第9話「止まった時間、動き出す涙」
あの公園で、凛々しい父猫から感じ取った、生命の温もりと誰かの優しさが溶け合ったような、力強くも優しいコユカシ。その特別な輝きが、私の魂の奥深くに眠っていた何かを揺り動かしたのかもしれない。それ以来、私の頭の中は時々、まるで壊れた映写機みたいに、生前の記憶の断片を勝手に映し出すようになった。コユカシ案内人は「記憶の扉が開く兆しでございますね。素晴らしいコユカシとの出会いは、時に魂の奥深くに眠る記憶をも呼び覚ますのでございます」なんて、いつもの芝居がかった口調で言っていたけれど。
最初に蘇ってきたのは、他愛のない、でもキラキラとした日常のカケラだった。
まだ私が小学生だった頃、お父さんと二人で作った、ちょっと焦げたホットケーキ。二人で顔を見合わせて笑って、鼻の頭にクリームをつけたお父さんの顔が、やけに鮮明に思い出される。
中学生の頃、初めて友達と行った遊園地の帰りに、駅まで迎えに来てくれたお父さんの、少し心配そうな、でも嬉しそうな顔。私のくだらないお土産話に、うんうんと頷きながら聞いてくれたっけ。
高校生の時、進路のことで喧嘩して、三日間口も聞かなかった後の、気まずい食卓。お父さんが私の大好物のハンバーグを、黙って大盛りにしてくれたこと。
そんな温かくて、少しだけ胸がチクッとするような記憶に混じって、ある特定の日の光景が、何度も何度も、私の意識に割り込んでくるようになった。
それは、雨の日だった。
灰色で重たい雲が空を覆い、冷たい雨がアスファルトを叩いていた。私は大学の帰りで、お気に入りの赤い傘をさして、いつもの道を歩いていた。もうすぐ家だ、お父さんが帰ってくる前に夕飯の準備をしなくちゃ、なんて考えながら。
その時だった。
角を曲がった瞬間、小さな影が私の足元から車道へ飛び出したのは。
びしょ濡れの子猫だった。か細い声で「ミィ、ミィ」と鳴きながら、迫ってくる車のヘッドライトに怯えて、その場にうずくまってしまった。
―――ダメだ。
そう思った瞬間、私は傘を放り投げて、子猫に向かって駆け出していた。
クラクションの鋭い音。
誰かの叫び声。
そして、ドン、という鈍い衝撃と、全身を襲う激しい痛み。
でも、腕の中には確かに、小さな、震える温もりがあった。
(…よかった、間に合った…)
雨が、私の顔を濡らしていく。それが雨なのか、それとも違うものなのか、もう分からなかった。意識が急速に遠のいていく中で、最後に見たのは、誰かがその子猫をそっと抱き上げる姿だったような気がする。そして、その子猫の片方の前足だけが、雨に濡れても分かるくらい、くっきりと白かったこと。耳の先が、ほんの少しだけ、赤く染まっていたこと…。
「……っ!!」
私は、霊体のはずなのに、息が詰まるような感覚に襲われた。
そうだ、思い出した。私は、あの時、死んだんだ。あの子猫を助けて、車にはねられて。
「う、うわあああああああ!!!」
言葉にならない叫びが、私の魂から迸った。
お父さん。お父さん、ごめんなさい。私、お父さんを一人残して、死んじゃったんだ。あんなにあっけなく。
「葵様、落ち着いてくださいまし!」
コユカシ案内人の慌てたような声が、遠くで聞こえる。でも、今の私には何も届かない。
後悔と、悲しみと、そして何よりも、男手一つで私を育ててくれたお父さんへの申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。
どうして、もっと周りを見なかったんだろう。どうして、あんな無茶なことを。
あの子猫は助かったかもしれない。でも、私は? お父さんは?
コユカシを集める意味なんて、もうどうでもよかった。
ただ、拭えない罪悪感と、どうしようもない喪失感が、私という存在そのものを押しつぶそうとしていた。
温かいはずのコユカシ手帳が、今は鉛のように重く感じられた。