第6話「カバンがずっと鳴ってるおじさん」
コユカシ集めの旅も、そろそろ第Ⅰ部がクライマックス、といったところだろうか。案内人曰く、私のコユカシ手帳もだいぶ賑やかになってきたらしい。色んなおじさんに出会って、色んな「かわいい」の形があることを知った。今日の私は、朝の通勤電車に揺られている。満員電車というのは、おじさんたちのコユカシが密集している、ある意味ボーナスステージみたいなものだ。
そんなことを考えていたら、ふと、私の近くに立っている一人のおじさんのカバンから、控えめだけど、でもはっきりと、一定のリズムで「ピコン、ピコン」という電子音が鳴り続けているのに気づいた。鐘山通男さん、と手帳が教えてくれる。少しやつれたような、物静かな印象のおじさんだ。
鐘山さんはその音にハッと気づき、「おっと、いけない。マナーモードにし忘れていたか…」と内心慌てているのが見て取れる。彼はそっとカバンに手を入れ、スマホを取り出そうとごそごそし始めた。しかし、なかなか出てこない。手帳、メガネケース、なぜか一本だけ入ったバナナ…。そんなものばかりが顔を出し、肝心のスマホはカバンの奥底らしい。
(あー、こういう時って焦るよね…わかるわかる…)
私も少しハラハラしながら見守っていると、ようやくスマホらしきものを取り出した鐘山さん。しかし、ここからが彼の真骨頂(?)だった。
慌てて画面をタップするのだが、どうやら操作を誤ったらしく、次の瞬間、「ピコーン!ピコーン!」と、さっきよりも明らかに大きな音で通知音が車内に響き渡ったのだ!
鐘山さん、顔面蒼白。まさに「しまった!」という表情で固まっている。周囲の乗客たちの視線が一斉に彼に突き刺さる。特に、鐘山さんのすぐ隣に立っていた制服姿の女子高生は、露骨に眉をひそめ、大きなため息をついてイヤホンの音量を上げた。
「(ああああ、なんで音大きくなっちゃうのぉぉ!?)」という鐘山さんの心の叫びが、私には痛いほど伝わってくる。
さらにパニックになった彼は、今度は間違えて音楽再生アプリを起動してしまったらしく、一瞬だけ「♪テッテテッテッテッテ~!」と、昔懐かしい陽気な着メロ(しかもフルボリューム)が流れそうになり、慌てて画面をめちゃくちゃにタップして何とか止めた。もはやコントだ。
(おじさん、落ち着いて…!深呼吸、深呼吸だよ…!)
私は心の中で必死に応援するしかなかった。
次の駅に着くと、鐘山さんは顔を真っ赤にしたまま、文字通り転がるようにして電車を降りていった。その背中は、先ほどの陽気な着メロとは裏腹に、世界の終わりみたいな哀愁を漂わせている。
私も、やっぱり彼のことが気になって、ふわりと後を追った。
ホームの端で、鐘山さんはぜえぜえと肩で息をしながら、ようやくスマホの画面をじっと見つめている。そこには、奥様の命日を知らせるリマインダーと、彼女からの最後のLINEメッセージがポップアップしていた。「おはよう、今日も一日頑張ってね」という、ありふれた、でも彼にとってはかけがえのない言葉。
そう、あの鳴りやまなかった(そして彼が盛大に音量アップしてしまった)通知音は、年に一度だけ、この日のこの時間に届く、亡き妻からの最後のメッセージを知らせる音だったのだ。
彼は、そのメッセージを何度も何度も読み返し、そして、スマホの画面をそっと胸に抱きしめた。その目には、うっすらと涙が滲んでいる。さっきまでのドタバタ劇が嘘のように、静かで、深い愛情だけがそこにはあった。
その瞬間だった。
鐘山さんの全身から、さっきまでの慌てっぷりとは対照的な、とても穏やかで、でもどこか切なくて、そして限りなく優しい、朝露のように澄んだコユカシが、とめどなく溢れ出してきたのだ。それは、おっちょこちょいな彼の不器用さと、その奥に隠された深い愛情が混じり合った、なんとも言えない愛おしい輝きだった。
『ピコピコリーン♪ 大量の、そして非常にチャーミングなコユカシを抽出しました!』
手帳が、なんだか楽しそうに光っている。
(あんなにパニクってたのに…本当は、すごくすごく大切なメッセージだったんだね)
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(奥さんも、天国で「あなたったら、またやらかしてるわね」って、笑いながら見てるかもしれないな)
手帳に記されたのは、スマホを手に少し涙ぐみながらもホッとした表情の鐘山さんの似顔絵と、「着信音はフルボリュームで愛を叫ぶ(本人は不本意)」という文字。そして、キラキラした音符のマークが、彼の周りを飛び交っていた。
おじさんのドタバタは見ていてハラハラしたけど、その根底にある想いの深さに触れられたなら、それはやっぱり最高のコユカシだ。
私はそう信じながら、少しだけ軽くなったような鐘山さんの背中を見送った。コユカシ集めの旅は、まだまだ奥が深い。