第10話「言えなかった言葉、お父さんのカレーライス」
自分の死の瞬間を思い出してからというもの、私の心はまるで鉛を飲み込んだみたいに重たかった。コユカシ集めなんて、もうどうでもいい。ただひたすらに、お父さんへの申し訳なさで胸がいっぱいだった。男手一つで、あの不器用な愛情で、私をここまで育ててくれたお父さんを一人残して逝ってしまった。その事実が、鋭い棘のように私を苛み続けていた。
そんな私の状態を察してか、コユカシ案内人は最近やけに静かだ。時折、心配そうに私の周りをフワフワと漂っては、ため息のような光のまたたきを残して消えていく。
何もする気になれず、ただ街を漂っていると、ふいにカレーの匂いが鼻をかすめた。どこかの家庭の夕食なのだろう。その途端、私の脳裏に、お父さんの作るカレーライスが鮮明に蘇ってきた。
お父さんのカレーは、いつも少しだけ味が濃くて、ジャガイモやニンジンは不格好なほど大きかった。お肉だって、特売の日にまとめて買ってきた豚コマ切れ肉がドサッと入っているだけ。中学生の頃、友達の家で食べたオシャレな欧風カレーと比べて、「うちのカレーって、なんか茶色いよね」なんて、失礼なことを言ったこともあったっけ。
お父さんは、それを聞いても怒りもせず、「そうか?でも、栄養は満点だぞ。葵がたくさん食べるように、愛情もたっぷり入れてるからな!」なんて言って、豪快に笑っていた。その笑顔が、今になってやけに眩しく思い出される。
あの頃の私には分からなかった。あの不格好な野菜は、不器用なお父さんが一生懸命皮を剥いて、慣れない手つきで切ったものだったこと。少し濃いめの味付けは、汗水たらして働いて帰ってきたお父さんの、ささやかな楽しみだったのかもしれないこと。そして何より、そこには本当に、お父さんのありったけの愛情が込められていたこと。
(お父さんのカレー…もう一度食べたいな…今なら、世界で一番美味しいって、ちゃんと「美味しいね」って言いながら、大盛りでおかわりするのに…)
カレーの記憶を皮切りに、お父さんとの思い出が、まるで堰を切ったように溢れ出してきた。
高校生の頃、進路のことで大喧嘩した日。私は「お父さんには私の気持ちなんて分からない!」と一方的に怒鳴って部屋に閉じこもった。ドアの向こうで、お父さんが何度も「葵…」と声をかけてきたけど、私は無視し続けた。次の日、気まずい雰囲気のまま家を出ようとした私に、お父さんは黙って新しいシャーペンと、「頑張れよ」とだけ書かれた小さなメモを渡してくれた。あの時、私は「ありがとう」の一言も言えなかった。
大学の入学式の日。少し大きめのスーツを着て、緊張している私を見て、お父さんは「立派になったなぁ」と、目を細めて何度も言っていた。その時の、少し潤んだ瞳。私は照れくさくて、「もう、やめてよ」なんてそっけない返事しかできなかった。
思い出せば思い出すほど、後悔ばかりが募る。
どうして、もっと素直になれなかったんだろう。
どうして、「ありがとう」と「ごめんなさい」を、ちゃんと言葉にして伝えなかったんだろう。
お父さんの不器用な優しさに、どうして気づかないフリをしていたんだろう。
(お父さんに会いたい…)
その想いが、胸の中でどうしようもなく膨れ上がっていく。
(声が聞きたい。あの不器用な笑顔が見たい。そして、伝えたい。ごめんなさいって、ありがとうって…)
でも、私はもう、この世にはいない。触れることも、声を届けることもできない、ただの霊体だ。その現実が、冷たい刃物のように私を切り刻む。
涙なんて流せないはずなのに、心の底から嗚咽がこみ上げてきて、私はその場にうずくまりたくなった。でも、それすらできない、このフワフワとした頼りない体。
「お父さん…お父さん…!」
その時だった。
私の手の中にあるコユカシ手帳が、ふいに淡い光を放ち始めた。これまで集めたおじさんたちのコユカシが記録されたページが、パラパラとひとりでにめくれ、それぞれが宿す小さな光が、まるで私を慰めるかのように、優しく明滅している。
ポケット散乱おじさん、スタンプ求道者のおじさん、韓流マッシュに夢見たおじさん、板挟みで頑張ってたおじさん、奥さんへのサプライズに空振りしたおじさん、そして、電車で亡き奥さんを想っていたおじさん…。
彼らの、不器用だけど一生懸命な姿。その奥にあった、切なくて温かい想い。
(みんな…みんな、誰かのために、何かを想って、一生懸命だったんだ…)
手帳の光を見つめていると、ほんの少しだけ、胸の痛みが和らぐような気がした。
それでも、お父さんに会いたいという気持ちは、少しも変わらないけれど。
「葵様…」
いつの間にか隣にいたコユカシ案内人が、静かな声で私に語りかけた。その声は、いつもの胡散臭さが少しだけ薄れて、どこか優しく響いた気がした。