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あなたは、わたしの知らないあなた

作者: 安曇ミナミ

あなた、わたしの知らないあなた。

静かな夜、あなたは、こういった。

「ぼくは異世界から来たかもしれない」


蝋燭の炎が、天井をやわらかに照らしていた。

パチ、という乾いた音を立てて薪がはぜ、あなたの影が壁をかすかに揺らす。

わたしたちは、向かい合って横たわるには狭すぎる寝台に、背を向け合って眠るのがいつもの習わしだった。

でもこの夜だけは、あなたが背を向けなかった。

わたしもまた、眠るふりをしなかった。


「ぼくは異世界から来たかもしれない」

あなたはそう言った。声は静かで、まるで長い間秘めていた告白のようだった。

「どうして、そんなことを言うの」

わたしは、そう問いかける。優しく、でも少しだけ怖れながら。


あなたは、目を閉じたまま、微笑んだ。

「君と過ごしたこの時間が、

 そのことを話しても話さなくてもいいことにした。

 どちらもでいい、そういうことにしてくれたんだ。

 だから、自然と、口をついて出たんだと思う」


あなた、わたしの知らないあなた。

わたしは、ずっと前から知っていた。

あなたが、わたしの知らない季節を知っていることを。

わたしの知らない街の匂いを、言葉を、音を知っていることを。

わたしがこの世界で一度も見たことのない色を、あなたの目が映していた。


「故郷では、春になると花が咲くんだ。淡いピンク色の。たった数日のあいだだけ、町中がその花に染まる」

「どんな花なの」

「風に吹かれて散るときが、一番きれいだよ。……まるで、雪みたいに」

「雪なら、わたしも知ってるわ」

「そうだね。でも、あれとはちょっと違う。あたたかくて、せつなくて、そして……なぜだか、懐かしいんだ」


あなた、わたしの知らないあなた。

馬にうまく乗れずに困っていたあなた。「足をかける場所がない」と、あなたは戸惑っていた。

わたしは、あなたの言葉を絵にして、鍛冶屋に見せた。

いまでは、それが当たり前になって、

村人たちは微笑みながら言う。「あの人の国では、乗り方も違うんだ」と。


わたしはあなたの横顔を見つめた。暖炉の光が揺れるたび、あなたの表情が変わる。故郷を思う瞳には、わたしの知らない世界が映っている。


あなた、わたしの知らないあなた。

あなたが語るたび、この小さな部屋の中に、知らない国の空気が流れ込む。

石の壁のすきまを抜けて、あなたの語る花の匂いがした気がした。甘くて、どこか儚い香り。


「教えて」とわたしは言った。「あなたの世界のことを、もっと」


そしてあなたは、ゆっくりと、目に見えない記憶をたぐり寄せるように話し始めた。電気という光、車という馬のいない馬車、空を飛ぶ鳥よりも大きな鉄の箱。そして、一年に一度だけ、街中の木々が一斉に花開く祭りのこと。そして「写真」というもの。

「一瞬の時間を閉じ込める魔法みたいなものだよ」

「それは魔術師だけが使えるの?」

「いや、ぼくの国では、誰もが持っている」

信じがたい話だった。でも、あなたの声には嘘がなかった。


わたしはあなたに恋をして、

あなたもきっと、わたしに似た感情を持ってくれた。

けれどわたしたちは、言葉でそれを確かめ合うことは、もうしなくなった。

かわりに、こうして同じベッドに入って、夜のしじまにまかせて心をほどく。


「帰りたい?」と聞いた。


あなたは長い間黙っていた。

「もう、帰る場所はないんだ」


あなた、わたしの知らないあなた。

異世界から来たあなたは、今、わたしの世界にいる。

わたしたちの間には、見えない川が流れている。

けれど、その川に橋をかけようとしている。


「あなたの国の名前は?」と、わたしは尋ねた。

あなたは優しく微笑み、耳元でささやいた。

わたしはその音を何度も繰り返した。舌に馴染まない、不思議な響き。

でもそれは今、わたしの大切な言葉になった。


蝋燭の灯りが弱まり、部屋が暗くなっていく。


「おやすみ」とあなたは言った。わたしの国の言葉で。

「おやすみ」とわたしも返した。あなたの国の言葉で。


二つの世界の間で、わたしたちは静かに呼吸を重ねる。

明日も、あなたの知らない言葉を教えよう。

そして、あなたの国の言葉をもっと覚えよう。


その夜、あなたは初めて、わたしに背を向けずに眠った。

わたしはあなたの呼吸が深くなるまで、異界の夢を見る人の横顔を見つめていた。その頬に、風に舞う淡いピンク色の花びらが降り注ぐ様を想像しながら。


わたしたちの小さな家は、

二つの世界が出会う、

小さな異界となった。

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