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第4話「板挟みおじさんと、満員電車の攻防」

コユカシ集めにもだいぶ板についてきた(と自分では思っている)私、葵。おじさんたちの日常に潜む「コユカシの原石」を見つけるプロになりつつある(自称)。今日のお目当ては、オフィス街。スーツ姿のおじさんたちが忙しなく行き交うこの場所なら、きっと新たなコユカシとの出会いがあるはずだ。


そんな期待を胸にオフィスビルの一角をフワフワと漂っていると、一人の男性に目が留まった。押野譲さん、と私のコユカシ手帳が教えてくれる。年の頃は四十代後半といったところだろうか。少し猫背気味の背中、心なしか薄くなっている頭頂部、そして何より、その困り果てたような眉毛が印象的だ。彼は自分のデスクで山積みの書類と格闘している真っ最中だった。


「押野課長~、すみませーん!このデータ、今日の17時がデッドラインだったの、すっかり忘れてまして…今からじゃ到底…うわーん!」

若い女性社員が、半泣きで押野さんのデスクに駆け寄ってきた。押野さんは一瞬「ええっ!?」と目を丸くしたが、すぐに人の良さそうな笑顔(若干引きつっている)を浮かべて、

「あー、大丈夫、大丈夫!そういうこともあるよ。うん、ここは私がなんとかしておくから、気にしないで他の仕事進めちゃって!」

「本当ですか!?ありがとうございます、課長!大好きです!」

女性社員は満面の笑みで去っていく。押野さんは力なく「ど、どういたしまして…」と呟き、自分の頭を抱えていた。「(内心:うーん、定時は遠のいたけど…まあ、彼女が助かるなら仕方ないか…!)」


間髪入れずに、今度は内線電話が鳴る。相手は上司らしい。

「押野くんかね?例のA社へのプレゼン資料だが、明日の朝イチで最終版を提出するように。ああ、もちろん、今日中に仕上がっているとは思うが、念のためだ、念のため!」

ガチャン、と一方的に切れる電話。押野さんは受話器を置いたまま、しばらく虚空を見つめている。「(内心:今日中かぁ…厳しいけど…やるしかない、みんなのために!)」


さらに追い打ちをかけるように、隣の部署の同期らしき男性がひょっこり顔を出す。

「よう、押野!悪いんだけどさ、うちの部の新人歓迎会の会場予約と案内状作成、お前に任せてもいいか?俺、今日ちょっと外せない用事があってさー。お前、そういうの得意だろ?」

外せない用事、とやらは、どう見てもポケットからのぞく映画のチケットだ。押野さんは一瞬言葉に詰まったものの、

「え、ええー…まあ、いいけど…(小声で)今日は早く帰りたい用事が…あったんだけどなぁ…」

「サンキュ!助かるわー!」

同期は押野さんの肩をバンバン叩いて去っていく。押野さんは大きなため息をつき、天を仰いだ。


(このおじさん、聖人か何かなの…?それとも、ただの断れないお人よし…?どっちにしても、コユカシの気配がすごい…!)

私の手の中の手帳が、じんわりと熱を帯びてきている。これは良質なコユカシが期待できそうだ。


夕方。すっかりやつれ果てた押野さんが、よろよろとオフィスビルから出てきた。手には抱えきれないほどの紙袋。きっと、持ち帰りの仕事だろう。

彼が乗り込んだのは、悪名高き帰宅ラッシュの満員電車。案の定、彼は人の波にもみくちゃにされ、まるでピンボールの玉のよう。メガネはあらぬ方向にずれ、カバンから買いたてのネギがこんにちはしかけている。

「(うぅ…毎日がサバイバルだ…)」

押野さんの悲痛な心の声が、私にも伝わってくる。


数駅進み、運良く座席が一つ空いた。押野さんはほっとした表情でそこに滑り込む。しかし、彼の受難は終わらない。

すぐに、彼の両隣に座った若いサラリーマンと、爆音で音楽を聴いているであろう派手なヘッドホンの学生が、まるで示し合わせたかのように、押野さんの両肩にコテン、と頭を預けてきたのだ。それも、がっつりと。

押野さん、完全に「サンドイッチ」状態。身動き一つ取れず、まるで石膏像のように固まってしまった。

「(お、重い…!そして、右肩からは寝息、左肩からは重低音がズンズンと…これが都会のハーモニーか…!)」

彼は降りたい駅が近づいても、両隣の安眠を妨害する勇気が出ず、ただひたすら耐えている。時折、右隣のサラリーマンが「ぶ、部長…あの案件は…むにゃむにゃ…」と寝言を言うと、押野さんは「(…心中お察しいたします…!)」と心の中で力強く頷き、左隣の学生のヘッドホンから漏れる激しいビートに合わせて、指先だけが小さくリズムを刻んでいる。その姿は、もはや一種のパフォーマンスアートのようだ。


(このおじさん、優しすぎるにも程がある…!でも、そのどうしようもないお人よしっぷりが、なんだか…愛おしいかも…)


ようやく隣の席のどちらもが降りていき、押野さんは解放された。しかし、彼のくたびれたスーツの両肩には、くっきりと他人の寝癖と、うっすらと…何かの跡が。彼はそれをハンカチでこっそり拭うが、あまり効果はないようだ。そして案の定、自分の降りる駅を一つ通り過ぎてしまい、慌てて次の駅で反対側のホームへと向かうのだった。


ホームのベンチに力なく座り込んだ押野さん。その姿は、戦い終えた戦士のように疲労困憊している。彼がカバンをごそごそと漁り、取り出したのは一枚の折りたたまれた画用紙だった。ゆっくりとそれを広げると、そこにはクレヨンで描かれた、お世辞にも上手とは言えないけれど、愛情だけはたっぷり詰まった彼の似顔絵と、「ぱぱ いつもありがとう だいすきだよ」という、少し拙い文字が並んでいた。

押野さんは、その絵をじっと見つめた。そして、疲れ切った彼の顔に、本当にほんの一瞬だけ、ふわりと柔らかい、優しい笑みが浮かんだ。


その瞬間。

押野さんの全身から、まるで陽だまりのような、温かくて柔らかいコユカシが、ふわぁっと立ち上ったのだ。

『ピコン♪ 大量のコユカシを抽出しました!』

手帳が、これまでで一番明るい光を放っている。


(そっか…このおじさんの優しさは、誰にも気づかれないかもしれないけど、ちゃーんと、一番大切な人には届いてるんだ)


板挟みになるのも、満員電車でサンドイッチにされるのも、きっと彼の「断れない優しさ」のせい。でも、その優しさが、巡り巡って、こんなにも温かい「だいすき」に変わるなら。

それは、やっぱり最高のコユカシなんだろうな。


私は、少しだけ軽くなったような押野さんの背中を見送りながら、手帳に新しく記された「満員御礼!みんなの肩代わり地蔵」という、我ながら秀逸なコユカシ名に、そっと微笑んだ。

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