エピローグ
葵がいなくなってから、どれくらいの時が経ったのだろうか。
世界は、彼女がいた頃と何も変わらず、いつものように回り続けている。
太陽は昇り、人々は忙しなく街を行き交い、そしてまた、夜が来る。
駅前の雑踏の中、ポケットから鍵束を落として慌てているおじさんの姿は、今日もどこかで見られるかもしれない。
ファミリーレストランでは、高峰さんが相変わらず家族LINEで新しい(そしてやっぱり少しズレた)スタンプを送信し、娘さんを困惑させつつも、その真剣な横顔は変わらない。
美容室の窓には、流行りのヘアスタイルを特集したポスターが貼られ、坂本さんのような次なる挑戦者が、期待と不安を胸にドアを開ける日もあるだろう。
オフィス街では、押野さんが今日も誰かのために自分の仕事を後回しにし、満員電車で優しさのサンドイッチになっているかもしれない。それでも、カバンの中の小さなお守りが、彼の心を支えている。
デパートのスイーツ売り場では、奥田さんのように、大切な人を喜ばせようと真剣な顔でショーケースを睨むおじさんが、きっといるはずだ。その想いが、たとえ少し空振りしたとしても。
そして、朝の通勤電車では、鐘山さんのように、誰にも言えない大切な想いを胸に、窓の外を眺めているおじさんも。
公園の陽だまりの中では、白い靴下を履いたような父猫が、新しい家族と共に穏やかな時間を過ごしている。誰かがそっと置いた水の皿は、いつも綺麗だ。荒田さんの姿は、やはりもう見えない。彼がどこで何をしているのか、あの咳はどうなったのか、知る者はいない。けれど、彼が残した確かな温もりは、猫たちののどを鳴らす音の中に、今も息づいている。
日常は、そんな風に続いていく。
葵が集めたコユカシ手帳の記録は、もう誰の目にも触れることはないかもしれない。
けれど、ふとした瞬間。
例えば、若い女性が、カフェで一生懸命小さな文字のメニューを読もうと眉間にシワを寄せているおじさんを見て、思わずクスッと笑ってしまう。
あるいは、子供が、公園で一人ハトに餌をやっている、少し寂しそうだけど優しい目をしたおじさんに、手を振ってみる。
誰かが、どこかで、「あのおじさん、なんだか面白いな」「あのおじさん、ちょっとかわいいかも」と、心の中でそっと呟く。
そう、コユカシは、葵がいなくても、この世界のあちこちに、今もちゃんと存在している。
誰かが見つけてくれるのを、静かに待っている。
それは、道端に咲く小さな花のように、ありふれているけれど、気づけば心を温かくしてくれる、ささやかな輝き。
だから、もしあなたが明日、街を歩いていて、ふと目に入ったおじさんの姿に何かを感じたなら。
それは、新しいコユカシとの出会いかもしれない。
おじさんは、かわいいかもしれない。
そして、その小さな発見が、あなたの世界を、ほんの少しだけ、優しく彩ってくれるかもしれないのだから。