
依然として火花を散らす三人。
(やれやれ……)
俺は溜め息をつきながら店外に出た。
外の風は、もう春の終わりが近いというのに、やけに肌寒かった。月は雲に覆われ、星は姿を消していた。
(嫌な天気だな……)
そんなことを思いつつ、電話に出た。
「もしもし、楠原ですが……」
『………』
「もしも~し?」
電話口の相手は無言だった。
(イタズラ電話か?)
そう思った矢先、電話口の相手は小さく声を出し始めた。
『……楠原、久しぶりだな』
(この声……)
「もしかして、課長ですか?」
『ああ』
電話の相手は、俺が勤めていた会社の課長――バーコードだった。
(なんか、やけに暗いな……)
「どうしたんですか課長。突然電話なんかして……」
『……その様子だと、まだ聞いてないようだな』
「何をです?」
『………』
「課長?」
電話の向こうで、課長は何かを躊躇していた。息を吸い込む音と、それを吐き出す音が交互に聞こえる。
それを数回繰り返したところで、課長は意を決したかのように切り出した。
『……楠原、落ち着いて聞け』
「はあ……」
『……宗助が、自殺した』
「……………え?」